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さて、そんな怒涛の初日を過ごした私とハチロウは、相談して赤ちゃんの名前を決めた。
きっと親が付けたちゃんとした名前があるだろうけれど、いつまでも「赤ちゃん」呼びではこちらも困る。
散々ああでもないこうでもないと言いあった挙句、ハチロウが散々御子様御子様というので、便宜的に「みこ」と呼ぶことに決まったのは夜もかなり更けてからの事だった。
しかし不思議なことに、私達が喧々囂々と呼び名について騒いでいる最中もみこは一度も目を覚ますことがなかった。結構な大音量で話し合っていたのに、だ。
薫時代に園で世話をしていた乳児たちは、お昼寝の時間に寝かしつけをしていたが、音や声で敏感に目を覚ましてしまう子が多かったように思う。それに比べて、まあ夜だというのも加味してもだ。起きない。起きる様子がない。
「寝る子は育つと言いますからなぁ」
なんてのんきにハチロウは言っていたけれど、生後半年過ぎの乳児ってこんなものなのだろうか。
保育園に預けに来るお母さんたちは、皆さん寝不足そうな顔をしていたけどなぁなんて薫時代のことを思い出した。でも今日は私も疲れ果てているし、おなかも膨れた今となっては瞼がじわじわと重くなってしまっている。
「とりあえず、ちょっと私も休もうかな……夜泣きしたらしたときで、その時起きればいいか」
「それではあちらの箪笥にございます夜着へお召し替え下さい。お着替えはお一人でできますかな?」
「そのくらいできるわ。さっき漏らされついでに上に着ていた着物は脱いだの見てたでしょ」
「おお、でしたら我はこちらを片付けてまいります。あとで白湯だけでも枕元にご準備いたしましょう。他になにかございましたらまたお呼びくだい」
「って、ハチロウはどこで寝るの?」
「我は月狼族。本性に戻って社をお守りいたします故」
そう言うとハチロウは食器が載った膳を持って部屋から出て行ってしまった。その間に私は布団を敷き、それまで履いていた袴の帯を解く。
黒地に金の刺繍をいれたその袴は、修了記念の宴のために御用職人に作らせたものだ。丸二日履きっぱなしだったそれは既にしわしわで、見ようによっては煤けている。
洗濯をするにしても井戸水の手洗いでどこまできれいになるだろうか。アイロンでもしなければ折り目も復活しないだろうと考えると、なんだかとても悲しくなった。
しかも上に着ていた紫色の着物は、みこにお漏らしをされてしまったので洗濯をして干してあった。禁色の高い着物だったのに、と薫子としての意識がむくむくと湧いてくるがどうしようもない。
屋敷にあれが届いた時は、嬉しくて天にも昇る気分だった。次期東宮妃として、ついに禁色である紫を身に着ける許しを得たのだから。
いくら早くに東宮の婚約者候補となったとはいえ、持って生まれた神力のままで第一巫女になれるわけではない。国で一番の巫女として、東宮妃として、いや次世代の皇后として認められるには、己の神力を修行によって高めなければいけなかったのだ。
知識も教養も、そして神力も、全てを高めるために過ごした大学院の日々が瞼に浮かぶ。その思い出の中に蘭の姿が混じり、彼女に嫌がらせをした事実も思い出した。いくら邪魔だったからといっても、あんなことをしなければ美しい色を纏い、照宮殿下の隣に立って今日の修了式を終えるはずだったのだろうか。
はあ、とため息を吐くと私は箪笥の中から白い夜着を引っ張り出した。
そして夢も見ずにぐっすりと眠った翌朝。
私は乳児のか細いぐずり声で目を覚ました。
うわ、寝過ごした。お昼寝の時間に保育記録書かなきゃなのに、と飛び起きたけど、目を開けて見える景色は職場の園ではない。白い障子戸と暗い色のふすま、そして蛍光灯が設置されていないきれいな木目の天井だった。
「……あ、ああ。転生したんだったっけ……」
厳密にいえば転生なのかなんなのかはわからないけれど。しかし限界社畜保育士で廃乙女ゲーマーの薫としての記憶もあるし、侯爵家の悪役令嬢薫子の記憶もある。これからどうしようか、と考えたかったけれどそれを許さないのが赤ちゃんというものだ。
私は傍らの座布団でむずかるみこを抱き上げた。
「よしよし、おはよう、みこちゃん。いや、みこくん。おなか減った? おむつかな」
「うぇぇ……」
「外も明るいし、さすがにそろそろおなか減ったかしら……大きさや手足の動かしかたから考えて、そろそろ離乳食でもいいのかなぁ……」
「ふ……えぇぇぇぇ……」
こちらの言葉は伝わっているのかいないのか、みこは顔をくしゃくしゃにしながら手足をばたつかせた。
お尻のあたりに手を回すが、濡れている気配はない。やっぱりおなかが減っているのかもしれない。どうにかハチロウにミルクのようなものを持ってきてもらうか、と思案しているとみこは更に暴れだした。
昨日はけらけらと笑っている時間が長かったというのに、今日は打って変わってご機嫌が悪いらしい。伸ばした手の先にあった私の髪をむんずとつかみ、ぎゅうぎゅうと引っ張りながら遺憾の意を表明し始めた。
「ちょっと待ってね。ハチロウ! ハチロウいるー?」
御用があればお呼びくださいっていってたんだから、と私は障子戸の外へ声をかけた。するとすぐさま廊下からかちゃかちゃと固い音が近づいてくる。
「お呼びでございますか、よめご――いや、薫子殿」
すすっと静かに障子戸を開けて現れたのは、灰色の大きな犬、もとい狼姿のハチロウだ。ハチロウはみこを抱いて髪を引っ張られている私を見ると、色素の薄い目を丸くして首を傾げた。
「それは、何かのお遊びでしょうか?」
「違うわよ。ぐずられてんの。ご機嫌悪そうでしょ?」
「ははぁ、言われてみれば確かに」
「おむつも濡れてないし、きっとおなかがすいてるのよ。何か食べさせられるものか飲ませられるものないかしら」
「とは言われましてもなぁ」
果物のおろしたものか、おかゆ、最悪の場合はアレルギーの様子を見ながら牛乳かヤギ乳でもあげるしかない、と考えていたというのにハチロウの声音は渋い。
私が昨夜空腹を訴えたらすぐ食べるものを準備してくれたというのにどうしたことだろう。
「ハチロウ?」
「いえ、薫子殿はこの先もわが主の奥方様としてこちらで暮らしていただくため、常世の食材を使ってお食事を準備できましたが、御子様は現世にお返しになるのですよね?」
「そうよ? それがどうか……」
「とすると、こちらの食材を口にされないほうがよろしかろうと……」
え、と私は眉を寄せた。
その不穏な物言いに、一つ思い当たることがあったのだ。
「それって、こっちの世界の食べ物食べたら、元の世界に戻れなくなるとかいう、あの世によくあるお決まりの……」
「そうですが、何か?」
「ちょ! いったっ!」
ハチロウの言葉に思わず立ち上がってしまった私だったが、その瞬間にみこがぎゅっと髪を引っ張った。




