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死にたかったか、龍馬 その六

 同年六月二十九日(一八六三年八月十三日)勝の使者として、越前藩京都屋敷に村田巳三郎を訪ね、海軍塾援助金への答礼として騎兵銃一挺を贈る


 「越前藩から塾開設資金五千両を無事借りることが出来、龍馬としては心身共に充実し

ていた時期かも知れません。二十九日に姉の乙女宛にあの有名な言葉が入った手紙を書い

ています」

 小泉さんがにやりと笑って、私の言葉を引き取って言った。

 「分かった。あれだろう、あれ。『日本を今一度、洗濯いたし申し候』。あまりにも有名

な言葉だ」


 同年七月八日(一八六三年八月二十一日)大坂町奉行・松平大隅守信敏を来訪、時事を談ずる

 同年九月二十四日(一八六三年十一月五日)勝の神戸屋敷が竣工

  同年十一月七日(一八六三年十二月十七日)京都で松平春嶽に拝謁


 「この間、八月には天誅組が挙兵、京都政界では八月十八日の政変が起こり、七卿落ち

という事態になり、また、九月には土佐で後藤象二郎の指揮下で勤王党が弾圧され、武市

半平太が投獄されたりして、激変の時期でありました。この間、龍馬は江戸、神戸、京都

と結構忙しく動き回る中で、二十八歳を迎えています。そして、その頃、江戸の土佐藩邸

から龍馬たち土佐藩の塾生は土佐への帰国を命ぜられましたが、土佐勤王党が厳しく弾圧

されている土佐に帰れば、まさしく命の保証は無いわけで、龍馬たちはこの帰国命令に応

じようとはしませんでした。一方、勝海舟からも書面で土佐藩に龍馬たちの延期願いを出

しますが、土佐藩からは素気無くく拒絶されることとなり、結果的に、龍馬たちは揃って

脱藩の身となりました。龍馬としては二回目の脱藩です。その後も、勝海舟の神戸私塾を

根城に、龍馬は大坂、京都、神戸界隈に出没し、或いは、勝に随行して長崎に行く途中、

熊本に隠棲していた横井小楠を訪ねたりして、結構忙しく飛び回っております。文久三年

の次は元治元年となりますが、この年の春に、生涯の伴侶となるお龍さんと知り合った模

様です」


 元治元年五月十四日(一八六四年六月十七日)勝海舟、軍艦奉行に昇任、安房守となる

 同年五月二十一日(一八六四年六月二十四日)幕府、神戸海軍操練所を設立

 同年五月二十九日(一八六四年七月二日)幕府、練習生を公募(二百名内外)

  同年六月五日(一八六四年七月八日)池田屋事件で龍馬同志の北添・望月が闘死


 「龍馬は京都に居ましたが、池田屋事件が勃発した頃は船で江戸に行っておりました。

従って、同志の死を知りません。実は、この頃、龍馬たちは尊王攘夷の過激志士を北海道、

当時は蝦夷地と呼んでおりましたが、ここに移動させ、北海道を根城にした開拓と貿易に

従事させるという遠大且つ夢のある計画を立案していました。突飛な考えに思えますが、

尊皇攘夷の過激派が京都で新選組とか見廻組に浪士狩りに遭い無残に殺されていく状況を

何とか打破したいと思案した挙句、この蝦夷地移住案に辿りついたのではないでしょうか

ねえ。この蝦夷地開拓案に関しては、勝が六月十七日に下田に寄港した時に、龍馬は勝を

訪ね、話しております。その時、おそらく、池田屋事件の顛末を勝から聞いたのかも知れ

ません。同志の突然の死を知った龍馬の悲しみと、計画の頓挫に対する失望感は大きかっ

たものと思います」


  同年七月十一日(一八六四年八月十二日)京都で佐久間象山が暗殺される

  同年七月十八日(一八六四年八月十九日)京都で蛤御門の変。翌十九日まで続く

  同年七月二十四日(一八六四年八月二十五日)幕府、長州征討の出兵を命令(第一次)


