信じてほしい/信じられない
彼にとって、所詮自分はエルヴィラの代わりをさせる存在でしかない。
メルディアスと名乗る教師と出会し、コーヒーミルクを飲み終えると流されるまま新入生が集合する教室へと向かった。近くでベルンハルドと会い、まともに顔を見れず俯いてしまった。
やり直したいと、最初からやり直したいと訴えられても、そのようにしか思えない自分が嫌になる。同時に、どうせ信じたって最後に裏切るのはベルンハルドだと信じる自分がいる。
どちらに傾くか分からない思いを抱いたまま、促されるまま教室へと向かった。入室するとちらほらと他の生徒達がいた。彼等の眼が入ってきた3人に向けられる。
席順は決められており、メルディアスに指定された席に着くと……ベルンハルドが左隣に座った。なんてことだ、隣同士になってしまうとは。この後席替えはしないのかと不安を抱く。
(気弱になるな、ファウスティーナ。司祭様とは何度も話したじゃない。殿下からはとにかく逃げたらいいって)
相手が迫っても、それらしい理由をつけて逃げればいい。シエルの場合は総じてシリウスの言葉は無視を貫いたようだが、ファウスティーナだとそれは出来ない。身分はベルンハルドが上。不敬に値する。
左隣から終始視線を貰うが極力じっとすることで視線を合うのを防いだ。
そうしている内に時間は過ぎていき、Aクラスに在籍する新入生は全員揃った。
教壇の前に立つメルディアスは静かになったのを皮切りに自己紹介を始めた。
「今日から3年間、君達の担任となるメルディアス=ムスト=フリージアです。余程の事がない限りは担当になるのでよろしく」
余程の事とはなんだ。
全員が抱いた感想だ。
「今から入学式が始まる。注意事項は特になし。静かに、お行儀よくしていればいい。後、入学式の後は生徒会による歓迎会がある。知っての通り、学院には平民の生徒も通っている。格式張ったパーティーじゃないから軽い気持ちで参加してくれて構わない。ああ、絶対参加じゃないから興味のない子はお帰り。話は以上。式まで時間があるから、簡単に自己紹介をしていこう」
あっさりとした物言いで説明を終えたメルディアスは窓際の一番後ろの生徒を指名した。
次々に指名されては名前と家名を名乗っていく。今年のAクラスに平民出身の者は4人いる。共通しているのは極度に緊張にしているということ。
ファウスティーナやベルンハルドの座る前の最前列から数えて2列目になった時。伯爵令息が自己紹介を終えると瞬時に起立した令嬢がいる。
メルディアスと同じ家名を名乗る、ジュリエッタだ。
「ジュリエッタ=ムスト=フリージアで御座います。どうぞ、よろしくお願い致しますわ、皆様」
王国一マナーに厳しいと評判のフリージア夫人を母に持つジュリエッタ。さっきの勢いはなんだったのか、多少顔を赤らめているのは失敗したと本人も自覚してのもの。教科書のお手本になってもいいケチの付け所のない動作は完璧としか言いようがない。同じ色のまま着席したジュリエッタをチラリと見ていたファウスティーナは、前の方から小さく吹き出した笑いを拾ってそっと前を見た。
メルディアスが頬を膨らませて笑いを堪えていた。
……あれ? と生じた違和感だが、次の人と彼が指名するのでそれ以上は考えず。
自分の番が近くなってきた。
「アエリア=ラリスですわ。これから3年間、どうぞよろしくお願い致します」
滅多なことがない限りはクラス落ちになるのはない。3年間ほぼ同じクラスメイトで構成される。
アエリアの次はファウスティーナの番。メルディアスがチラリと目を向けて来たので腰を上げたかけた時、男性教師が入って来た。
「メルディアス先生、入学式がそろそろ始まります」
「うん? まだ時間はあったと思うけど……」
「入場はAクラスからですので、もう時間です」
「そうだっけ? おれの勘違いだったみたいだ。残ってるのは2人だから、こっちから説明しておこう。
ファウスティーナ=ヴィトケンシュタイン公爵令嬢とベルンハルド=ルイス=ガルシア王太子殿下だよ。まあ、この2人を知らない子達はあまりいないかな。じゃあ立って子供達」
