重い気持ちは吹き飛ばしましょう
あれからどうやって公爵邸に戻ったか、記憶はしっかりしても気持ちは空を浮いているような感じだった。
何も発さず、動きもしない自分にやっと諦めてくれたのかベルンハルドが離れた瞬間、これ以上話すことも聞くこともないからと走り出した。背後から届く叫び声すらどうでも良かった。
歓迎会真っ只中だろうが何もかもどうでも良かった。
一頻り走った後、乱れる呼吸を整え、校門を出た気がする。学院から屋敷は徒歩で帰れない距離じゃなかったのが幸いした。
歓迎会の存在は今朝ケインからも聞かされていた公爵家の門番は、徒歩で帰って来たファウスティーナを見て喫驚した。2人を迎える馬車が準備を始めたばかりだったのもあり無駄にはせずに済んだが、それよりもファウスティーナが1人歩いて帰宅したことが問題だった。
門番にリンスーを呼んでくるよう伝え、母やエルヴィラには内密にと屋敷へ飛んで行ってもらった。
呼ばれたリンスーはすぐに飛んで来た。
「お嬢様! どうなされたのです!? 何故歩いて帰ったのです、それに今は歓迎会の最中じゃ……」
「……ごめんリンスー。思ったより疲れたの。部屋で休みたい」
「! はい。すぐにご用意します!」
心の底から思う。
ああまでしてエルヴィラを好きだと、愛していると認めない彼に憎しみすら抱いてしまう。何故認めない、何故エルヴィラを愛さない。
エルヴィラを愛せば、ベルンハルド自身も無駄な苦悩を抱えることはなく幸福になれるのだ。なるかまだ不明だが“運命の恋人たち”になれば、王国一の幸福を与えられる。
自分から幸せになるのを拒むベルンハルドの心情が理解不能。
最後まで苦しい思いを抱え生きていくのはファウスティーナだけになるのに。自分でも呆れてしまう、エルヴィラを全否定して抱き締めてくれて喜ぶ自分がいることに。白い喜びじゃない、仄暗く綺麗とは程遠い喜びだった。
リンスーに支えられる体で邸内を歩き、私室へと目指す。どうか途中で面倒な人達に会いませんようにと願わずにはいられない。幸いにもファウスティーナの願いは届いた。部屋に入ると倒れ込むようにベッドに横になった。制服のままだがそれすらどうでも良く、兎に角横になりたかった。予備の制服はあるので、今着ているのが皺になっても問題ない。
「お嬢様……ハーブティーをお持ちしましょうか?」
「ううん……冷たいのがいい」
温かい飲み物を飲むより、冷たい飲み物で気持ちを落ち着かせたい。リンスーが下がったのを確認して仰向けになった。
途中で抜け出したのを周囲の生徒達だって見ていた。ベルンハルドが1人戻ったら、どんな噂が立てられるか。考えられるのは、貴族学院に入学しても変わらず王太子に嫌われているせいで碌に話も聞いてもらえず逃げ帰ったとされるのがオチか。
深い溜め息を吐いたファウスティーナはリンスーに申し訳なさを抱きつつ、眠ってしまおうと瞼を閉じかけた時。今朝、書庫室で見つけて読んでいた本の存在を思い出す。
濃い青色のブックカバーに金糸で題名が刺繍された本。
『愛に狂った王太子』
題名的に悲劇物かと思うも、妙に惹かれる本を気付いたら手に取っていた。今朝はリンスーが起こしに来るまでだったので数ページしか読めていない。早く帰って寝ても疲れそうなので、本でも読んで気分でも紛らわせよう。
体を起こしたファウスティーナは机に置いていた本を持ってソファーに座った。
物語の中心人物は3人。主人公は公爵家の娘。1歳上の姉がおり、その姉の婚約者である王太子が主人公の恋の相手であった。
婚約者がいるくせに妹に懸想する最低男かと思いきや、王太子が妹に恋をするのは仕方なかった。
主人公の姉は生まれた時から王太子の婚約者だった。これがまたかなり性格の悪い姉で、自分より容姿も才能も優れた妹を陰で虐め抜く。ファウスティーナもびっくりの性悪だ。婚約者の前では猫を被るも、主人公が来ると本性を露わにし主人公を邪険にする。
