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 緩やかに、その変化は始まっていた。


 まず、ズーシェンの食事に毒が盛られた。宰相不在の私的時間を狙われ、毒見係が倒れた。幸い、すぐに処置が施されたため死には至っていないが、多少障害が残るかもしれない、強力な毒物だった。

 ほかにも、宮殿内の王の私室から呪い札や呪い人形が見つかる、思考を低下させる香が焚かれる、毒蛇が仕込まれるなど様々な暗殺未遂事件があった。今のところ、優秀な侍従と女官と指示を出しているらしいリンフェイのおかげで何とかなっているが。

 暗殺者が放たれるのも時間の問題だな、と話していたその数日後のことである。夜中、宰相室で仕事をしていたスヨンは、窓の外の気配に気づいた。立てかけた剣を手にし、玻璃の窓に近づく。

 だん、と玻璃がたたかれてスヨンは顔をしかめた。剣を鞘から抜いたまま、窓をそっと開ける。

「……何してるんだお前は」

「こんばんはスヨン。……助けてぇ」

「……」

 窓の下に座り込んでいたのはリンフェイだった。いつもははきはきとした明朗な声で話す彼女のかすれたような声に、さすがのスヨンもただ事ではないと思った。窓から来る辺りは、まあ、リンフェイだし、で片付いてしまう。


 よいしょ、と立ち上がったリンフェイだが、いつもは軽やかに乗り越えてくる窓が乗り越えられない。仕方がないので剣を置き、スヨンが抱え上げた。

「……っ」

「どうした。大丈夫か」

 抱き上げたリンフェイが苦しげに顔をゆがめたので、スヨンは窓を閉めながら尋ねた。ひとまず彼女を長椅子に下ろすと、燭台の明かりの中、彼女の腹部の衣が何かに染まっているのが見えた。色彩を認識できないスヨンでは色がわからないが、衣服が破れているところから見て、血だろう。

「おい、見るぞ」

「よろしくー……」

 許可が出たのでスヨンはリンフェイの服を脱がしにかかる。別に変な意味ではない。しているであろう怪我を治療するためだ。術師であるスヨンは、医療術にも長けるのだ。

「……ついに暗殺者が放たれたか」

「ねー。ちょっと油断した……」

 従弟王をかばい、リンフェイが刺されたようだ。もしかしたら入れ替わっていたのかもしれない。子供のズーシェンと長身の女性のリンフェイは体格が似ているし、暗ければリンフェイの淡い髪色もわかりづらいだろう。


「お前なら、相手に首、一瞬でかっ飛ばせただろ。気を遣いすぎだ、お前は」

「そんなつもり……ないのだけど」


 おそらく、リンフェイはズーシェンに配慮したのだ。彼が怖がらないように、血を流さないように処理した。それで自分が血を流していれば世話ないが。

 幸い、短刀はうまく刺さったようだ。止血もちゃんとしてある。スヨンは傷口に新しい布をかけると、傷口に手をかざして呪文を唱える。スヨンのリャン家は音に親和性が高く、呪文を唱えることでよりはっきり効果が表れる。

 スヨンには、血も黒っぽいものにしか見えない。墨汁などよりは若干色は薄いが、全体的に色彩の薄いリンフェイだと、血もかなり濃い黒に見える。


 ひとまず傷口をふさぎ、包帯を巻く。この娘を子供のころから知っているとはいえ、もう大人の女性だ。三十代半ばの男としては、もう少し危機感を持ってほしいところだ。兄妹のように、家族にも等しく育ったが、どうしてこうなったのだろう、と思うこともある……。

 ひとまず服のあわせまで揃え、その上からスヨンが着ていた上着をかけた。半分意識をとばしているリンフェイに声をかける。

「リンフェイ、大丈夫か?」

「……何とか」

 震える瞼を持ち上げて、リンフェイが脱力した声で言った。スヨンは彼女の頭を撫でると、一度立ち上がった。先ほど手放した剣を立て掛け、代わりに二胡を手に取った。リンフェイの側に戻ると、椅子を引き寄せて座り、二胡をかめた。