 「この期間、龍馬は江戸、神戸、大坂に居ました。八月一日に京都に潜入し、お龍さん

と内祝言を上げています。伏見の寺田屋で恋人・お龍と逢瀬を楽しんだことでしょう」


  同年八月五日(一八六四年九月五日)英・仏・米・蘭の四ケ国連合艦隊、下関を砲撃

  同年八月十三日(一八六四年九月十三日)勝の使者として京都・薩摩藩邸に西郷を訪問

  同年八月二十三日(一八六四年九月二十三日)神戸に戻り、西郷との会談を勝に報告


 小泉さんが言った。

 「龍馬と西郷隆盛との会談も有名な話になっているね。龍馬は西郷を評して、小さく叩

けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る鐘のようだ、と言い、勝は後年、評する人も人、

評される人も人、と双方を誉めている」

 「英雄は英雄を知る、ということですかねえ。この逸話は人をわくわくさせますね。た

だ、これ以後、勝の日記には龍馬暗殺の報を記事として書くまで、龍馬関連の記事は一切

出て来なくなります。おかしなことですが。また、或る歴史家の話に依れば、龍馬は勝海

舟に一通も手紙を出していないそうです。筆まめな龍馬が恩師の勝に手紙を書いていない、

というのも不思議な話です。龍馬から貰った手紙を全て廃却してしまったのかどうかは判

りませんが、龍馬と勝の仲は本当に巷間言われるほど良かったのでしょうかね。その歴史

家は、勝は嫌いな人に関する記事は日記には記さない人であったと言っていますが、龍馬

は勝に嫌われていたのですかねえ。どうも、判りませんね」

 「龍馬は龍馬で、幕府批判を痛烈に行いながらも、獅子身中の虫として幕府の中枢に残

り、どこか自分の栄達を図っているようにも見える勝海舟という人物に幻滅にも似た失望

感を感じていたのかも知れませんよ」

 「勝は勝で、そのような皮肉な眼で自分を見始めた龍馬に、何を小癪な、とばかり冷た

い視線を向け始めたのかも」


  同年九月十一日(一八六四年十月十一日)勝と西郷が大坂で会談

  同年九月十九日(一八六四年十月十九日)神戸塾生の姓名出所を幕府方が探索開始

  同年十月二十二日(一八六四年十一月二十一日)勝に幕府から江戸召還命令が出る

  同年十一月十日(一八六四年十二月八日)勝、軍艦奉行を罷免される


 「勝は、池田屋事件で塾生が絡んでいたことで、幕府に楯突く者を塾生としていた点を

問題視され、江戸に呼び戻され、罷免されました。勝の異例とも云うべき出世を快く思わ

ない幕臣は多かったと云われており、これ幸いとばかり、幕府に楯突く者を塾生とし、塾

を謀反人の巣窟にしていると正論を以て非難し、勝の失脚を謀る輩は多かったんでしょう

ね。正論で嫉みを隠蔽すると云う男は結構いますから。従って、龍馬たち土佐脱藩者は居

所を無くしたわけです。龍馬の消息も、十一月の頃、江戸で沢村惣之丞と共に外国船借用

工作を図り失敗したという消息を最後に、翌年の四月上旬まで五ヶ月間ほど消息不明とな

っています。龍馬は二十九歳を迎え、どこに潜伏していたのでしょうか。龍馬以外の高松

太郎たち土佐脱藩浪士は大坂の薩摩屋敷に潜伏していたという記録は残されていますが、

肝心の龍馬の所在に関しては、江戸に居た、大坂に居た、或いは、頭髪・服装を薩人の風

に擬し、大坂・伏見・京都にあった薩摩屋敷に秘かに潜伏していたとする説もありますが、

どうも判然としていません。僕はこの期間、もしかすると、長年の夢であった蝦夷地開拓・

貿易の可能性を探索するために、蝦夷地を訪れていたのではないか、とも考えています。

或いは、上海あたりに密航して外国事情を自分の眼で確かめてきた、とか。いずれにし

ても、龍馬自身、この期間に出した手紙が一切発見されていないので、まあ、勝手な想像

を逞しくすることはできますね。それと、これは少し嫌な話なのですが、勝の私塾の塾頭

をしていた佐藤与之助という人が後日勝に出した手紙の中で、土佐の者が勝の金、五十両

を勝手に持ち出してそのまま返さないということで困っているということを書いています。

その中で、龍馬も十両持ち出した、と書いています。本当かどうかは判りませんが、本当

だとすれば、勝が龍馬を嫌いになったかも知れない理由の一つにはなりますね。僕もお金

にだらしない人は嫌ですから」


  同年十一月十四日(一八六四年十二月十二日)長州藩、幕府に降伏                  

  同年十二月十六日(一八六五年一月十三日)高杉晋作が蜂起し、長州藩内戦状態に陥る

 慶應元年三月九日(一八六五年四月四日)神戸海軍操練所廃止の布達が出た

  同年三月十二日(一八六五年四月七日)神戸海軍操練所が廃止される

  同年四月五日(一八六五年四月二十九日)龍馬、大坂から京都に入り、薩摩藩吉井幸輔宅で土方久元と面談する(土方は五卿衛士で中岡慎太郎と薩長和解を画策していた)