自分とベルンハルドだけ最後おまけ的扱いをされ若干不服だが時間が迫っているなら呑み込むしかない。名前を言われた瞬間、教室に入った時とは違う意味で視線を注がれた。中には、鋭利な針で突くようなものもある。誰か探す前にメルディアスに先導されて講堂へ向かった。
……背後からは鋭さも好奇も嘲もない。縋ってくる痛い視線だけがずっと背中を刺し続けた。
ーー講堂へと向かう最中も様々な視線を受け続け、入学式が始まる前から強い疲労を覚えてしまった。アナウンスと同時に入場、決められた指定の位置に立った。
学院長の長い挨拶に始まり、次に生徒会長から歓迎の言葉(今の生徒会長はヒースグリフだった)、最後に新入生代表のスピーチで入学式は幕を閉じた。代表は言わずもがな、ベルンハルドだ。王子、という立場もあるが1番の要素は1年生の首席が彼だったから。2位はファウスティーナ。恐らくだが、あの席順は成績で決められたのだろう。
メルディアスに聞いたら、点差を教えてもらえるだろうか。
この後は学院で開催される際に使用されるパーティー会場にて、新入生の歓迎会が行われる。メルディアスはああ言っていたが参加しない生徒は毎年いない。
講堂を出て会場へと向かうファウスティーナはさっと周囲に目をやった。
貴族の子は基本家同士の繋がりで昔からの知り合いが多い。お茶会にはあまり参加させてもらえず、外出も殆ど許されていなかったファウスティーナに友人と呼べる相手はほぼいない。お茶会などで会ったら話をする侯爵令嬢がいるが、彼女はBクラスになったようで既に他の子とグループを作ってしまっていて話し掛け辛い。ベルンハルドに会ってからは、彼にばかりかまけていたせいで友人関係を築くという行為が頭から抜け落ちていたせい。
着いたら壁の花にでもなっていようと小さく嘆息した。
会場に着くと白の花を中心にした清楚な装飾が広がっていた。
「新入生の皆様、ささやかではありますが学院の生徒を代表して皆様の歓迎会をここに開きたいと思います。どうぞ、思い思いの時間をお過ごしください」
始まりの口火を切ったのはクラウドだった。「じゃあ、後は頑張ってね双子先輩」と普段のふんわりとした顔のまま、入学式で生徒会長としての言葉を述べていた時とは違って不貞腐れたヒースグリフとキースグリフに後を任せて自身は違う所へ行ってしまった。歓迎会での仕事を遅れた2人に押し付けると言っていたのはこのことだろう。
なら、とファウスティーナはケインが何処にいるかと視線を泳がせた。見える範囲内にはいない。
移動しようと広い会場を歩こうと足を上げかけた時、遠慮がちに名前を呼ばれ体が凍りついた。相手にも硬直が伝わり、気まずげに再度呼ばれ、ゆっくりと振り向いた。
「……ファウスティーナ……少しだけでいい……こっちに来てくれないか」
朝はメルディアスがいたのと突然の出会いだったので2人共何も言えなかった。4年前では自分が向けていた感情を今ではベルンハルドが向けている。
2人が婚約者と知らない者はほぼいないだろう。だが、関係が良好と知る者もほぼいない。お茶会やパーティー等でファウスティーナは散々やらかし、その度にベルンハルドからは嫌われ妹のエルヴィラに好意的な態度を披露し続けた。
ファウスティーナは頷き、移動するベルンハルドに付いて行った。生徒達の様々な目を受けながら外に出た。
案内されたのは会場を出て横にある花壇の前。鈴蘭が植えられており、良い香りが包んでくれるが2人の表し様のない微妙な空気までは覆ってくれなかった。
「……何か、御用ですか、殿下」
「前に後宮で会った時にも言ったが……ほんの少しずつでいいんだ、私に機会をくれないか」
最初からやり直す機会をーー
体の奥底から湧き上がる歓喜は自分の物なのか、他人の物なのか。自分のことなのに判断の区別が不可能。頷いたらずっと待ち望んでいた関係になれる、4年の歳月がファウスティーナに冷静と無関心を与えたのだ、仮に此処が公爵家でエルヴィラが相変わらず何食わぬ顔でやって来てもスルーする自信はある。
「殿下。1ヶ月間、私も考えてみました。殿下の言うやり直しを」
ベルンハルドを信じられる自信だけは何十、何百の時間が掛かろうと掴むことさえ叶わなかった。
