(女性視点)
痩せた、背の高いシルエットが視界の端に見えた。何も言わず、こちらの様子を見ている。私はあえて気付かないふりをした。右から順に書類を重ね、ホッチキスで留める。暫くそうした後に顔を上げ、ちょっと驚いた風に笑ってみせる。時刻は昼休み。
「手伝うよ」そう言って伸ばされた手は大きかった。
人手不足だから。上司だから。理由は色々と挙げられたけれど、胸の奥で嬉しさが込み上げてくるのは抑えられなかった。今、きっと私は笑っているのだろう。
「すみません、仕事の合間だと間に合わなくて。しておきますから、お昼に行ってもらって大丈夫ですよ」
「俺、昼は食べなくても平気だから」
静かな作業が続いた。書類の擦れる音、ホッチキスを留める音、部屋の外から聞こえる人の声と足音。今だけは誰もここに近づいてくれるなと、心の底から願った。
色白で眼鏡。生まれつきというよりは単に日に当たらないのだろう、どこか不健康そうに見える。決して男前の部類ではない、四捨五入すれば四十路になる私の上司。美容院に行く暇もないのか髪は少し伸びてきている。その襟足が気になった。
私は思わず緩んでしまいそうな口元をきつく結んだ。私が話しかければ、この人はきっと気を使う。以前、食事に誘ったことがあったが「話すのは苦手」だと断られた。でも、私は知っている。彼は口下手でこそあるが普通に会話もするし、冗談だって言う。この人は“私が”苦手なんだ。
私は、窓辺の鳥が逃げないように、この人にとって居心地の悪くない空間を維持するほかなかった。
しかし、好意を持つことは悪いことではないはずだ。期待をしてしまうのは仕方のないことのはずだ。この人は、“私だから”こうして手伝ってくれているのではないかと。
ふと、向かい側からため息が漏れた。顔を上げると、ぼんやりとした表情で書類を揃える上司の姿。絵に描いたように疲れた顔をしているのが何だか面白くて、思わず笑ってしまった。
「何?」
「いや、あんまり疲れた顔してるから」
管理職という責任ある立場が嫌いなのも知ってる。日々、部下の教育や揉め事で心労を募らせていることも。この人はいつも疲れている。険しい表情の人間に囲まれて、上からのお小言も下からも文句も一心に受けているのだ。
「そういう君はいつも笑顔だね」
少し優しい顔をした。
だって、私が笑うとつられて笑ってくれるから。とは言えるはずもなく、私は笑顔で応えた。こうでもしないと私はこの人の笑顔すら拝むことが出来ない。
この人はとても優しい。こんな下心いっぱいの私に声をかけてくれる。同じ空間にいてくれる。私と貴方がよく目が合う理由を、貴方は知っているというのに。
私は、仕事以外のことで貴方と会話はしない。もう食事にも誘わない。ただ、良い部下になりたい。貴方の役に立ちたい。もし、愚痴でも零してくれるなら、それで少しでも気が晴れるなら、私はそれだけで充分だった。
「でも、ほんと、毎日疲れますよね」
「疲れるね」
「この前なんて、腕が上がらなくなってて吃驚したくらい」
「へえ? まだ若いのにねえ」
胸が痛んだ。
「ねえ。まだまだ若いはずなんですけどね。……あっ、手伝ってくださってありがとうございます。これだけ出来たら後は私一人でなんとかなるんで課長は少しでも休憩に行って下さい」
最後は突き放すような言い方になった。少し後悔した。
目は見れなかった。年の話は苦手だ。
君と俺はこんなに年が離れているのだと言われているようで。
叶わない恋だと、片思いすら許されないのだと言われているようで。
『年が違い過ぎるから』
そう言って貴方が私を拒んだのは一年前のことだ。