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初/恋バレンタイン

作者: Mr.OTK

「お湯加減大丈夫ですかー?」


「大丈夫でーす」


「痒い所はー?」


「ありませーん」


 2014年2月14日。日本という国のある県のとある町。都会とも田舎とも言えない中途半端な町の美容院で、リクライニングシートに座って百五十度の角度を作りながら、あたし――蓮川由香(はすがわゆか)は後ろから頭を洗面台に預け、幼馴染の理容師――和泉龍一(いずみりゅういち)に自慢のロングストレートの黒髪を洗われていた。


 果物の香料がするシャンプーがあたしの鼻腔を(くすぐ)る。髪を洗われている感覚が何とも気持ち良くて、日頃の疲れが溜まっているあたしには胡散臭い催眠術よりも催眠効果がある。


「おーい、由香ー? 寝るなよー」


「うるさい、寝てない。とっとと洗え」


 へいへいと気の無い返事をする意味不明で胡乱な事を言い出した幼馴染を一喝し、自分の仕事に集中させる。内心を見透かされたとは正直思いたくない。幼馴染がエスパーとか洒落にならないからであって、他意はない。


 ザーッというゲリラ豪雨を小規模化したような音がして、シャンプーの泡でもこもこしていたあたしの髪の毛を水流がさらっていく。


 湯加減は熱すぎず、冷たすぎず、ぬるくない絶妙な温度。勢いが若干強いような気がしないでもないけど、小さすぎる文句なので飲み下した。今のあたしはどんな嫌味でも飲み干せてしまうほどに心が寛容なのだ。


「ほい、洗髪終わり。次カットな」


 一分と掛からずにあたしの洗髪は終わり、龍一がリクライニングシートを直角近くにまで起こして、洗髪中に跳ねた水が服に付かないようにあたしの首から掛けられていたクリーム色のビニルのシートを後ろから外し、タオルを巻いて水気を吸い取らせながら先を促す。


 歩くという程も歩かずに、五つある大きな鏡が目前に備え付けられたチェアの一つに腰掛ける。鏡の下には段差があって、そこに週刊誌やヘアカタログ、飴玉の入った小さなかごなんかがあった。


 龍一が霧吹きや櫛などの小道具がある黒い三段に重なったキャスター付きの籠を自分の傍に転がして来ると、後ろから切り落とした髪の毛を払う為のケープを掛け、準備が万端になった所で私に話し掛ける。


「んで、今日はどれだけ切るんだ? 今は腰よりちょい上まで伸びてるけど」


「ん……ショートまで切っちゃって。バッサリと」


「……マジで? あんなに自慢にしてたのに?」


「うん」


 龍一の言うとおり、この長い髪はあたしの自慢だった。自分で言うのもなんだけど、かなり手入れには気を付けていたから、小説の表現みたいに艶やかなって形容が相応しい黒髪だ。


 けれど、あたしはこの自慢の髪を――長年伸ばして来た髪の毛をばっさり切り捨てる心算だ。


「もったいないと思うんだけどなぁ。何かあった?」


「あった。彼氏に浮気された」


「うわぁ……」


 やっちまった、という表情を浮かべる龍一だが、実の所それだけなら髪を切り捨てるつもりはなかった。私がロングからショートに大きく変える訳は、実はもう一つある。それは――


「ま、由香がそう言うならショートにするか。もう一度聞くけど、本当にいいんだな? 後悔しても知らないぞ?」


「いいから、気にせずバッサリやっちゃって」


「りょーかい」


 あたしの念押しの許可を皮切りに、カットを始める龍一。龍一の少々ゴツイ手が霧吹きの水で濡れたあたしの髪に触れ、櫛を通して髪の毛を切っていく。


 水を含んで重くなった髪の毛は、ケープの上に落ちるとさらさらとその上を、まるで滑り台に乗った子供のように流れていく。


 暫くの間黙々と作業していた龍一だったが、半ば頃になって独り言のように話し掛けて来た。


「そういえば、由香がショートにするのって俺の知る限り高校生以来か?」


「うん。伸ばし始めたのは高一からだから、それで合ってる」


「何でお前、あの時から急に伸ばし始めたんだ? 昔っからずっと長い髪なんて邪魔だ! って言ってたのに」


「まぁ……思う所があったの」


 あたしと龍一は、俗に言う幼馴染って奴だった。閑静な住宅街の中、家が隣同士で、同じ小学校に行き、中学校に行き、高校に行った腐れ縁だ。


 昔のあたしは相当活発で、長い髪なんて邪魔でしかなかったから、ずっとショートか、長くてもセミロングまでだった。だけど、高一に入ってあたしが初めて恋を知った時、その相手の好みがロングだと聞いたから伸ばし始めたのだ。