読んで疲れが増えた。これでは以前の自分ではないかと。
「もしかして、誰か私をモデルにして執筆した……? な、訳ないか。王族との婚約は高位貴族では珍しい話でもないし、生まれた時からの婚約も別段珍しくもない」
自分が知らないだけで案外、身内に婚約者の心を奪われる人は少なくないのかもしれない。
ただ、題名が引っかかる。
すると扉が小さく叩かれた。どうぞ、と返事をするとトレイに持ったリンスーが戻った。
「お嬢様。起きていらしたのですね。眠っているかと思いました」
「そんなことないよ。それは?」
本当は眠ってしまおうかと過ったのは内緒。ファウスティーナはトレイに乗せられた飲み物に興味津々となった。
「お嬢様の部屋を出た時、丁度カインと会いまして。お嬢様がまだ戻ってないのに部屋から出て来た私を怪訝に思ったらしく。事情を説明したら、オレンジティーを作ってくれました」
「美味しそう! 早速、頂くわ」
琥珀色の飲み物の中にスライスされたオレンジが3枚入れられたグラスに口をつけ、傾けて口に通した。仄かに香るオレンジが爽やかな味わいを提供してくれる。気分が重い今のファウスティーナには有難い飲み物。グラスから口を離してジュード君は? と訊ねた。
「神官様でしたら、司祭様宛にお手紙を書いておりました。お嬢様が戻ったことは伝えましたが、お疲れのようでしたので後程お呼びすると私の勝手な判断ですがさせていただきました」
「ありがとうリンスー。今はその方が有難いよ」
疲れた顔を見られれば、必ず心配をされる。
もう1度オレンジティーで喉を潤す。
お互い、リュドミーラやエルヴィラの話題は敢えて出さなかった。
今の時間だとエルヴィラは家庭教師との勉強の最中だろうし(真面目に受けていたらの話)、母は知らない。
「この後はどうされますか?」
「今朝見つけた本の続きを読むよ」
「では、お代わりが欲しくなったら何時でも言ってください」
「うん」
グラスをテーブルに置いて本に視線を戻した。
時折、オレンジティーのお代わりをリンスーに頼む以外は本を読み続けた。
中々に分厚さのある本で気付くと空の色が夕焼けに染まっていた。
集中して読んでいたせいで体が硬くなってしまい、思い切り伸びをした。
小さく欠伸をすると誰かが扉を叩いた。リンスーが対応すると「お嬢様、ケイン様です」と振り向いた。あ、と思ったファウスティーナは部屋に入ってもらった。
立とうとすると「いいよ、座ったままで」と制された。
「途中で帰ったと聞いたから心配したよ。俺も早く帰ろうかなって思ったんだけど」
「お兄様はお仕事があるので仕方ありません」
「どうしたの? 具合でも悪くなった?」
正直に話しても、誤魔化しても、心配されるだけなら負担が少ない方が良い。
「人の多い場所に行ったのが久しぶりなせいで人に酔ってしまったみたいで……」
「そう……。殿下がファナが先に帰宅したと言いに来た時はビックリしたけど、そういうことなら仕方ないね」
「……殿下が?」
あの後ベルンハルドは、ケインのいる場所まで足を運びファウスティーナは体調が悪そうだから先に抜けると伝えたとか。彼自身、歓迎会に戻らず帰ってしまったらしい。
「そう、ですか」
「……ねえファナ、殿下と何かあ――」
ケインが何かを言いかけた時、次の訪問者がやって来た。ケインの時と同じくリンスーが対応すると相手はリンスーを押し退けて部屋に入った。
「お母様?」
相手はリュドミーラだった。
勢いよく入ったはいいものの、居心地が悪そうに視線を泳がせている。手に小さな箱を持っており、それとファウスティーナを何度も交互に見る。突然やって来てこの人は何をしたいのかと不思議に見ていると、意を決したのかリュドミーラは箱を開け中身を見せてくれた。
「今日の朝に見せようと思ったのだけれど……」
