キツネ姫と妖怪ドロドロ
夏休みのある日、朝から降っていた大雨が止んだので、稲荷アヤメは長靴を履いて外に出た。空はまだどんより曇って、暗い雲がもくもくとしている。きっとあの雲がさっきまでこの辺りにバケツをひっくり返したみたいな激しい雨を降らしていたのだろう。
強い風がアヤメの顔から長い髪へとすり抜けていく。湿気を含んだ風はあまり心地良いとは言えないが、それでもここ連日が暑すぎた。内水効果で気温が下がり、太陽も隠れている今が散歩をするにはちょうどいい。水たまりをパチャパチャさせながら歩いていると、公園に差し掛かったあたりで後ろから呼ぶ声が聞こえた。
「アヤメさーん!!」
それは同じクラスの橘奏斗だった。奏斗はみんなが校庭でサッカーをしている時に飼育小屋にこもって動物たちの世話をしているような内気な男の子だ。それなのに夏休み前に転校してきたばかりアヤメは、なぜか奏斗に気に入られてしまっている。
アヤメには女子の友達がひとりもいない。それは彼女が小学5年生のわりに大人びていて近寄り難いのが原因だったが、奏斗は夏休み中もアヤメをみつけてはことあるごとに声をかけていた。
「そんなに走らなくても逃げないのに」
額に汗をかきながら走ってきた奏斗にアヤメは冷めた口調で言う。それでも彼は気にせずにニコニコと笑っていた。
「昨日おばあちゃんちに泊まって、チョコをたくさんもらったんだ! その帰り道にアヤメさんが見えたから」
たしかに奏斗の持つビニール袋の中にはにハートや星型のチョコがたくさん入っていた。
「これアヤメさんにあげるよ。女の子はチョコが好きでしょ? 早く渡さないと溶けちゃうと思って急いできたんだ」
ビニール袋を差し出されたアヤメは渋々それを受け取った。
『私、チョコは食べられないんだよね』
心の中ではそう思いながらも「ありがとう」と言うと奏斗は嬉しそうだった。食べられなくてもこうして受け取ってお礼を言う。それが大事だとわかったのはつい先日のことだった。
「僕、これから舞ちゃんに本を貸す約束なんだ。よかったらアヤメさんも来ない?」
アヤメは奏斗の誘いに苦い顔をした。舞は奏斗の一つ年上の幼馴染だ。一度、誘いについて行ったことがあるが、何が楽しいのか一緒にいてもそれぞれが好きな本を読んでいるだけだった。でも行きたくない理由はそれではない。
アヤメは舞の顔を思い出した。それは舞が焼いてきたクッキーを『食べられないから』と突き返した時の顔だ。マイはかわいらしくラッピングされたクッキーを握りしめて、がっかりとした顔をしていた。よほどショックだったのか、それから舞はアヤメと一言も口をきかなかった。その時、本に夢中になっていた奏斗はふたりの間でそんなことがあったなど知らない。アヤメはあれから会っていない舞にどう接すればいいのか分からなかったのだ。
「今は散歩をしたい気分なの」
アヤメがそう言うと奏斗はまゆ毛をハの字にして残念がった。
「そっか、残念。舞ちゃんもアヤメさんに会いたがっていたんだよ。また今度遊ぼうね!」
手を振りながら小さくなっていく奏斗の背中を見送って、ひとり残されたアヤメはふと公園を見た。濡れて遊具の使えない公園には誰もいない。公園に植えられた木々は風が吹くたびにその葉に付いた水滴を散らしていた。
「無視していたくせにまた会いたいとか意味がわかんない」
アヤメは心の中がモヤモヤするのが腹立たしかった。砂利が敷き詰められた公園の中をズンズンと歩き、木の下で止まる。そこだけが砂利ではなく土が盛られていて、茶色の大きな水たまりができていた。
アヤメはむしゃくしゃする気持ちをぶつけるように足で水たまりを勢いよく踏みつけると、泥水はしぶきをあげてアヤメの身体にふりそそぐ。しかし泥水を浴びながら、彼女の口元にはニッと笑みが浮かんでいた。
アヤメは服や身体が泥まみれになるのも気にせずにバシャバシャグチャグチャと泥遊びをした。その様子は子どもの泥遊びというよりも獣の泥遊びだ。
実はアヤメの正体は800歳を超える狐の妖怪だった。狐が生活できるような場所が消えてしまった現在ではこうして人間に姿を変えて生活をしている。何百年生きていても狐は狐。アヤメは泥遊びが大好きだった。こうして夢中で泥遊びをしている間は人間世界の面倒なことも忘れることができた。
しばらくの間、大胆に泥遊びをしていると次第に泥の中に目玉がポコッポコっと浮き上がり、口と手もどこからか出てきた。その姿は泥のオバケとしか言いようがない。泥のオバケはアヤメを見ると低い声でゆっくりと話をした。
「おやおや、誰がめずらしく泥遊びなんかしているのかと思えばキツネ姫か」
アヤメは時代によって名前を変えていたので妖怪たちに『キツネ姫』と呼ばれていた。懐かしい名を呼ばれたアヤメの顔はパッと明るくなる。
「ドロドロ! 久しぶりだね!」
「キツネ姫が泥遊びをしてくれたおかげで久しぶりに出てこられたんだよ。今じゃコンクリートだらけでドロドロした場所なんて少ないからね。昔は雨上がりになると子どもたちがこぞって泥遊びをしたもんだが……。子どもたちとも遊べなくなって寂しいもんさ」