 弦楽器が落ち着いた音を奏でる。スヨンの術は音に起因する。楽器で奏でる音も、術となる。様々な術の使いであるスヨンだが、現在奏でているのは癒しと安らぎを与える術。音楽と言うもの自体が人に安心感を与えるともいう。

 リンフェイがぼんやりと二胡を奏でるスヨンを眺めている。公主であった彼女は、教養として様々な雅楽を学んでいる。二胡も引けるはずだが、彼女はいつも、スヨンに弾いてくれ、とねだった。ねだられると、スヨンも悪い気はしない。


「宰相。ご在室でしょうか」

「こんな夜中に、誰だ」


 二胡を弾く手を止め、スヨンはつぶやきながら立ち上がる。そもそもリンフェイも夜中にやってきたのだが、今の声は廊下からだ。誰かが署名でももらいに来たのか?

 そう思って扉を開けたのだが、拍子抜けした。

「なんだ、お前か」

「俺ですね」

 にこっと笑って言ったのは礼部所属の官吏でマー・ユージンと言う。リンフェイと同世代の青年で、優秀だが腹の底の読めない人物でもある。スヨンともそれなりに付き合いが長く、リンフェイの、いわゆる私兵、『影』と呼ばれる諜報集団の一人でもある。


 ユージンを室内に招き入れ、衝立の後ろにいるリンフェイの様子を見せる。ユージンに気付いたリンフェイは起き上がらずに、「ご苦労様」とだけ声をかけた。

「いえいえ。とりあえず、着替えを置いておきます。後宮内はランフォンが整えてくれています」

「今度お礼言っておく……」

 ランフォンは後宮の女官長である。リンフェイの『影』の一人で、王太后は彼女も排除したいのだろうなぁと思ってスヨンは見ている。

「はい。すごく落ち込んでたので顔を出してあげてください。姫様のこと、宰相にお任せしていいですよね」

 何故か断定口調でユージンは言った。スヨンが返事をする前に、力のない女性の声で「Of course」と外国語で返事があった。勝手に人の返事を取るな。

「姫様に聞いてません」

「……まあ、私も構わないが」

 これまでも動けないリンフェイを預かることは何度かあった。さすがに、宰相室で預かるのは初めてだが。

「では、そのように。こちらは我々が片づけておきますので」

「迷惑をかけるな」


 リンフェイが。


「いえ。慣れていますから」

 にこっと腹の底が読めない笑みを残し、ユージンは後始末に向かった。スヨンはリンフェイの元に戻り、彼女の頭を撫でる。若いからか彼女の体が頑丈だからか、たぶん両方だが、少し顔色が良くなっている。この調子だと、明日の朝には回復しているのではないだろうか……。

 くいっと服の裾が引かれる。スヨンが目をやると、リンフェイは暢気に「のどが渇いた」と言いだした。ちょっと呆れながらもスヨンは水差しと椀を持ってくる。その間にリンフェイが身を起こそうとしていて焦った。

「おい、お前がいくら丈夫でも一夜くらい安静にしていろ」

「私には難しい相談ね……」

 軽口をたたく余裕があるなら大丈夫だろう。ただ、この娘は大丈夫ではない状況でも「大丈夫」と言うので、注意して見ておく必要があるのだが。

 リンフェイの体を支えて、水を飲ませる。それから再び寝かせて頭を撫でてやると、リンフェイは微笑んで目を閉じた。スヨンは穏やかな気持ちで眠る娘を眺めた。大人げない喧嘩をすることも多いが、スヨンはリンフェイを大切に思っているし、彼女もスヨンに良くなついている。


 眠るリンフェイの頭をもう一度なで、スヨンは立ち上がった。リンフェイを置いて帰れない。せっかくなので仕事を済ませてしまおうと思ったのだ。

 明日こそは、帰って寝台で寝たいな、と思いながら。












ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


マー・ユージン/馬 雨京 リンフェイの影、官吏

ジャオ・ランフォン/趙 藍鳳 女官長


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