リュドミーラが見せてくれたのは、匠が作ったと思われる繊細な飾りが施された薔薇のブローチだ。麗しい赤い薔薇を形取ったブローチは見ただけで高価な品と頷ける。
「あ、あなたから見てどうかしら」
「素敵なブローチだと思います」
ファウスティーナの感想を聞いてどうするのか。返答に安堵したリュドミーラが次の言葉を発する前にファウスティーナは言った。
「エルヴィラに渡すブローチを私に見せなくても、お母様が贈る物は何でも喜ぶのですから本人に渡したらどうです?」
「え……」
「?」
そう、不思議だった。
態々エルヴィラに渡すブローチをファウスティーナに見せるか。
麗しい赤い薔薇と清廉を象徴する白いレースで作られた髪飾り。黒髪によく映える姿が頭に浮かぶ。
心底分からないと聞くとリュドミーラの表情から安堵は消え、周章し始めた。
事実を言い当てられるとは考えもしなかったから? どんな嫌がらせだ、と小さく溜め息を吐いた。
「ち、違うわっ、これは――」
本日、3度目の訪問が扉から発せられた。可笑しくなり始めた空気の中でもリンスーは侍女としての仕事を忘れない。
「お嬢様。王家から贈り物が届いたみたいです」
「あ……」
忘れていた。ベルンハルドが今度の王宮舞踏会でファウスティーナにドレスを夕刻に着くよう手配したと言っていたのを。
「今行くわ。お母様、行ってもよろしいですか?」
「……ええ……」
茫然自失とした状態で頷かれた。ちゃんと聞こえているのかも怪しい。エルヴィラに贈るブローチの感想をファウスティーナに求めるほど、喜んでもらえる自信がなかったのか? そんな筈はない。自分には全く似合わない色を押し付けるが、エルヴィラのファッションにだけは全力を注ぐ母がミスをするなどファウスティーナの中ではあり得ない。
はあ、と呆れたように息を吐いたケインもファウスティーナに付いて来た。
1人残されたリュドミーラをリンスーに任せ、玄関ホールへと向かった。
城からの使者は既に帰っており、カインがトリシャとミントにファウスティーナの部屋へ運ぶよう指示をしていた。
「それが届いたの?」
ファウスティーナが声を掛けると彼等は頷いた。
「今からお嬢様のお部屋に運びますね」
「いや、貴重品部屋に運んで」
待ったをかけたのはケインだった。
「私の部屋で問題ないではありませんか」
「王家からの大事な贈り物だ。粗相があったらいけないからね、厳重に守られている貴重品部屋の方が安全だよ」
「お兄様は私のことをちょっとは信用しても良いのでは!?」
いくらファウスティーナでも、王家から届いた荷物に粗相はしない。
ケインは違う、と首を振った。
「万が一の為だよ」
「?」
基本無表情なケインだが、数段冷気を増した顔をすると末恐ろしく感じる。派手に感情を露わにしていたリュドミーラやエルヴィラとは大違い。
ケインの発言に思うところがあったのか、カインは何も言わずトリシャとミントに貴重品部屋へ行くよう指示をした。部屋の開け方を知っている彼も行ってしまった。
トリシャに去り際「……すみません、ファウスティーナお嬢様」と謝罪され目を丸くした。
彼女に謝られることは何もされていない。寧ろ、謝るのはファウスティーナの方だ。教会で生活をする前はよくエルヴィラを抑えられない彼女に八つ当たりしていたのだ。
どうしてエルヴィラを部屋にいさせられないのか、と。暴走を止められないのはトリシャだけのせいじゃないのに。彼女だけが悪いように責め立てた。
ファウスティーナの怒声を聞き付けたリュドミーラに叱られるのもお馴染みとなっていた。
「お嬢様。お部屋に戻りますか?」
リュドミーラを頼んでいたリンスーが玄関ホールまで来た。
「お母様は?」
「お部屋に戻られました」
「一体、何をしに来たのかしらね。エルヴィラと喧嘩でもしたの?」
「いいえ、普段通りでしたよ」
「そっか。じゃあ……本当に何だったんだろう」
