『愛』を置き間違えた?
ファウスティーナが教会で生活している内に“困ったこと”に慣れられて、メルセスは聖母のような微笑みを浮かべつつ頭を悩ませていた。
元凶が行動を改めないのと変に適応能力が高いファウスティーナのせいで。
「寒い夜にラム酒を入れたココアを飲むのも良きだね。君は普通のホットココアだっけ?」
「はい。あと、チョコレートシロップとクリームを入れてもらってます」
「甘い物が好きなヴェレッドが好みそうなトッピングだね」
「公爵家では、執事が色んなホットココアを作ってくれましたよ! どれも美味しくて頼む時悩んじゃうんです」
「優秀な執事さんだねえ」
シエルの私室で。ソファーに隣り合って座るシエルとファウスティーナは、先程メルセスが運んだホットココアを楽しんでいる。もこもこの毛布に2人仲良くくるまれた光景を4年前から見ている。最初の頃は、精神状態が良好になると恥ずかしがっていたファウスティーナも、今では自然な態度でシエルとの会話を楽しんでいる。行動を改めないといけないシエルに関しては、何度か苦言を呈しているが右から左へ流されている。あと、服のボタンを外し過ぎである。毎日窮屈な服を着ている反動だと本人は言うが昔からだろうと突っ込みたい。
ふう、と息を吐くとファウスティーナが「どうしたの?」と意識を向けた。当然、シエルの意識もメルセスへ向く。
この際だから言ってしまおう。
「シエル様、私貴方と付き合いは長いので大体性格は把握しているつもりです。ファウスティーナ様をとても可愛がるのは構いませんが距離が近すぎますわ」
「今更だねえ」
「可笑しいですわねえ、4年前から言っていることなんですが」
如何せんシエルとファウスティーナの距離が近すぎる。女神の生まれ変わりだから、特別可愛がっていると思っていたファウスティーナがシエルの実の娘だと知らされた時は仰天した。母親は聞かずとも分かる。ファウスティーナはあまりにもアーヴァに似ている上、シエルがアーヴァ以外の女性を愛する筈がないことも承知だ。やっと手元に戻せた愛娘が可愛くて可愛くて大事に愛でたいのは理解可能だ。が、それは両者が互いの真の関係を知っていたらの話。ファウスティーナは自身がシエルの娘だと知らない。王城で泣き叫んでいたところを保護してくれた、自分を理解し公爵家(主に母親)や王家(主に王太子)から守ってくれる非常に頼りになる愛情深い人という認識だろうか。
「ファウスティーナ様。シエル様にはっきり言わないといけませんわよ。我慢してシエル様に合わせなくても良いのですよ」
「大丈夫だよメルセス。もう慣れちゃった」
「慣れてはいけないのですけど……」
絶世の美貌を誇るシエルの天上人の如き美貌に常に愛おしげに見つめられ、愛情が多分に含まれた声で囁かれ続け、飢えていた愛情を溢れる程注がれた少女は、嘗て魔性の魅力を以て社交界を騒がせた女性の面影を濃く映していた。どんな宝石や花にも負けない純美な笑顔を欲する者は多い。
筆頭はシエルがファウスティーナから遠ざけている者だろうか。
「そうだ。大事な話をしないと。ファウスティーナ様、5日後私と王都に行こう。貴族学院入学に伴って君を公爵家に戻すか、フリューリング侯爵家から通わせるかの話し合いがあるんだ」
前にもチラッと出た話題だ。教会から王都にある貴族学院に通学するのは時間的に厳しい。往復で4時間もかかるのでファウスティーナの負担も大きい。
マグカップを両手で包んだファウスティーナはシエルを見つめた。
「話し合いの場に私も同席させてもらえるのですか?」
「いいや。させられないよ。話し合い自体は、王城でするから。待っている間、前に行った後宮の私の部屋にいて」
「体裁を何よりも重んじるお母様が譲らないと思いますよ、私がフリューリング侯爵家から通うのは。お父様やお兄様はきっと賛成してくれそうですが……」
「そうだねえ。もし、君が公爵家に戻らなくてはいけなくなったら、こっちの条件を全て飲ませるよ」
「条件?」
ファウスティーナが聞き返すとシエルはココアを飲んで頷いた。
「そう。当日どうなるか、だね」
そう言ってまたココアを飲んだシエル。
シエルの出す条件を予め聞かされているメルセスは誰にも気付かれず、ふふ、と笑った。
●○●○●○
「どうなるかな……」
