2ー1
The hidden baby and the pride of a nursery teacher.
「おわ……た……」
怒涛のおむつ替えとそれに伴うお洗濯を終えた私とハチロウは、庭に面した縁側に背中合わせになって腰掛け、深いため息をついた。
案の定というか、なんというか紙おむつなんてどこにもない。赤ちゃんに漏らされてから大慌てで部屋や屋敷の各部屋の押し入れなどを総ざらいして、見つけたおむつにできそうなものはさらし布だけだった。
それを見た瞬間、私は軽く絶望した。
布おむつなんていくら薫時代にゼロ歳児担当の保育士やってたからって、ほとんど扱ったことがない。しかも現代日本には存在する「おむつカバー」がない状態。
防水機能も付いていて、さらに腰の部分をマジックテープでべりべりと留められるおむつカバーはなんてよくできた商品だったんだろう。あれがない状態で、長い長いさらし布でできたおむつを赤ちゃんのお尻に装着することなどほぼ不可能だった。
一応順を知っているハチロウの指示のもと、赤ちゃんにさらし布を巻いていると、手こずっているうちに次弾がやってくるのだ。結局ちゃんとおむつを装着させるまでに三回は漏らされた。
しかも赤ちゃんは男の子だった。ということは、おむつ替えの際に噴水事故が起こる確率が高い。漏らされた三回のうち、一回はそれだった。
やっとのことで布おむつを装着させると、次に待っていたのは洗濯である。
もちろん全自動洗濯機なんてない。消費されてしまった布おむつと、赤ちゃんが着ていた着物と座布団をすべて井戸水で手洗いだ。
しかも、洗っている最中に赤ちゃんを放置しておくわけにもいかない。長い紐をおんぶ紐にして、うろ覚えながら私の背中に括りつけて洗濯をしていると、その最中も一回漏らされた。
おむつと私の着物の一式を手洗いし、干し終わったのはもう夕方近い時間だった。
洗濯をしている間、赤ちゃんがぐずらないでいてくれたことだけは幸運だったといえる。ただそれを喜び、赤ちゃんをほめてあげられるほど、私とハチロウには余裕はない。肩で荒い息を吐き、お互いに無言で天井を仰ぐくらい疲労困憊だったのだ。
「……つ……かれた……。おなかへった……」
ぐぅ、とおなかの奥が動いて音が鳴る。考えてみたら今日は何も食べていない。いや、それどころか昨日の大ホールを出てから、何も口にしていないのではないだろうか。
空腹と渇きに気が付いてしまうとダメだった。猛烈におなかが鳴りだし痛いくらいになる。
「すごい音ですなぁ」
「そ、そりゃ、何も食べてないもの! なんであんた平気なのよ」
腹の虫が大合唱しているのは、すぐ隣にいるハチロウにもしっかり聞こえているらしい。恥ずかしいやら腹立たしいやらで身をかがめると、それがきっかけでまたおなかがぎゅるぎゅる鳴った。
しかしだ。
私が空腹だということは、赤ちゃんもだろう。今朝から何も与えていない。そういえばさっきから静かすぎる。
まずい、と私は座布団に寝かせた赤ちゃんを振り返った。が、心配に反して赤ちゃんはすうすうと心地よさそうな寝息を立てて寝ているではないか。
「ハチロウ、あんたこの子に何か飲むものとか、ミルクとかあげた?」
「みるく? とは? ああ、乳のことでしょうか。いえ、我は何も……」
「ってことは、この子も飲まず食わず? ちょっと、待って。何かあげないと――」
とはいえ何を与えたらいいんだろう。この世界に粉ミルクみたいな便利グッズはないだろうし、牛乳はアレルギーとか怖いし、いやそもそも食べるものってどこに――。
「まあご心配には及びませんよ。現世から迷い込んだ御子様であれば、それほど空腹も感じておりますまい」
慌ててあたりをきょろきょろ見回していた私をなだめるように、ハチロウが立ち上がった。そしてぺろりと寝ている赤ちゃんの頬をなめて私を振り返る。