「何度も考えました。そして、何度考えてもエルヴィラを王太子妃に出来ないから、ずっと王妃教育を受けていた私を理由にエルヴィラに会う口実作りにしか思えません」
「っ、信じられないのは分かっている。これからはエルヴィラが来ても、彼女が何をしようがファウスティーナを優先するとーー」
「では、私が前のように声を荒げ追い出し、泣いて走り去るエルヴィラを追いかけませんか?」
正義感の強い彼だ、弱く、困っている人を放って置けず手を差し伸べようとするだろう。現王と共に貧民街の問題に積極的に取り組んでいると聞く。そんな彼が目の前で虐げられ、泣いている少女を放って置ける筈がない。試すような物言いだがベルンハルドは否定出来ない。現に今、返答に窮している。
これが正解だ。
「これが現実ですわ、殿下。前に陛下が私からエルヴィラに婚約者を変えると言ってたのですよね? 早々に変更を求めることを提案しますわ。その方が殿下にとっても良いでしょう」
「私の思い込みや態度のせいで信じてもらえないのは当然だ。だがファウスティーナ、仮に私が来ている時にエルヴィラが姿を現しても以前のような態度は取らないだろう?」
「何を根拠に……」
「ファウスティーナは知らないだろうがケインとは何度も手紙のやり取りをしている。それでお前が公爵家に戻ってからの様子を教えてくれたんだ」
意外だと思った。ファウスティーナと一緒になって末の妹に冷たく当たって泣かせる冷たい兄と思っていたのに。ファウスティーナの顔に出ているからか、気まずげながらも瑠璃色の瞳は薄黄色の瞳を捉え離さなかった。
ファウスティーナが公爵家に戻ってからの母リュドミーラやエルヴィラに対する態度はというと、終始無関心だった。相手が話しかければ必要に応じて対応をする。それ以外だとファウスティーナ自身には用事がないので関わらない。
今まで何度も一緒にお茶をしたい、お出掛けしたいと願っても時間の無駄遣いをするなと袖にするリュドミーラに今更期待するのは阿呆の行いだ。向こうの望んだ公爵夫人と公爵令嬢という関係でずっといい。
エルヴィラに関しては考えるだけで、相手にするだけで時間が無駄だと悟ったので関わるだけ損としてファウスティーナは自慢されようが癇癪を起こされようがどうでも良くなった。苛立って怒鳴り散らしていたあの時の労力と時間は戻ってこないが無駄にしない術は身に付けられる。
全て、教会で生活したお陰。シエルのお陰。ファウスティーナに対し、非常に愛情深いシエルがいなかったら、例え同じ生活を送っても結局同じになっていたかもしれない。
「王宮舞踏会の日は覚えているか?」
「……10日後です」
貴族絶対参加のパーティーを除き、15歳で社交会デビューを迎える。最近では学生になったと同時になり、入学式を終えて間も開かず王宮舞踏会が開催される。ファウスティーナやベルンハルドも社交デビューとなる。
年齢制限はあれど、デビューを控える子女を参加させるのはこの国くらいだ。王妃と会う約束をしているので今度会った時に訊ねてみよう。
「夕刻にドレスが届くよう手配している。10日後、迎えの馬車を向かわせるからそれに乗って城まで来てほしい」
「殿下はいらっしゃらないのですか? 喜びますわよ、エルヴィラは」
しつこく可愛げのない台詞を繰り返すのも頑なに拒否を貫く姿勢を崩さない為。思い切り顔を歪めたベルンハルドは拳を強く握り締めると大きく深呼吸をした。
「すぐに信用しなくていい。ただ、待っていてほしいんだ」
「殿下とエルヴィラが結ばれるのを、ですか」
「違う、そうやって何でもエルヴィラと結びつけるなっ」
「っ、貴方は私がどんなに好意を寄せても塵を見る目で睨んで、毎回泣いて人の気を引くエルヴィラしか見ていなかったくせに! 今更何を言われようが信用出来ないのがまだ分かりませんか!?」
我慢の限界だった。やり直したいと告げられても、端端に仕方なさが滲む態度と声に。一瞬にして沸騰した激情を抑えられなかった。大声ほどいかなくても声を上げるとショックを受けた悲痛な面持ちで見下ろされ。重く青みの濃い瑠璃色でファウスティーナを見つめた後、苦しげに口を開いた。