  同年四月十二日(一八六五年五月六日)幕府、第二次征長令を発す

  同年四月二十二日(一八六五年五月十六日)西郷、小松帯刀に同行し、京都を発する

  同年四月二十五日(一八六五年五月十九日)薩摩藩船で鹿児島に向かう

  同年五月一日(一八六五年五月二十五日)西郷に伴われ、薩摩に入国

  同年五月十六日(一八六五年六月九日)鹿児島を発す

  同年五月十九日(一八六五年六月十二日)熊本の横井小楠を訪問

  同年五月二十三日(一八六五年六月十六日)太宰府に着き、三条卿他に謁見する

  同年五月二十八日(一八六五年六月二十一日)薩長和解を説いた上で、太宰府を発す

  同年閏五月一日(一八六五年六月二十三日)筑前黒崎から長州下関に着く

  同年閏五月二日(一八六五年六月二十四日)下関、綿屋弥兵衛方に止宿し、病気静養

  同年閏五月五日(一八六五年六月二十七日)白石正一郎宅にて土方と面会、中岡の薩長和解について協力を約束する

  同年閏五月六日(一八六五年六月二十八日)桂小五郎と会見、薩長同盟を説く


 「慶應元年は十ヶ月足らずで海軍操練所が閉鎖され、脱藩浪人となった龍馬は薩摩藩の

庇護を受ける形で活動し、いよいよ薩長同盟に向けた活動を開始しています。そして、こ

の頃、長崎で日本初の株式会社のような性格を持った結社、亀山社中を興しています。下

関で病気静養をしていますが、何の病気かは不明です。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、

龍馬には持病の瘧(おこり、と読む)があったと書いていますが、本当のところは判っておりません」

 「瘧と云う病気はどういう病気かい?」

 「今の言葉で言えば、マラリアですよ。ほら、何とか言う蚊が媒介する南方系の病気で

す。高熱を発して数日寝込みますが、滅多に死ぬことはないと云う病気です」


  同年閏五月十一日(一八六五年七月三日)土佐で獄中の武市半平太が切腹

                     享年三十七歳


 「龍馬の盟友、武市半平太が切腹して果てました。切腹は三段腹ということで、腹を三

回掻き切って死んだそうです。見事な切腹であったと云われておりますが、何ともはや、

惜しい人材でした。幕末のテロの黒幕という暗い一面はあったものの、人物としては第一

級の人物でした。明治になってから、桂小五郎、後の木戸孝允が山内容堂に酒席で食っ

てかかっています。なぜ、武市半平太を殺したか、と。その他の同志は斬首とか永牢とい

う処分にあっています。武市やかつての同志の死を聞いた龍馬の心中は察するにあまりあ

ります。龍馬が作ったとされる端唄に、このようなものがあります。『咲いた桜に なぜ駒

つなぐ 駒が勇めば 花が散る』、『何をくよくよ 川端柳 水の流れを見て暮らす』。せ

つない心情を歌っている、とされています」


  同年閏五月十六日(一八六五年七月八日)中岡、西郷に同行し、鹿児島を発す

  同年閏五月十八日(一八六五年七月十日)佐賀関に寄港。西郷は下関に寄らず大坂へ直行

  同年閏五月二十一日(一八六五年七月十三日)中岡、単身下関に着く。桂、大いに憤慨す

  同年閏五月二十七日(一八六五年七月十九日)桂、山口に帰る。薩長同盟、頓挫す

  同年閏五月二十九日(一八六五年七月二十一日)西郷説得の為、中岡と下関を発し京都へ

  同年六月二十九日(一八六五年八月二十日)薩摩京都藩邸で西郷と面会し、違約を咎める