「昨晩わが主に神力をささげた薫子殿は、その消耗の分だけ腹も減りましょうが、御子様は神力を失うこともない。常世と現世のはざまにあるこの空間は、現世とは時間の流れが違います」
「え? どういうこと?」
「ここで数日過ごしていたとしても、現世では一刻も経っていないのですよ。時折その逆のことも起こりますがね」
と、いうことは。
「赤ちゃん、おなか減って死んじゃったりは……?」
「まあ、こちらで三月も過ごさなければ問題ないのでは?」
「よかったぁ……」
あまり根本的な解決になっていないけれど、ひとまずすぐに餓死させるようなことはなさそうだ、と理解した私はほっと胸をなでおろした。
しかしそうなると自分の腹の虫が騒がしくなってくる。ぐうぐうと主張するおなかを押さえていると、ハチロウは首を振りながら縁側から飛び降りた。
「それほどまでに空腹でしたら我にお命じくださればよいものを。しばしお待ちください、何かお食事をお持ちしましょう」
「お食事?」
いったいどこから、という問いを発する前にハチロウは庭を横切り姿を消してしまう。
今日、おむつになりそうなものを探しながら探検したこの屋敷は、まるで現代の神社の中のようだった。
建物自体はいくつかあり、それらは屋根付きの渡り廊下でつながれていた。庭から降りて見上げた屋根は本を開いて伏せたような形になっていたし、その上には柱というのか板というのかが飛び出していた。詳しくはないけれど、薫時代に初詣にいった神社に似ていると思う。
真ん中に立つひときわ大きな建物は、ハチロウがいうには拝殿らしい。主である月夜神が来るときだけ開けるからそれ以外の時は入ってはいけないと、おむつさがしの時も開けてはもらえなかったっけ。
いやそれより食事の用意をするところはどこだ。
この屋敷の中にそんなところあったっけ、と家探ししていた時の記憶を探るが思い出せない。おむつおむつとあんまり慌てていたので、それ以外に目がいかなかったのかもしれない。
しばらく考えていると、とんとんと近づいてくる足音とともにふわりと鼻先に味噌汁のにおいが漂ってきた。香ばしさと、その中に混じる塩分のにおいに空腹が加速する。
ハチロウは庭の向こうに姿を消したというのに、やってくるのは廊下のほうからなのかと振り返ると同時に障子戸が開いた。
「お待たせいたしました、薫子殿」
「やった……って、どちら様……です?」
「ハチロウでございます。お食事をお持ちしました」
そういいながら手に持ったお膳を差し出してきたのは、ハチロウと名乗る初老の男性だった。確かに声はハチロウだけれど、狼の姿ではなくヒトの形をしている。灰色の着物に黒い袴で、和風の執事風の佇まいだ。自分以外の大人の人間がいないと思っていたので、驚くなというのは無理な話である。
「なんで!?」
「そりゃあ嫁御寮の召し上がるお食事のお世話をするのに、獣の手足でできるわけがないでしょう」
「そうだけど!」
だったら洗濯の時もヒトの形になれたんじゃん、というのは声にならない。
ぐぎゅるぎゅるとまた盛大に腹が鳴った。
「まあ、細かいことはよいのでまずはお召し上がりください。その音はいくらなんでも嫁御寮が発する音として耳障りの良いものではございませんので」
「た、食べるし!」
「お嫌いなものがあればおっしゃっておいてください。本日はあり合わせのものですが、明日以降はお好みに合わせておつくり致します」
漫画でよく見る執事のお辞儀をするハチロウは、頭を上げるとお膳に乗せた椀の蓋を取ってくれる。そこにはふくよかな香りとともに湯気がたつ、おいしそうなお味噌汁が入っていた。
その匂いを嗅いだらもう止まらない。
私は無我夢中で箸を取り、お膳の上の食事をいただいたのだった。




