明晰夢
目を開けると水面は広がっていた。
ずっと遠くの向こうまで、前も後ろも足元すらその場所は水で満たされていた。クルムは膝をつき覗き込むような体勢で、いつの間にかそこにいた。
ああ、これは夢だ。
クルムはなぜだかそう思った。自分が部屋に籠城しているからでも、喧しい怒鳴り声が聞こえないからでも、昔のように身体が軽いからでもない。ただ当たり前のように、ここが夢の中だと悟った。
水面には何も写っていない。
覗き込んでいる己の顔すら映ることはなかった。それどころか水底すら見えず、まるで鏡のように光が反射しているだけだ。夢だから無意識のうちに己が見たくないものを排除しているのだろう。その証拠にいまの自分が最も嫌うこの身体は映らない。
試しに指をつけてみた。冷たくはない......いや、感覚が無いのだ。両の手ですくい上げたときの温度も、指の隙間から零れ落ちていく感触もとんと感じられなかった。
なんとも味気のない夢だとクルムは思った。
しばらく経った。
一向に夢から覚める様子はない。クルムはなにをするでもなく、ぼんやりと水面を眺めていた。こんなに静かな時間は久しぶりで、自然と身体から力が抜けていく。怒声も叱咤も甘い誘惑も聞こえない代わりに、ここには音という音が無かった。だが今のクルムにはその痛いほどの静寂が心地よく感じられた。
身体が重くない、瞼が開く、腕は上がる、自分で立つことも座ることもできる人間の身体。この当たり前が、いまはもう随分と懐かしい。
少しでもこの時間が長く続けばいい.....。
目を閉じ手を握り天に祈る。それが無意味なことだと知っていても、願わずにはいられなかった。幸福な時間ほど脆く崩れやすいものはないと知っているから。
ピチャン
どこかで水が垂れ、波紋が広がっていく。眺めていたクルムは乱れた水面が次第に色づいていくことに気が付いた。興味を唆られ再び覗き込むと、水底にはじわじわと人の顔のようなものが浮かび上がってきた。白磁器の肌を飾る金色の長髪、長い睫毛の隙間から覗く大粒のサファイヤの瞳。そこにいたのは美しい容姿をした少女だった。執務室で己を糾弾した金髪の魔法使いがクルムを見つめていた。
「ひぃっ!?」
悲鳴が漏れる。
水面から勢いよく身体を離し距離を取った。後ろを振り返るがそこには誰もいない、前にも横にも。だが水面には確かにカナリアが映っていて、こちらをジッと見つめていた。
執務室で見たあの目が自分を見ている。
それだけでクルムは震えあがった。
怖い、あの目が怖い。咎めるでも心配するでもない、真実から目を逸らし都合の良い虚偽に浸かる私をただ見つめるあの目が怖い。見つめられるだけで、自分がいかに汚く醜いかを再確認させられている気持ちになる。
怖い、嫌い、こっちを見るな。見るな見るな見るな!わたしを、こんなわたしを
「そんな目で........私を、見るな!!」
クルムは叫んだ。勢いよく両の拳を振り上げ水面に叩きつける。何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も。
その瞳に見つめられると嘘がつけない。彼女にはもちろん、己にも嘘をつき続ける事が出来なかった。辛い現実を受け止めるのは苦しくて、それを強いるカナリアが恐怖から次第に憎悪に変化していく。
憎い憎い、お綺麗な顔をしやがって。才能にも恵まれてベスティア様の側にいてあんなに自分の意見が言えて狡い狡い。
なにもかもが憎らしく思えた。理不尽な憎しみが後から後から溢れ出し、胸の内に積もり積もって燃え上がる。次第にその熱は身体を蝕ばんでいったが、そのことにクルムは気がつかない。水面を殴ることに集中するあまり、なにも見えなくなっていた。
どれくらいそうしていただろうか。