ついさっきまで一緒にいたシエルの言っていた、もしヴィトケンシュタイン公爵家に戻った場合提示する条件。それが何か最後まで教えてもらえず。
一緒にくるまっていたもこもこ毛布で1人包まれ、横抱きにされて部屋まで運ばれベッドに寝かされた。去り際、お休み、と額にキスを落とされた。眠る際にくれるキスはファウスティーナを安心させる為の物。ちょっと前に他人がいる前でされた悪気のないキスはとても恥ずかしかった。
まるで娘のように大切に接し、愛してくれるシエルにとても頼りきっている自覚はファウスティーナにはある。何時までも頼っていられないと思うのに、それを見透かされ更に甘やかしてくるのがシエルだ。人の心の内を読む能力に長けている者の前で隠し事は不可能だ。
顔を横へ向けると紙の音がした。枕の下に隠していた手紙を取り出したファウスティーナは、ふふとつい思い出し笑いを零した。
「お兄様が学院生活を楽しんでおられるようで何よりだわ」
手紙の差出人はケインから。貴族学院に今年入学しても定期的に手紙を送ってくれていた。ファウスティーナにも役立つ学生生活の様子だったり、愚痴などが綴られている。ケインの愚痴の大半にクラウドの名前がある。
「クラウド様って、見かけによらず結構強引な方だったのね。意外」
ケイン曰く、生徒会は面倒だから入りたくなかったらしいが来年ベルンハルドが入学するのなら、王太子妃を輩出する家の跡取りである君がいなくてどうするのと、無理矢理クラウドに引き摺られる形で入らされたらしい。他にも色々クラウドの強引さに負けて付き合わされると書いてあった。
生徒会といえば、彼等を束ねる生徒会長は代々王族が務める仕来たりとなっている。今年は王族が1人も入学していない。誰がなっているかは書かれていなかった。
「いくらお兄様やクラウド様でも、1年生から生徒会長は出来ないよね……だとすると、残るのはラリス侯爵家のヒースグリフ様とキースグリフ様か、若しくは……」
予想する人物達の名前を呟きつつも、入学したら判明することだと手紙を再び枕の下に置いた。
先代司祭オルトリウスが戻った日。
シエルにベルンハルドから謝罪の手紙が届いていないかと直球で訊ねた。カフェでの会話を信じる訳じゃない。送られていても、どうせ王妃や王辺りに叱られ渋々出しただけの手紙だろう。彼がファウスティーナに何かをしてくれるのは、全て国王夫妻に叱られたから、若しくは叱られるから。
ファウスティーナに問われたシエルは目を丸くした。すると、一緒にいたヴェレッドが左襟足を口元まで持って行き耳元で何事かを囁く。見る見る内に蒼の瞳を開かせるシエル。
ヴェレッドが離れるとシエルは衝撃を食らった表情でファウスティーナの前に立った。
『もしかして……私が陛下からだと思って何も見ずに捨てていた手紙の中にベルンハルドのも混ざってたの?』
『本当に殿下が送っているかは分かりませんが……』
『……そういえば、4年前からやけに1回に届く手紙の量と頻度が増えたなとは思っていたんだ』
『あのさ、シエル様。それどう考えてもお嬢様宛の王太子様の手紙が入ってたってことだよね?』
『……』
4年前王城で泣き叫ぶ原因を作ったベルンハルドに対し、ファウスティーナが何も期待していないことと、心から愛するエルヴィラと結ばれることで彼に対する償いをしたいと知るシエルでも、実際に手紙が届いていたらきちんと知らせてくれた。
知らせなかったのは、抑々気付いていなかったから。
この世の終わり、絶望を映した面持ちのシエルにファウスティーナは大慌てになった。
「仮に司祭様が気付いて殿下からの手紙を渡してくれていても、私には読む勇気はきっとなかった」
謝罪の手紙と言っても、やはり考えるのは王妃か王に叱られたから、だ。唯一の汚点と吐き捨てた相手にベルンハルドは罪悪感を抱かない。彼が最も愛する妖精のお姫様を虐げる傲慢で最低な姉なのだから。
「……よし」
眠ろうとしていたファウスティーナは体を起こした。ベッドから降り、靴を履いて部屋を出た。きっとまだ起きているシエルの部屋に行った。
訪問を知らせるとシエルは快く中に入れてくれたが首を傾げられた。
「どうしたの? 眠れない?」
「いえ、その、司祭様にお願いがありまして。本当なら、自分でしないといけないのですが……」
「言ってごらん」
一緒にホットココアを飲んでいた時と同じく、ソファーに座るシエルの隣に座ったファウスティーナは言いづらそうに、だが迷いのない薄黄色の瞳でシエルに告げた。
