愚か者
“祝福された建国祭”と呼ばれる4年前のあの日から、繰り返し見る夢がある。
真っ暗な空間で、無数の赤い糸に縛られている大人になったベルンハルドをぼんやりと見上げるのは、今のベルンハルド。
夢を見ているベルンハルドは何も喋れない。目の前で赤い糸に縛られている自分を見ているだけしかできない。
果てすらも暗闇が続く世界。上の方から、1本新しい赤い糸が降り注がれた。その糸も、他の糸同様にキツく縛り付けた。
誰を、と語る必要はない。
「……結局……こう……なってしまうのか…………」
縛られている彼が弱々しく紡ぐ。
「どうしたら……間違えずに済む……、どうしたら……側にいてくれる……」
周囲全てが黒のせいか、透明な雫が何度も落ちていくのが鮮明に見える。
泣いているのだ。
誰が? ――もう1人の自分が。
「……どうして……繰り返されるんだ……、私は……私達はあの時、やっと、一緒になれたのに」
「誰の手も届かない……誰も近付けない……遠い場所へ行ったのに……なのに……」
一体彼は何を言っているのだろうと、定まらない思考でぼんやりと考える。
唯一分かるのは、最初に彼が言った側にいてほしい相手が誰かだけ。
夢を見ているベルンハルドが側にいてほしいと願う相手と同じだから。
……もう1人の自分を縛る赤い糸の正体を考えるという、思考だけが働かなかった。
「……っ」
ハッと、意識が返ったベルンハルドは勢いよく目を開けた。
頬から雫が垂れた。従者のヒスイが心配した面持ちで「殿下」と呼んだ。
「大丈夫ですか? 魘されていたようですが……」
「……ああ、大丈夫だ。心配ない」
ヒスイから差し出されたハンカチで嫌な汗を拭いた。
今彼等がいるのは王家所有の馬車内。向かっている場所は、叔父シエルのいるラ・ルオータ・デッラ教会。馬車で向かうと王都から南へ約2時間かかる。
先月15歳を迎えたベルンハルドは、来年春になってから通う貴族学院のクラス分けテストを受けた。
問題なく、上級クラスのAクラスとなった。当然の結果なので喜びはない。来年テストを控えるネージュは羨ましがっていた。自分は自信がないから、と。年齢が重なるにつれ、健常者と同じとはいかなくても幼少期と比べるとネージュの体はかなり良くなってきた。激しい運動は医師の判断次第だが、長時間起きれるようになったり自由に歩けるようになって喜んでいた。ベッドの上で過ごす時間が長かったせいか、する事はかなり限られていた。起きていられる時間に第2王子付の家庭教師と勉強をしても、具合が悪くなると中止するのが常だった。
ネージュの学力は本人が心配する程悪くない。このままだらけず、真面目に学び続けていればベルンハルドと同じAクラスになれる。
そう励ましてやったら、ありがとう、とホッとしたように笑ってくれた。
「教会までまだ時間は掛かりますのでまたお眠りになられますか?」
「いや、いい。また悪い夢を見そうだ」
「どんな夢だったのです」
「……覚えてない」
大量の嫌な汗をかく程の悪夢だったのに。口では覚えていないと言いながらも覚えていた。
無数の赤い糸に縛られている今よりも大きくなった自分を、今の自分が何も話せず、ぼんやりとした思考のまま見上げているだけの夢。
こうして夢から覚めて現実に戻ると思考が回る。
あの赤い糸は何なんだ。何故、あんなおぞましい糸に縛られているんだ。
ベルンハルドが思い出すのは、4年前の“祝福された建国祭”での出来事。
運命の女神フォルトゥナが祝福を授けた時、足元に花が咲いたのだ。王国が崇拝する姉妹神を祀る教会の最高責任者である司祭が、思い人の特徴を現した色が花によって具現化されたと説明した。遠目から見えた両親の足下には、お互いの瞳や髪の色の花だった。ファウスティーナの足下には……後に誰に聞いても何も咲いていなかったと言われたが、草が生えていた。色の分からない蕾があった。
ベルンハルドの足下には赤い花が咲いた。綺麗とか、可愛いとか、ではない。おぞましく、気色の悪い花だった。ベルンハルドだけ動く度に行かせないと増殖していった。
シエルに連れられ会場の外へ出ようとしたファウスティーナに告げられた言葉が忘れられない。
『殿下。殿下とエルヴィラ、とってもお似合いでしてよ』
「っ……」
違う、違う、違う――!