「あ、贈り物といえば、教会からもお嬢様宛に入学祝いと届いていますよ」
「本当に?」
「はい。カインが貴重品部屋に置いてくれました」
「さっき行ったばかりだから、今から向かえばまだ間に合うかな」
貴重品部屋の入り方は複雑で、入室方法を知るのも当主であるシトリンの他には執事長といった信頼の置ける数人だけ。
「閉まってても俺が開け方を知ってるから、心配しないでいいよ」
「さすがお兄様です!」
「ファナも覚える? ファナなら、教えてもいいよ」
「本当ですか?」
跡取りであるケインが知るのも納得だ。
隠しておきたい物があった時、貴重品部屋の開け方を知っている方が得だと舞い上がった瞬間――
「嘘だよ」
「……」
変わらない無表情で告げられた。
「お兄様は私を騙して楽しいですか!?」
「反応がいいからね」
「今度から無反応でいます!」
「無理だよ、ファナだし」
「どういう意味ですか!?」
食ってかかると鼻を人差し指で押された。
半眼になって豚の鳴き真似をした。
「すごいねファナ。俺が知ってるどの人よりも豚の鳴き真似が上手だよ」
「全然嬉しくありません!」
ベルンハルドと会話をして抱いていた暗い気持ちはどこかへ吹き飛んだ。
心は軽くなったがケインのお陰だと言うのも癪なのでぷりぷり怒りながら貴重品部屋を目指した。
「あ、カイン!」
扉を閉める寸前のカインに声を掛けた。
「お嬢様? どうなさいました」
「教会から荷物が届いてるって聞いて」
「ああ、申し訳ありません。失念しておりました」
「いいよ。中に入ってもいい?」
「ええ」
扉を閉めると自動的に閉まる作りとなっている為、閉まる前で良かった。カインが扉を開けてファウスティーナ達を中に入れた。
中からは簡単に鍵が開けられるので閉めても問題はない。
室内には公爵家の重要な品が幾つも置かれており、何が何処に置かれているか一目見て分かるよう整理整頓がきっちりとされている。
教会や王家からのファウスティーナ宛の荷物は部屋のすぐ近くに置かれていた。
カインが沢山積まれた箱が教会から、大きな白い箱を瑠璃色のリボンで結ばれた方が先程運んだ王家からのだと説明をした。
「す、すごい数……」
「お嬢様と坊ちゃんが出発してから届きました。どれが誰からのとメモを頂いております」
「え」
「えーっと……あった」
懐をゴソゴソと探っていたカインがメモを見つけると折り畳まれていたそれを広げ読んでくれた。
「青色が司祭様」
「……大半が司祭様からだね」
「はい……」
「紫色が女性神官様から」
「メルセスだね。小さな箱が沢山ある」
「白が助祭様」
「助祭様も贈ってくれたんだ」
「で、赤色が偶に司祭様といる人」
「ヴェレッド様ね。……司祭様の箱より大きいけど何が入ってるのかな」
「緑色が……気にしなくていいよと書いています」
「それ絶対に書いたの司祭様だ」
差出人不明な贈り物は今度シエルに会った時教えてもらおう。
全部を確認するのは時間がかかりそう。カインによるとメモには先に見て欲しいプレゼントがあるらしく、そちらのリボンを解いた。青い箱の中を確認するとファウスティーナは頬を赤らめた。
教会にいる間使用していたモコモコ毛布だった。夜は肌寒い日々が続くので気を遣って贈ってくれたのだ。
「よく使用していた毛布です。寝心地抜群なんですよ」
「そうみたいだね。ファナの様子から十分伝わるよ。あと、いい香りがするね」
「薔薇の香りですね。司祭様の使ってる香水も甘い薔薇の香りがするんです。私が気に入ったら、私用に調合したのをくれました」
「そう」
読んでいただきありがとうございます。
お母様はその後、幽鬼のような姿で部屋へ戻って行きました……。
(ちゃんとファウスティーナの為に考えたデザインでしたがエルヴィラの物と勘違いされました。本編ではちゃんと渡せたのに……)
 