 が、あえなく失恋。その相手にはいつの間にか恋人が出来ていたのだ。今になってやっと分かったのだが、どうやらあたしが今までずっとロングだったのは、初恋を引きずっていた影響だったらしい。だからこそ今日、心機一転の意味も込めてショートにしてもらうようにお願いしたのだが。


「そういえば龍一、あんた結婚するんだよね?」


「ん? おう。由香にも結婚式の招待状送ったよな?」


「うん、来てた。もちろん出席させてもらう……ってそうじゃなくて、相手の人ってどんな人なの?」


「あー、そういえば由香は会った事なかったっけ? 大学時代の後輩だよ。縁あって同窓会の時に意気投合してさ」


 そう語りながらカットをする龍一の顔は、あたしが見たことの無い優しさで一杯だった。それぐらい彼女の事を好きなのだろう。そう思える相手がいるのがかなり羨ましい。


 だからだろう。私は多少刺々しい声音で、龍一に尋ねた。


「ふーん……でもさ、あんたその子養っていけるの? 子供の事とか考えると、今のまんまじゃキツイんじゃない?」


「まーな。食ってはいけると思うけど、今のご時世不安ばっかだからなぁ……景気は上がって来てるって話だけど、それが俺らに反映されてるかと言えば微妙だし」


 多少愚痴っぽくなりながらそう言う龍一。ただまあ、それは龍一だけじゃなくて、世間一般の大半が感じていることではあるのだが。


 すると、龍一はあたしが思いもしなかった事を口にした。


「ただまあ、大学時代の先輩から東京に来ないかって前から誘われててさ。そこって結構大きな美容院で、評判も高いんだ。給料も少なくとも今より上がるって言われて。でも、俺は地元が好きだからって言って断ってたんだけど……結婚を機に、この春から上京しようかと」


「……なるほどね」


 それはあたしも知らなかった。なるほど、真面目で堅物な龍一が結婚に踏み切ったのはそういう背景もあったわけだ。


 そんな風に話している間に、あたしの散髪は終了した。龍一が意識したのかしていないのかは知らないけど、どことなく昔のあたしの髪型に近い仕上がりになっている。


 最後にもう一度髪の毛をシャワーで流し、ドライヤーで乾かしたら本当に終了だ。この春から上京するという話が何かの拍子で変わったりすることが無ければ、多分、龍一があたしの髪を切ってくれるのは、今日で最後だろう。


 お疲れ、と声が掛けられ、チェアから立ち上がる。預けていた鞄とコート、それとマフラーを龍一から受け取る。


「っていうかこれ、由香が来た時は気付かなかったけど、昔俺が編んだマフラーじゃん。まだ使ってたのか?」


「ん、まぁね。なかなか使い心地良かったから。本当龍一って女子力高かったよね。今もだけど」


「ほっとけ……えーっと、カット代だけだから四千三百円だな」


 そう言われてあたしは無言で五千円札を出す。七百円のお釣りだな、と言いながらレジを打ち、七百円を差し出してくる龍一に対し、あたしは思う。


 ――もしも、これで本当に最後なら。


「ねぇ、龍一。ちょっとだけ……時間ある?」



◇◆◇◆



 美容院の店長に二十分だけ休憩をもらって、俺――和泉龍一が背中を見せる幼馴染の蓮川由香に連れられたのは、遊具が滑り台とジャングルジムしかない、小さくちゃっちぃ公園だ。


 ふっとまだ春風というには冷たい風が頬を撫でる。目の前の幼馴染の髪はもうそれに靡く事は無く、ほんの微かに揺れるような仕草を見せるのみだった。勿体無いなぁという未練に似た何かが、俺の胸を巡る。