あんなおぞましい花、自分が望む人の色じゃない。
広大に広がる空の色、太陽のような温かさを持つ薄黄色の瞳。これらがベルンハルドの望む色。
建国祭の翌日、事情を聞いた父に呆れられた。
女神はお前の心の内を読んだだけだ、と。何度違うと否定しても聞いてもらえなかった。今度こそ婚約者をファウスティーナからエルヴィラに変えられる。死にそうな思いで何度も否定し、拒絶し、訴え続けた。ファウスティーナだけがいい、と。
その時も今更だと、女神にすらお前はエルヴィラが好きなのだと突き付けられたのだから認めろと突き放された。
あれが祝福だと誰が思う。他の人々は思えるだろう。ここ数年、離縁した夫婦の数は減少したと聞く。今まで仮面夫婦だったり、仲が悪かった夫婦もあの祝福のお陰で良好な関係に戻ったとか。
……戻らないのは、否、悪くなるのは王太子と婚約者だけなのだろう。
悪夢を突き付けられた日から何日か経った日、先触れを出してヴィトケンシュタイン公爵邸を訪問した。目的の人物には、来る日と時間を知らせていたので待っていてくれた。ファウスティーナとエルヴィラの兄ケインだ。
彼に会いに行ったのは、他でもない……ファウスティーナのことを聞く為。手紙の返事には、今更だと書かれた。父にも言われた台詞だ。今更だと、何度言われても諦められない。
ベルンハルドはファウスティーナが今までどのように暮らしていたかを聞いた。7歳の頃、婚約が結ばれた相手のことを知るには十分時間があったのに今まで知ろうとしなかった。
冷たく、無機質な表情でケインは教えてくれた。恥とも言える部分も包み隠さず彼はベルンハルドに話してくれた。
聞いて、愕然とし、そして、……最初の印象だけで相手の全部を決め付けるのがどれだけ愚かなことかを痛感させられた。
ファウスティーナがエルヴィラを邪険にするのも、ベルンハルドに縋ってしまうのも仕方のないことだった。同じ娘なのに、愛を欲する母親からは結果を求められるだけで温かい温もりも愛情も与えられず。妹のエルヴィラだけ愛される姿を見せ続けられた。……それでどうやって妹を愛せるのか。
父や母は、王太子である自分に過剰なまでの要求をしたことはない。厳しくても真っ直ぐ自分を見てくれた。生まれつき体が弱いネージュに甘い部分はある。甘いといっても、ちょっとした我儘を聞くだけ。エルヴィラのように、自分のやらかした悪さや嫌なことを何でもファウスティーナに押し付ける真似は絶対にしない。
ベルンハルドが定期訪問する度になに食わぬ顔で現れるエルヴィラに毎回吼えていたファウスティーナの言葉を思い出す。そうだ、彼女は声を上げキツい言い方をしていても言っている言葉は全部正論だった。公爵夫妻の言い付けを破って毎回部屋に来てファウスティーナの怒りを買って泣いて走り去るエルヴィラを……毎回追い掛け、慰めていたのは間違いなくベルンハルド本人。
ケインに問われた。エルヴィラが毎回来ることを疑問に感じなかったのか、と。感じなかったのではない。考えなかった。嫌で嫌で仕方なかったから。ファウスティーナと会うのが。
ケインの言った通り、言い付けを破ってファウスティーナに泣かされるエルヴィラが悪いのに……何も知ろうとせず、ただただファウスティーナが悪いと決めつけた。
あの建国祭以来、ファウスティーナと会っていない。定期訪問もない。シエルから、ファウスティーナが会いたいと願うまではそっとしておいてほしいと父が頼まれたから、と。
手紙に何度会いたいと送っても、簡素な内容の手紙が返ってくるだけ。返事は拒否。遠回しに拒絶する、ファウスティーナの手紙。
贈り物を届けてもお礼の手紙は来る。素敵なプレゼントをありがとうございます、と。贈り物自体に触れる内容はない。どれも、同じ返事の手紙だけが来る。使っていないのか、それとも見てすらもいないのか。
ヴィトケンシュタイン公爵家の方には、定期的にケインや公爵宛には手紙が来るらしい。ケインは自分の手紙の中にファウスティーナと親しい使用人の手紙も入れていると言っていた。逆に、公爵夫人やエルヴィラ宛の手紙は来ないとも言っていた。
