入学式の朝
4年振りに公爵家に戻って早1ヶ月――
大きな問題は起こらず、今日入学式を迎えるファウスティーナは普段より早い時間に目を覚ました。窓から見える外はまだ薄暗い。上体を起こして腕を伸ばした。誰もいないのをいいことに大きな欠伸をして、じわりと潤んだ瞳を袖で拭った。
あと1時間程すれば朝日は顔を見せ、リンスーが起こしに来る。2度寝は魅力的だが次は起きない可能性がある。
教会にいた頃、偶にシエルを起こしてほしいと頼まれたことがあった。ファウスティーナが起こしに行くと必ず起きてくれる、のだが――ベッドに座ったシエルの横に座らされ、眠そうな彼に釣られてついつい眠ってしまうのだ。
「司祭様って、人を眠りへ誘うのがとてもお上手だったのね……」
過保護を通り越した溺愛振りに戸惑うことは多々あれど、嫌という気持ちは1度も浮かばなかった。あの人から発せられる雰囲気がそうさせているのだ。
リンスーが起こしに来るまでの間の時間潰しが部屋にない。
読みたい本が今はなく、進めていた刺繍は昨日終わらせてしまい、他にすることが思い付かない。
庭へ行って花を眺めたいが太陽が顔を出してからにしたい。陽光を浴びる植物は、不思議と元気を与えてくれる。春の季節にしか咲かない花が沢山植えられている庭へは、朝の支度を終えてからにしよう。
そうなるとやはり時間潰しが必要だ。
「うーん……書庫室にでも行こうかしら」
結局、本を選んだファウスティーナはベッドから降りると靴を履き部屋を出た。
「お嬢様? おはようございます。今日はお早いですね」
「あ、おはようリュン」
扉を閉めるとリュンが近寄って来た。リンスーが部屋を訪れて起きるのが常なファウスティーナが先に起きているのは珍しい。
「早く起きちゃって。もう1度寝ようと思ったけど、今度は起きれなくなりそうだから」
「そうですか」
「お兄様はまだ寝てるの?」
「ケイン様は少し前から起きていますよ。今、カインに寝起きに良い飲み物を頼みにいったところです。お嬢様の分も頼みましょうか?」
「うん、お願い。何を作ってくれるのか楽しみ。私は書庫室に行くね」
「はい」
リュンと別れたファウスティーナは書庫室へ向かった。公爵家の面々とは遭遇しなかったが何人かの使用人とは擦れ違った。挨拶を交わしながら目的地に着くと目ぼしい本がないか探していく。薄暗くて見辛いが文字が読めないことはない。
冒険物も捨て難いが恋愛小説も読んでみたい。左の人差し指を背表紙に触れながら探すファウスティーナは、ふとある案を思い付く。
(殿下とエルヴィラが結ばれる為に必要な材料って何だろう)
ベルンハルドは頑なにファウスティーナからエルヴィラが婚約者になるのを拒否していた。やり直したいと言われても、長年王妃教育に励み王妃からの評判が高いファウスティーナに妃の仕事を押し付け自分はエルヴィラと水面下で愛し合いたいからとしか見えない。
母に対する期待と同様、妹に対する嫉妬も怒りも放棄するとどうでもよくなった。エルヴィラがドレスを新調した、母とお出掛けした、と前のファウスティーナなら聞くだけで苛立って怒鳴っていた話も今は右から左へ流せる。聞いている証拠として返事はするのに、エルヴィラは悔しげで憎しみの籠った紅玉色の瞳でファウスティーナを睨んでくる。
過剰反応すれば泣き叫ばれ、淡白に接すると睨まれる。どの反応が正解か不明だ。
やり直すものがないなら、初めからやり直させてほしいと懇願もされた。あの時同様、今思い出しても動揺してしまう。ベルンハルドの瑠璃色の瞳にきっと嘘はなかった。信じたい気持ちと裏切られるに決まってるという気持ちが反発し合い、決着はつかずファウスティーナの心を漂う。
それらを振り払うようにファウスティーナは首を振った。
「……期待しちゃ駄目。私とやり直したいとか言うのも、私との婚約がなくなればヴィトケンシュタイン家に来る理由が無くなってエルヴィラと会えなくなるからよ」
毎回長く枚数が多い手紙を送っていたのに婚約者の字すら覚えていなかった彼だ。
4年前から定期的に贈られるようになったプレゼントだって、慌てた故の取り繕い。
それらは全て貴重品部屋に保管されている。1度も瑠璃色のリボンが解かれることなく……。
――ベルンハルドには、何をされても全てが今更としか思えない。
そう心に言い聞かせたファウスティーナは、とある本を見つけると本棚から取り出したのだった。