  同年七月十九日(一八六五年九月八日)中岡、田中顕助(後、光顕)、長州に下るを送別

  同年九月二十四日(一八六五年十一月十二日)西郷に同行し、京都を発す

  同年九月二十六日(一八六五年十一月十四日)薩船にて兵庫出航。西郷・大久保・サトウ

  同年九月二十九日(一八六五年十一月十七日)上ノ関に上陸。長州藩家老浦靱負に会う

  同年十月三日(一八六五年十一月二十日)山口にて長州藩に西郷依頼の兵糧米供給を要請

  同年十月四日(一八六五年十一月二十一日)米供給が承認され、下関駐在の桂に調達命令

  同年十月二十一日(一八六五年十二月八日)下関にて桂と会談。重ねて薩長和解を説く

  同年十一月七日(一八六五年十二月二十四日)幕府、諸藩に長州出兵を命ずる


 「中岡慎太郎に西郷隆盛を下関に連れて来させ、桂小五郎に引き合わせ、薩長和解を図るつもりであったが、西郷の心変わりによって、この目論見は頓挫してしまいました。龍馬は京都に行き、西郷の違約を大いに咎めた、ということです。その後、薩摩には長州から米を供給し、長州には幕府との戦いで必要となる軍艦と武器を薩摩の名義で買う、といった双方が得をする案を出し、実質的な薩長和解の実績をつくるべく龍馬は奔走しました。今で言う、ウイン・ウインの関係を構築させて実質的な同盟関係を目指させるという龍馬の戦略は大したものです。いい経営者になれる要素を龍馬は持っています。さて、そんなこんなで、龍馬は三十歳となり、後、龍馬に残された余命は二年足らずとなりました」


 慶應二年一月一日(一八六六年二月十五日)下関で、長府藩士・三吉慎蔵と会談。三吉とは初対面

  同年一月十日(一八六六年二月二十四日)三吉と共に、下関から船で兵庫に向かう


 「三吉慎蔵は薩長同盟を推進する龍馬の身の上を案じた長府藩主の内命によって、龍馬に付けられた護衛の武士です。言わば、長州サイドからVIP扱いされた龍馬を幕府から守るボデイ・ガードですね。槍の三吉、と云われた槍の使い手でした。龍馬の良き友人となり、龍馬が暗殺という非業に斃れた後、残されたお龍の世話をして、土佐の龍馬の実家に送り届けたのもこの三吉でありました。僕は何となく、この人に三国志の蜀の武将、趙雲子竜をイメージします。寡黙であるが、友情を大切にする実直な男らしい男、というイメージです」


  同年一月十四日(一八六六年二月二十八日)近藤長次郎こと、上杉宋次郎、英国密航の計画が社中に露                      顕し、問責されて切腹自刃。享年二十九歳


 「龍馬の同郷の年下の友人であり、龍馬は『饅頭屋』と言って可愛がっていた人でした。

長次郎は小さい頃、家の商いである饅頭を売りながら刻苦勉励したという人でした。余程、

外国に憧れていたのでしょうね。外国に行って勉強して更にレベルアップしたいという気

持ちを持っていた人であったと思っています。長次郎に切腹を強いた亀山社中の同志たち

に嫌なものを感じさせられますねえ。正論を突き付け、人を破滅させようとする嫉みの酷

薄さを感じ、薄ら寒い気持ちになります。龍馬不在中の出来事で、龍馬は俺が居れば、死

なせはしなかったと後日長崎に戻ってこの事実を知らされた時に大いに長次郎の死を歎じ

たということです。ちなみに、長次郎は英語も独学でしょうが、或る程度は話せたという

秀才でもありました」


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