『ドロドロ』は大昔からいる妖怪だ。ぬかるんでドロドロになったところにいつの間にか現れる妖怪なのだが、最近ではめっきり姿を現さなくなっていた。
「ふぅん。ドロドロは人間の子どもが好きなのね。私は人間の子どもなんて大嫌い」
アヤメはそっぽを向いた。そんなアヤメをドロドロは興味深そうに見つめる。
「これは古狐らしくない。人間に仲間外れにでもされているのかい? 見た目だけじゃなく心も人間の子どもになってしまったみたいだ」
アヤメの姿はどう見てもやんちゃな11歳の女の子にしか見えない。しかし、その顔についた泥をゴシゴシとこすると、きれいにつり上がった瞳をするどく光らせて、ムッとした顔をした。
「そんなんじゃないよ。離れたかと思うとすり寄ってくるのが理解できないだけ。人間の子どもってすごく自分勝手」
ドロドロはアヤメの話を面白そうに聞いていた。
「人間は情が深いからね、情で繋がっている限りは離れてもまたくっつこうとするのさ。特に子どもは純粋だから自分の感情に素直なんだよ」
「ふん、そんなものに振り回されるこっちの身にもなってほしいよ」
アヤメは大きなため息をつく。ドロドロは大妖怪が人間の子どもに振り回されている様がおかしかった。
「裏を返せばお前さんも情をかけられているっていうことだ。忘れ去られていく俺からすれば羨ましいかぎりだよ」
そう言ったドロドロは先ほどよりも一回り小さくなっていた。気付けば雲の隙間から晴れ間が見えて、時折強い日差しがふたりを照らしていた。
「ドロドロ、お前小さくなっているぞ」
「いやだね、夏はすぐに水が渇いて消えなきゃいけない。ここも来週は補修工事をしてコンクリで固めるそうだ。他に出る場所があればいいんだが、ドロドロのものを人間は好まないからね。キツネ姫にももう会えないかもしれないな」
アヤメの長靴についた泥も乾き始めて亀裂が入っていた。スイッチが入ったように蝉がジージーとけたたましく鳴きだす。
「古い友人がいなくなるのは寂しいな」
アヤメはどんどん小さくなっていくドロドロを見て言った。
「キツネ姫もずいぶん人間くさいことを言うようになったな。古いものが消えれば、新しいものが生まれる。長く生きているお前さんならよく知っているだろう。お前さんは新しい友人を大切にするんだよ」
そう言うとドロドロの姿はただの湿った土に戻ってしまった。
「アヤメさーん!」
声の方を見ると公園の入り口に奏斗が立っている。アヤメは慌ててその場でくるっとひと回りすると不思議なことに身体や服に付いた泥はきれいさっぱりなくなっていた。するとちょうど奏斗が先ほどと同じように一生懸命走りながらこちらへやってきていた。
「だからそんなに走らなくても逃げないってば」
奏斗は息を切らして、ハァハァと肩を揺らした。
「舞ちゃんにアヤメさんのことを話したら、アヤメさんが甘いもの苦手だって教えてくれたから。ごめんね、知らなくて」
奏斗から舞の名前が出たので、また少し心が重くなる。
「彼女、本当は私のこと怒っているんでしょ?」
不安な気持ちが悟られないように気丈に言うと奏斗は首をかしげた。。
「え? 舞ちゃんが? 怒ってないよ。でも舞ちゃんもアヤメちゃんが怒ってないか気にしてた。何かあったの?」
「うん、ちょっとね……」
どう答えようか悩んでいると、湿気を多く含んだ甘い香りがムワっとアヤメの鼻を刺激した。その香りはアヤメのポケットから漂っている。ビニール袋を出すとチョコはトロトロに溶けてしまっていた。
「ごめん、溶けちゃった」
申し訳なさそうに言うアヤメに奏斗は優しく笑いかけた。
「大丈夫だよ。型に入れて冷やせばまたかわいいチョコになるよ」
驚いたアヤメだったが、すぐにあることを思いついた。
「じゃあさ、これから舞ちゃんも誘って、みんなでかわいいチョコを作らない?」
アヤメの提案に奏斗の顔が輝く。
「もちろん! うれしいな! アヤメさんから遊びに誘ってくれるなんて! 舞ちゃんも絶対喜ぶよ」
奏斗が大げさに喜ぶのでアヤメはなんだか恥ずかしかった。
「そんなに喜ぶことでもないでしょ?」
アヤメが口をとがらせて言っても、まだ奏斗は嬉しそうにしていた。
「だって僕、アヤメさんが転入してきた時から、アヤメさんのことをなかなかなつかない野生の動物みたいでかっこいいって思っていたんだ! だから仲良くなれたって思うとすごく嬉しんだよ」
奏斗の言葉に思わず、変化が解けそうになる。
「バ、バカなこと言わないでよ」
「ごめんね、気を悪くしちゃった?」
「べつに。ほら先にいくよ!」
アヤメは飛び跳ねるように走り出す。
「ちょ、ちょっと待ってアヤメさん!」
アヤメが握りしめる袋の中で、トロトロに溶けたチョコにポコポコと小さな目玉が浮かびあがった。
「いいところ見つけた。俺、『ドロドロ』やめて『トロトロ』になろ」
現れたばかりの小さな口がひとり言を言う。トロトロは二人の笑い声を聞きながら、熱い日差しを浴びて気持ちよさそうにゆらゆらゆらと揺られていた。
▽▼▽▼おしまい▽▼▽▼
お読みいただきありがとうございました。
大人になったふたりが主人公の「キツネ姫とイタチ先生」を明日(8月23日)投稿予定です。
そちらも宜しくお願いいたします。