『……夫人は何も言わないのか? ファウスティーナから、何も便りがないのを』
『ええ。苛立っていますよ。ですが、自業自得です。寧ろ、何故自分にも送られてくると思うのかが不思議です。ファナ本人は、自分がいない方が母上は穏やかに暮らしていると思っているので何も言いません』
実際には穏やかではなく、常に苛立つか、泣き出すか、のどちらからしい。ケイン本人が遠回しにファウスティーナからの手紙が届かない理由を説明したら泣き崩れたと説明された。彼はエルヴィラには勿論、母親相手にも一切の容赦がない。……それはベルンハルドに対しても同じ。
昔見せられた、底無し沼に落とされた感情の消えた瞳。あれを見たのはファウスティーナのことを知りたいと面と向かって言った時。それ以来は見ていない。
ケインから話を聞くべく何度か訪問した時もエルヴィラは来た。嬉しそうにはしゃぐ姿を見ても、何も思わなかった。泣いている彼女を追い掛け、慰めている時も可哀想という気持ちがあっただけで特別笑った顔が可愛いとか、一緒にいて楽しいとか、好意的な感情は一切湧かない。これを言ったところで誰も信じてくれないので言うつもりはない。
深い溜め息を吐いたケインが呆れた口調でエルヴィラに言い放ったのは、未だ鮮明に思い出せる。
『……何をやっているの? エルヴィラ。父上や母上、リオニー様と約束したよね? これからは真面目にすると。なのに、殿下が来たらこれか』
『な、だ、だって、ベルンハルド様はお兄様に会いに来られたのでしょう? お姉様じゃないのですから、いいではありませんか!』
『はあ……。そう。王弟殿下が誰か知らないと真顔でファナに言った図太い神経を持ってるから、恥ずかしいって気持ちがないんだね』
『え?』
王弟を知らない?
確かエルヴィラは、弟のネージュや従妹のルイーザと同い年。既に信仰教育は受けている筈。当代教会最高責任者である司祭は、現国王の異母弟シエル=カナン=ガルシア。教育の際に代々司祭は王族関係者が務めること、現在の司祭は王弟であると説明される。仮に王弟がシエル以外いたとしても、姉が身を寄せているのは教会なら王弟は自然と司祭のことかと思う筈。
絶句するベルンハルドは、耳に入った大きな泣き声で我に返った。
『うわああああああああああああああああんっ!!! なんで、なんでベルンハルド様がいる前でそんな話をするんでずかあああああああぁ!!』
『カイン。トリシャを呼んで来て。今日母上は婦人会に行っていて屋敷にいないから』
『もう来ていますっ!』
屋敷全体に響く高く大きな泣き声が届き、駆け付けたのはエルヴィラ付の侍女らしい。大泣きするエルヴィラを部屋から出そうと奮闘するもエルヴィラは嫌がって動こうとしない。慣れているケインは溜め息を吐いて執事の淹れたココアを飲む。ベルンハルドは出された飲み物をこの状況で飲む勇気はなかった。
何故、エルヴィラはこんなにも幼いのか。今までケインが話してくれた内容で嫌という程理解出来る。同時に、甘えさせてもらえず、ひたすら努力と結果だけを求められただけのファウスティーナに強烈な後悔と罪悪感が込み上がる。
泣いた声で縋ってくるエルヴィラ、ではなくベルンハルドはケインへ向いた。
『……どうして、ケインはそんなにも冷静なんだ?』
『俺も生まれた時から、跡取りとなると決まっていたので早い内から公爵になる為の教育を受けているからと』
『そうじゃない。いや、そうだとしてもケインの冷静さは普通じゃない。……ケインはどう過ごしていたんだ?』
『普通ですよ。殿下の仰有りたいことは何となく分かりますがここまでくると本人の問題です。周囲が悪いにせよ、本人が自覚しない限りもう手遅れです。こっちがどうにかしようにも、本人にその気がないのならもう遅い』
『……』
チラリとエルヴィラを見た。濡れた紅玉色の瞳とバッチリ目が合った。泣きながらも何時見てくれるかを待っていたのだろう。それに気付かないケインじゃない。ココアを飲むと『そういうところだけは頭が回るようなので』と何でもないように言ってのけた。自分の悪口を言われていると思ったのか、エルヴィラは頬を膨らませてケインを睨んだ。