10分、いやもっと長かったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。正確な時間は分からないが、すでにカナリアは水面から姿を消していた。
荒く息を吐き顔に飛んだ水飛沫を拭おうとして、ふと己の手が赤く汚れていることにクルムは気がつく。爪先から手首にかけてが赤い。叩いていた水面すらも赤い。美しい青色だった足元は、いつのまにか見渡す限り赤く染め上がっていた。
「なに、これ.....なんで」
意識した途端に水は重さを増した。ドロっとした感触が掌に残り、ポタポタと指先から滴る赤が波紋を作る。鉄臭さが鼻をついた。心なしか身体も沈み込んでいるような気がして、慌ててクルムは立ち上がった。
どうしていきなりこんな.....。いいや、そんなことはどうでもいい、早くこの場から抜け出さなければ。
だが歩き出そうと踏み出した足は動かなかった。足首がなにかに掴まれている。ひとつではない。なにかが幾重にも折り重なって、クルムの足に纏わり付いて離れない。無理に動こうとしてバランスを崩し水面に膝をついた。四つん這いの体勢から急いで起き上がろうとして、腕を掴まれた。
「...........っ!?」
手だ、青白い手が腕を掴んでいた。
手は下から伸びていて、正体を探ろうと無意識のうちに視線は下へ下へと降りていく。肘のない棒のような腕が水面のさらに下、水底から伸びていた。同じ色をした丸い塊がいくつも底に沈んでいる。手はそこから伸ばされていて、丸い塊のひとつと目があった。
「ひぃっ!?」
水底を覗き込んだクルムは悲鳴をあげた。丸い塊は声に反応してしたのか一斉にこちらを向く。底にあったのは顔だ。人間の顔がひしめき合っていた。
あれは大臣の顔だ、あれはクルムを世話する使用人、あれは近衛兵の顔であれはあれは.....。誰も彼も見知った顔がそこにあった。そしてそのどれもが、クルムと目があった瞬間に口の端を三日月のように釣り上げ笑いだす。笑ってこちらに手を伸ばしてきた。まるで死ぬのを心待ちにしているような光景に恐怖を覚え、渾身の力で腕を振り回した。絡んでいた腕が解ける。踏ん張り無理やりに足の拘束を逃れ、一瞬の隙をついてクルムは駆け出した。
「はぁ、はぁ、なんなの.....どうして夢の中でまであんな、みんなどうして....」
息が切れて喉が痛い、必死に走っているせいか、腕も足も千切れそうに痛かった。
怖い、怖い、どうして夢の中でまで彼らに命を狙われなければならないのか。
意味がわからず目尻に涙が滲んだ。
死を願われるほど恨まれるような因縁など知らないし、誰かに妬まれるような生き方はしてこなかったはずだ。表向きには王としての体裁を整えつつ、身内には常に己を律して謙虚に頭を垂れて生きてきた。それなのに。
「あっ......!?」
足を取られて派手に転んだ。
なんとか顔面から飛び込むことは避けたがそれだけだ。全身から飛び込んできた獲物を、彼らが逃すはずもない。今度は手足だけでなく腹や腰も拘束された。力は先ほどの比ではない、折ることに躊躇いない程の力で締め上げられクルムは咳込んだ。
「いた......ぃっ、くるし.....うっ」
手が掴まれた、首に手が回り、頬に指が這う。もがけばもがくほどその力は増していき、クルムを水底へ引きずり込もうとする。押し返そうとすればその倍の力で引かれ、指先すら動かせないほど拘束されていく。
「いや、だ......嫌だ嫌だ嫌だ!離せ、なんでどうして」
恐怖と悲壮が綯い交ぜになる。足が沈んだ、肩が沈んだ、腹が沈んで、もう口で呼吸することはできない。鼻が血水で満たされて、首をいくら反っても目を開くことすら難しくなっていく。
「た、すけ.......」
やがて音は消え、静かに波紋だけを残してクルムの姿は深い深い海底へと姿を消した。
ホラーが書ける人になりたい