「んで、話って何だよ? 悪いけど二十分しか時間ないから、出来るだけ手短に頼むな」


「うん。分かってる」


 由香が俺の方に振り向き、何処かのブランド物の鞄から赤いリボンがラッピングがされた包みを取り出した。彼女は一瞬躊躇う様な表情を見せながら、俺に言葉を掛ける。


「今日、バレンタインデーでしょ。チョコ、あげる」


「……んー」


 由香のその申し出を聞いて、俺は唸り声を上げる。


 いや、普通に貰えるのは嬉しい。嬉しいんだが、俺はもう結婚を間近にしている身で、正直貰っていいのかどうか迷うのだ。それが例え義理でも。


「あんた今、義理チョコだけど、もらうのは気が引けるなーとか思ってるでしょ」


「おう、正直な」


 こういう時に嘘はつかない。ついたって意味ないし、由香とはそんな無駄な嘘をついて遠慮するような間柄ではないからだ。


 すると由香はそこで、思いもよらなかった言葉を口にする。


「悪いけどこれ、義理じゃないから」


「……は?」


由香の言葉に呆気に取られる俺。このチョコが義理じゃない? 義理じゃないのなら何だと言うのか。まさかの友チョコ? 或いは最近また知らぬ間に新しく作られた括りのチョコ?


 色々な方向へ思考を向けている俺に対し、由香はほんの少し恥ずかしげにしながら真実を告げる。


「これ、龍一に対する本命のチョコ」


「…………」


 今度こそ、俺の思考は停止し、直後に混線状態になった。


 意味が分からん。本命チョコ? 由香が俺に? 結婚するって言ってる奴に? そんな馬鹿な――


 そんな風にうろたえている俺を楽しそうに見る由香は、俺の心境を察しているのかいないのか。目を閉じて笑みを浮かべながら、何かを思い出すように空を仰ぎ見て、俺に語りかける。


「あたしが髪を伸ばし始めたのってさ、龍一がロングの方が好きだってクラスメートの男子達と話してたのを聞いちゃったからなんだ」


 過去に意識を向けて、ああ、そんなことを話したこともあったっけ、と思い出す。あれは確か、お前が好きな奴は誰なんだよとか、そんな話の流れだった気がする。その時俺はロングが好みだって言ったのは……それは――


「あたしはその頃から龍一の事が好きだったから、マフラー貰った時とか本当に嬉しくて、龍一に好きになってもらえるように慌てて髪を伸ばし始めてさ。でも、あんたは隣のクラスの子と付き合い始めてたよね」


 それは……確かにそうだ。あの頃、妙に由香が余所余所しくなって、何だか少し寂しい気分で、丁度隣のクラスの子に告白されて、俺はその子と付き合い始めたのだ。


 ――恋愛のれの字も、全く理解しないまま。


「それからも何も無いまま高校を卒業して、大学に進んで、それぞれで就職して、今日に至るわけ。……あのさ、龍一。あたしがあれからずっとロングのままだったのはさ、龍一の事を引きずってたからなんだ。今になって、漸く分かったんだけど」


 由香が息を大きく吸って、それを地面に向かって同量吐き出して、顔を上げる。


 不敵な笑みを浮かべる彼女は、年月を得て変わった姿以外は何ら変わらなくて、それでいて今まで見たことの無い感情を、俺に向けていた。




「あたしは、龍一の事が……ずっと好きでした」




 ――その過去形の(・・・・)告白で、俺は全てを理解した。


「これ、本命チョコだって言ったけどさ……いや、チョコ自体はまあ、昨日作った奴なんだけど。気持ちは……龍一の事が本当に好きだって気持ちは、何年も前の賞味期限切れのもの。それをあたしはずっと引きずってたわけだ。長い髪と一緒にね」


 短くしてさっぱりしたー、なんて朗らかに言う由香。そんな彼女の浮かべる表情は、懐古とか、諦観とか、色々な感情が混ざっていた。


「だからこれは昔のあたしとのケジメ。最初は義理のつもりだったんだけど、龍一がこの春から上京するって言うからさ……手を抜いたつもりは無いから丁度良かったかなって。彼氏とは浮気されて別れたし、気持ちを引きずってた相手の龍一は結婚するし、あたしも髪を切って、昔のあたしがずっと渡せなかったチョコと一緒に、龍一にあたしの気持ちを渡したかったんだ。……でも、やっぱり駄目だよね」