『お兄様はどうしてわたしにだけ意地悪なのですかっ! それもっ、ひくっ、ベルンハルド様が来ているのにっ』
『そもそも、俺はエルヴィラの入室を許した覚えはないよ。部屋にいなさいって言われても言い付けを破るエルヴィラは、恥をかかないと言い付けを守ることはできないと思っただけ』
『わたしだってお兄様の妹なのですよ!?』
『それが?』
ココアを全て飲み干し、空となったマグカップを手の平に置いたケインは底のない暗闇を纏った冷徹な紅玉色の瞳でエルヴィラを射抜いた。
『不要な者を切り捨てるのに、妹も何もないよ』
『っ!!』
平民であったなら、問題のある身内であろうと守ろうする。
けれど、ケインやエルヴィラは平民じゃない。
貴族だ。
時に国の為、家の為に、身内を切り捨てるのも必要だ。
だがそれを自分とは1つしか離れていない年齢で言ってのけたケインに戦慄した。彼は貴族の当主になるに必要な冷徹さを既に持っているのだ。
ベルンハルドも必要となる要素。
更に泣き出したエルヴィラは侍女の邪魔を振り払いベルンハルドに近付こうとするも、ベルンハルドの従者に邪魔をされて出来ず。ベルンハルド様ああぁ、と泣き叫ぶ姿を見ても……何も感じない。心は揺れない。
『……ケイン』
『はい』
『良かったな……公爵家に、お前という跡取りがいて』
『良いか悪いかは判断出来ません』
『……ファウスティーナの、話を聞かせてくれ』
『分かりました』
『あ、ああの、ベルンハルド、様?』
大量の涙を流しながら存在を消されたような扱いを受け、焦りを見せるエルヴィラへ哀れみの籠った口調で退室を促した。途端、嫌です何故ですかっ、と騒ぎ出すものだから、何の感情を抱かずともマイナスへ進んでいく。
『エルヴィラ嬢は毎日有り余る元気があるのだから、その気力を勉学へ向ければケインも君を認めてくれると思うよ』
『カイン。トリシャと一緒にエルヴィラを追い出して。それとトリシャ、このことをしっかり父上と母上に報告しておいて』
『は、はい!』
『嫌ですわたしもここにいたいですっ! 邪魔をしませんから……!!』
『……いるだけで邪魔になっているのがまだ分からないの?』
結局、エルヴィラはカインと呼ばれる執事と侍女2人がかりで部屋から追い出された。外からも届く喚き声。また溜め息を吐いたケインは一旦部屋を出た。すると、すぐにエルヴィラの声はなくなった。何でもないように戻ったケインが黙らせたのだと悟った。
今までの自分がどれだけ愚かだったか、全身を細切れに刻まれても足りない痛みが襲う。
そして、何度も謝罪して、許さなくてもいいから、1度短い時間でいいから会ってほしいと強く願った。
……けれど4年経った今、結果は1度も会えていない。
頬杖をつき窓から過ぎ去る外を眺める。ラ・ルオータ・デッラ教会に到着するまで後20分程だとヒスイは教えてくれた。
訪問理由はシエルから呼び出しを受けたから。先代司祭が今丁度、旅から戻って来ているらしく、会ったことのない大叔父に会う良い機会だからと呼んでくれたのだ。
事前にどんな人か知ろうと父シリウスに聞くと「会えばすぐに分かる」と言われた。
会ってからの楽しみにしておこう。
教会にはファウスティーナもいる。
多分だが、大叔父に会う場所にきっとファウスティーナはいないだろう。
シエルに会わせてもらえないか頼んでみよう。
「ファウスティーナ……」
―オマケ―
公爵邸を後にする際、1つ気になっていたことがあったベルンハルドはケインに訊ねた。
『ところで、ケインはピギーちゃんが好きなのか?』
ケインが飲んでいたココア。使用されているマグカップが穴掘り名豚・子豚のピギーちゃんのマグカップだったので抱いた疑問をぶつけた。
『……いえ。従者にプレゼントで貰っただけです』
『そうか……意外な物が好きなんだなと思っただけだから、気にしないでくれ』
『そうですか……』
読んでいただきありがとうございます!