「分かって、いるんだ。自分でも取り返しのつかない所まで来ていると」
「なら何故お認めにならないのです。殿下、貴方を苦しめているのがご自身だといい加減気付いてください。殿下が婚約者を私からエルヴィラにしたいと申せば、誰も苦しまないのです」
「お前は私がエルヴィラを好きだと言うが、ならお前はどうなんだ! 私を好きだと言いながらいつも楽しげに笑ったり、気を許した態度を見せていたのはケインを除いたらネージュだけだった! 私にはいつも……っ」
「……!」
言われてハッとなる。
……それもほんの刹那の時だけ。
「っ……いけませんか? 好きになって欲しい相手に必死になって、好きになって欲しくて努力することはいけませんか!?」
初対面から失敗したせいで好感度は零以下からのスタートとなり、やり直したくてお洒落をして勉強をして、本当ならしたいことを全部我慢して熟してきた。ベルンハルドに好かれたくて、彼の隣に立つに相応しい婚約者で居続けるために。
王妃教育の厳しさから何度も泣いた、婚約者から冷たくあしらわれ何度も泣いた。そんな時必ず現れ慰めてくれたのがネージュだ。
『すごいねファウスティーナ嬢。ぼくにはまだ難しくてよく分からないけど、とっても頑張ってるんだね』
『兄上がごめんね。どうして兄上は疑問に思わないのかな、毎回エルヴィラ嬢が来ることを。ちょっとでも疑問に思ったら、ファウスティーナ嬢を見る目もちょっとは変わる筈なのに』
浅はかにも見つけて手を握って連れ出してくれたのがベルンハルドだったら、ファウスティーナの為に準備されたお茶やスイーツを一緒に食べる相手がベルンハルドだったらどんなに良かったかとーー何度抱いたか。その度に、純粋に心配してくれるネージュに申し訳なさを抱いた。
「貴方が毎回泣いて走り去るエルヴィラを追い掛けた後、残された私がどれだけ惨めだったか分かりますか!? 貴方に好きになってほしくて似合いもしないドレスやリボンをつけてもエルヴィラを追いかける貴方をどんな気持ちで見ていたか分かりますか!? 何を何度言われようと殿下がエルヴィラを好きじゃない理由が何処にもない限り何度だって言います!!
ーー殿下とエルヴィラ、心底お似合いの2人ですわ!! お互いのことしか見えていない貴方達程、お似合いの2人はいないでしょう!!」
好きで女神の生まれ変わりに生まれたんじゃない。
好きで妹贔屓する母親から生まれたんじゃない。
好きで自分勝手で我儘な性格になったんじゃない。
好きで王太子の婚約者になったんじゃない。
ただ、唯一と言えるのなら、好きになる相手だけはきっと同じだったかもしれない。
「………………」
真っ向から全力否定したことでベルンハルドの相貌から感情が削げ落ちた。呆然と佇む姿がファウスティーナの胸をずきりと痛ませた。これだけ言えば彼も己が心を認めるだろう。エルヴィラが好きだと、愛していると。そうすればお互い感情を乱さず、穏やかに、ベルンハルドに至っては幸福に包まれた人生となる。
時間の進み具合は分からない。数秒か、数分か、それ以上かーー。
徐に動き出したベルンハルドの手がファウスティーナに伸ばされた。
逃げようとすれば逃げられるのに、足が地面に縫い付けられたように体は動いてくれなかった。
腕を掴まれ、引き寄せられると……抱き締められた。
「……信じてくれるようになるまで何でもする、ただ、これだけは分かってくれっ……
エルヴィラのことは愛してもないし好きでもない、なんとも思わない。お願いだからっ、これだけは信じて欲しい……っ」
「っ……」
表に出たら抑えられない感情を必死に押し留めた掠れた声がファウスティーナの心を盛大に揺さぶってくる。腕を回したら、返事をしたら、どんな反応を彼はしてくれるだろうか。
何もせず、発さず、ベルンハルドが離してくれるまでそのままでいた。
陰からこっそりと2人のやり取りを盗み聞きしているメルディアスは……
「シエル様に軍配が上がるかもしれないよ? 陛下」
「1度決めたら絶対に考えを曲げないのはシエル様に似ちゃったみたいだから」
「このまま本当にファウスティーナ様とベルンハルド殿下の関係が修復されず、妹君の入学を待っていたら……」