●○●○●○
書庫室から戻り、選んだ本を暫く読んでいるとリンスーが起こしに来た。普段通りの時間なのに、既に起床して本を読んでいたファウスティーナへ珍しそうな瞳を向けた。サイドテーブルに置かれたグラスに手を伸ばした。
「何を飲んでいらっしゃるのですか?」
「朝、カインが作ってくれたフルーツのミックスジュースだよ。部屋を出た時に丁度リュンと会って。お兄様の分と一緒にカインに頼んでくれたの」
「そうでしたか。ケイン様は学業が随分とお忙しいようなのでもう少し睡眠を取って頂きたいのですが」
「お兄様は無理をしない人よ。限界が近くなったら、ちゃんと休むから大丈夫だよ。カインがジュースを作ったのも、入れたフルーツに含まれる栄養素が疲労の原因を抑制する効果が働くからだよ」
「寝起きで最初に飲むなら、1番はコップ1杯の水でしょうか。睡眠中失われた水分を補い、その後で飲むと効果も違ってきます」
「冷たい水だと目がシャキッとするよね」
他にも寝起きに効果的な飲み物を挙げていきながら朝の支度を始めた。
顔を洗い、スキンケアをし、鏡台の前に座って髪を丁寧に梳いてもらう。
そろそろ彼が来る時間が迫って来た。ファウスティーナが口を開け掛けた時、小さく扉がノックされた。どうぞ、と返事をすると予想していた相手が入室した。
「失礼します。おはようございますお嬢様」
「おはよう、ジュード君」
教会で10年神官を務めるジュードは、ファウスティーナが公爵家に戻る条件としてシエルが出した内の1つ。世話役を担っていたメルセスでなく、気軽に話せる話相手なジュードを選んだ理由を聞かされていない。ジュードに聞いても誤魔化されるだけだった。
「本日から貴族学院への通学が始まりますね。送迎の際は僕も同乗することになっていますので」
「うん。よろしくね」
「はい。先に馬車で待っていますので、ご支度が終わられましたら兄君と一緒に来てください」
「終わったらって、朝食が済んでからじゃ」
それについてはリンスーが説明役を買って出てくれた。
「本日は入学式、ということもありケイン様は準備の為何時もより早く出発されます。ご朝食は移動しながら済ませるとのことでしたのでお嬢様もそのようにと」
「余った時間で人の少ない学院内を歩けるね。そうするわ」
「では、僕は先に」
ジュードは一礼をして部屋を出た。
髪を整えると制服に着替えた。
「とてもお似合いですよお嬢様!」
「そうかな? 制服って、誰にでも似合うように作られてるって聞いたけど」
「そうだとしてもお嬢様はとても似合っています!」
昔は指定の制服か私物のドレスどちらでも良かったが、平民や貧しい貴族が差別されない為に先王の時代から全員制服着用を義務付けられた。学院は平等を掲げているのである程度身分の差は気にされない。
但し、そこにはやはり最低限の礼儀は必要とされる。
制服のボタンを留められ、最後にネクタイを締められ着替えは完了した。
姿見の前に立ったファウスティーナは眉を寄せた。
「もっと身長が欲しかった……」
平均的身長のリンスーやトリシャと比べるとファウスティーナの背は低い。母リュドミーラも小柄なタイプだがファウスティーナよりかは背が高い。エルヴィラもファウスティーナ同様割と背が低い方だ。
豊かな膨らみはいらないので代わりに身長と交換してほしい。
無い物ねだりしてもしょうがないと嘆息し、必要な荷物を詰めた鞄を持ったリンスーを連れて部屋を出た。
玄関ホールに着くとケインが待っていてくれた。
ファウスティーナに気付くと振り向いてくれた。
「おはようファナ」
「おはようございます、お兄様」
「寝坊しなかったね、偉い偉い」
「……」
入学式に寝坊すると思われていたのか。というか思っていたのか目の前の兄は。ジト目で見上げると頭を撫でられて終わった。
「冗談だよ」
ケインの冗談はよく本気としか捉えられない冗談が多い。
「俺に付き合わせてごめんね。少しだけなら、学院内を案内出来るかと思ったんだ」
「構いません。お兄様の案内楽しみにしています!」
「そう。じゃあ行こうか」
「はい!」
差し出された手を取って外へ出た。
不安と期待の学院生活が今日から始まった。
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