「殿下にもう謝罪の手紙は必要ありません、と書いて頂けないでしょうか」
「ああ……やっぱり私が知らない間に捨てていたから……」
「違います! その、司祭様は全く関係ありません」
国王の手紙を開封もせず、届くと流れ作業のようにゴミ箱へ入れるシエルにも驚きだがシエルを責めるつもりはファウスティーナに毛頭ない。
「……殿下はエルヴィラが好きなんです。だから、大嫌いな婚約者に謝罪の手紙を送るより愛するエルヴィラに手紙でも送ってくださいと書いてほしいのです」
「普通はそんな内容の手紙送らないよ」
「はい。ですから、手紙に謝罪の手紙はもう必要ないことと、殿下の婚約者は私からエルヴィラに代わるのでエルヴィラと交流を深めてくださいと書けば、殿下も気兼ねなくエルヴィラと愛し合えるでしょう」
「いいよ。どの道、君と王太子の婚約は絶望的だと何度か陛下に話してるから、君の決断を聞けば陛下も納得するだろう。そう書いておくよ」
「すみません、こんなことをお願いして……」
「気にしないの。今、贈り物の返事は私が書いてるから、下手に君が出すと差出人が違うと気付かれる。それにだ、君に無理に王太子への手紙を書かせて負担を掛けたくない。汚い仕事は大人に任せて、早くお眠り」
決意を話して、叱って、自分でしろと突き返されたら、傷付きながらも自立心が芽生えるのか。卑怯な手段だと抱き、自分が嫌いになりそうになりながらも決して見捨てず味方でいてくれるシエルをどんどん頼ってしまう。
言い出しっぺなのに落ち込むと甘い薔薇の香りに包まれた。
「やれやれ、しょうがないな。何も考えず、目を閉じなさい。眠ったら部屋へ戻してあげるから」
海よりも広く、深海の如く深い愛を注いでくれるシエルの唯一無二の人になる人は、誰よりも幸せな女性になれるだろうなと、微睡むファウスティーナは思うのだった。
――……もう……私は……貴方に愛されないの? 私が『愛』を間違えた器に置いてしまったから……? お願い、私を見て……ルイス……私の王子様……
夢の中の人はやっぱり泣いていた。
――ヴィトケンシュタイン公爵邸にある、エルヴィラの私室にて。
ベッドの上でお気に入りのぬいぐるみを抱き締めるエルヴィラは、白く愛らしい頬を膨らませて拗ねていた。5日後、両親は大事な用で登城すると言った。城にはベルンハルドがいる。正式な場でしか会えなくなったベルンハルドに1度でも多く会いたいエルヴィラでも、用も無ければ呼ばれてもいない人間が行っていい場所じゃないと心得ている。
なのに、兄ケインは冷めた相貌で「エルヴィラは行けないからね」と念を押してきた。酷いと叫んだ。確かに会いたい気持ちは強くあるが、行けないことくらい自分だって理解している。ケインはエルヴィラの言い分を信じたのか、信じてないのか「そう」とだけ返した。
折角の夕食もケインの余計な一言のせいで台無しだ。
「お兄様はわたしにだけ厳しいのに、お姉様にだけは全く……っ」
紅玉色の瞳にじわりと涙が滲む。
狡い、何時だって期待の込められた眼差しを向けられる兄や姉が。
同じ女なのに、将来を期待されるファウスティーナがとても羨ましい。母は溺愛はしても、無理をしなくていいと甘やかしてくれても、ファウスティーナに向ける誇り高いと語る眼差しは向けてくれない。父は子供達を平等に愛してくれるが兄や姉ばかりを贔屓する。エルヴィラには、もっと真面目にしなさい、苦手なことから逃げてはいけないと優しい口調でも小言しか言わない。
「ベルンハルド様に会いたい……っ」
初めて見た時強い衝撃を受けた。王族にしか受け継がれない紫がかった銀糸に瑠璃色の瞳の、美貌の王子。人目見て強烈な恋心が生まれた。ベルンハルドと目を合わせた瞬間、途方もない愛おしさが込み上がった。
ベルンハルドに愛されているのは、周囲から見てもエルヴィラだ。性格の悪さが影響してすっかりベルンハルドに嫌われているファウスティーナが誰が好かれていると思うか。
「お姉様が屋敷に戻ったら、またベルンハルド様は来てくれる。ベルンハルド様だってわたしに会いたいのに、お姉様のせいで……!」
見当違いな怒りを露にするエルヴィラ。更に強くぬいぐるみを抱き締めると横になった。
……想い人が狂おしい程に求めているのが自分ではなく、嫌っている姉だと彼女が知ることはない。