 ゴメン、忘れて、と言葉を続け、包みを仕舞おうとする由香から俺はそれを無理矢理奪い取り、乱暴に開けて中身を食べた。


 何も見ないまま食べたので堅い食感がしたときは驚いたけど、どうやらチョコはチョコでもチョコチップクッキーのようだ。別に嫌いというわけでもない。


 突然の俺の行動に呆然とする由香を尻目に、俺はパクパクと残りのクッキーも食べていく。チョコチップにはビターチョコが使われているのか、口の中が甘ったるくなる事はなかった。


 全部食べ終わった所で俺も腹を括る。まさか、由香に一方的に話されて終われるほど、俺も何も感じてないわけじゃなかったんだぜ。


「……あのさ、俺が長い方が好きって言ったのは、短い方が好きって言って、由香と結び付けられたく無かったからなんだ」


 え、と音を漏らす由香を無視して、俺は自分の話を進める。


「由香と俺はずっと幼馴染でさ。色々あったけど、どっかでお前は俺の中で特別だったんだ。ただそれが、俺はずっと恋愛感情だって分からなかった。隣のクラスの子と付き合ってたのだって、実の所友達付き合いとの違いがよく分からなかったしな。申し訳なかったけど」


 そう、分からなかった。分からなかったからずっと、あの子と付き合い始めてからも、俺はずっと由香の事を追いかけていたんだから。


『龍一くんは、やっぱり由香さんの事が好きなのね』


 あの子――髪の長かった、恋人ごっこに付き合わせてしまった彼女。彼女のお陰で、高校生活の最後の最後に、俺はその気持ちに気付くことが出来た。


 ――それを、表に出すことはなかったけれど。


 深呼吸を一つ。情けないことだけど、今なら言える。始める為じゃなくて、終わる為のものだけど。


 伝えよう、俺の気持ちを。




「ありがとう、由香。俺も、お前の事がずっと好きだった」




 ……ああ、やっと言えた。もう何かが変わるわけじゃないけど、過去に戻れるわけでもないけど。俺は確かに、由香の事が好きだったんだ。


「……そっか」


 俺の告白を、瞠目しながらずっと聞いていた由香。包み込むように胸の前で握り締めた両手は、まるで何か大切なものを優しく抱きしめているかのようで。



「ねぇ龍一。あたしの事、好き?」



「好きだよ。一人の人間として」



「ねぇ龍一。結婚する()の事、好き?」



「好きだよ。一人の女として。心の底から……愛してる」



「……うん、よかった」



 そのままくるりと背を向ける。声が震えるのは寒いから。頬を伝う何かは過去からの便りだ。それだけ……それだけだ。


 擦れ違っていたけど、確かに交わっていた。二度と交錯する事はないだろうけど、きっと、この先もずっと、俺達の道は隣り合っているだろう。そう思えた。


「幸せにしてあげなよ。龍一みたいな真面目で面白みも無い奴なんかもらってくれるんだから」


「ぬかせ。由香こそもう駄目男に引っかかるなよ。お前って警戒心低いからなぁ」


「余計なお世話。せいぜい逃した魚は大きかったって後悔してなさい」


「はん! 子供作って幸せな家庭生活を送る俺と、独り身の自分とを比べて惨めな思いをしないように気を付けろよ?」


「ふふふ……」


「くくく……」


 互いが互いに憎まれ口を叩く。意味があるようで意味のない言い合いを続ける。ああ、きっと由香も俺と同じ気持ちなんだ。この時間を、誰よりも惜しんでる。


 けどもう時間切れ。約束の二十分だ。だから――


「またね、龍一」


「またな、由香」


 過去は振り返った。思い出は愛しいままだった。それで十分だ。


 進もう。先がどうなっているかは分からない。けれど、きっと俺たちの関係は、優しいままだから。


 日の暮れ掛けた空では、(しるべ)のように一番星が輝いていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 素晴らしいです。読み始めて、自身の経験もあるところから、すでに、自分自身が物語の主人公になっていました。どこにでもありそうな話なのに、この小説でしか感じられない切なさを味わされました。 そ…
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