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ゆさゆさと体を揺すられる感覚に瞼を開けると、そこには黒くてつやがあって、二つ穴があいた何かがあった。
「ひゃっ!」
びっくりして跳ね起きたついでに、その何かが額に当たる。ひんやりと湿った冷たい感覚に目をしばたかせた私は、またびっくりした。
冷たいとか、揺さぶられるとか、そんな感覚があるってことは生きてるってことだ。
慌てて首に手をやるけれど、切られたとか食いちぎられた感触はなく普通につながっている。
食われたんじゃなかったのか。
ほう、とため息をつき目を上げれば、辺りは既に明るい。そして自分が置かれている場所にまた驚いた。だって、屋根がある。そして障子戸がある。床はきれいな板の間。おまけにふかふか布団の上にいるではないか。
確かにぐるぐる巻きに縛られて桐の箱に入れられていたというのに、魔神に持ち上げられて首筋に歯を立てられると思ったのに。
「……は……い?」
どういうことだ。私は魔神の人柱になって食い殺されたのではなかったのか。
予想外のことに理解が追い付かず呆けていると、さて、と背後から声が聞こえた。
「ようやくお目覚めですかな、嫁御寮」
「はい!?」
振り返った私が上げたのは、侯爵令嬢としてはとんでもなくはしたないものだったに違いない。照宮殿下に聞かれたらと思うとかあっと頬が熱くなる。
でもこれ、悲鳴を上げなかっただけえらいと思う。ちゃんと返事の体をなしていたんだから、まだいいくらいだ。
だってそこにいたのは灰色の毛並みを持つ大きな「犬」だったのだから。
あたりには他に誰もいない。ということは、いま声を上げたのは私か、この犬のどちらかなのだ。
「い、い……い、ぬっ……しゃべっ……」
うろたえまくって床の上で腰を抜かしたまま後ずさる私に、「犬」はふんっと憤慨したように鼻を鳴らした。
そしてきっちりと居住まいを正して座り直すと、色素の薄い瞳でじっと私を見据える。
「我は犬ではございませぬ。古より月夜神と主従の契りを交わしている月狼族、つまり狼でございます。我は八代目。ハチロウとでもお呼びください」
「へ? あ、お、狼? しゃべ……る?」
犬じゃなくて狼?
狼ってあの、赤ずきんとか三匹の子豚食べちゃうやつ? さんざん読み聞かせの絵本に出てくる、悪役じゃん!
助かったのと思ったのに今度はこの狼に食われるのか、と身構えると目の前の獣――ハチロウとか名乗った狼はまた鼻を鳴らした。
「何を勘違いしておられるのかは知りませんが、我は月夜神様の嫁御寮につけられた世話役です。そのために人語を語る舌を賜っております。あとですね、月狼族はヒトなど食らいませぬよ。我らが口にするのは神饌として捧げられた魚や獣の肉のみ」
「……た、食べない……?」
「ヒトが持つ神力には邪なものもありますからな。それをねじ伏せられる神でもない我々など、口にしたら腹を壊します」
はあ、と私はため息をつくしかない。とりあえず深呼吸を数回繰り返すと、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
ゲーム内の異世界へ、しかも悪役令嬢に転生して、人柱にされたかと思ったら生きていてしゃべる犬がいて。もう完全にキャパオーバーだ。
でもなぜかこの事態を冷静に受け止めている自分もいたりするのが不思議だった。それは薫子の記憶があるせいか。荒ぶる魔神である月夜神のことも、教科書的な知識自体は頭に入っている。
月夜神は百年に一度、高い神力を持つ人柱の命をもって鎮められる。かの神は夜を統べる神なので、夜行性の獣のうち狼をはじめとする数種類が眷属として社の境内にある小さな祠にて祀られているのだ。
このハチロウとかいう狼と私は普通に喋れているし、おそらく本当に神の眷属なんだろう。
「しかし前回の嫁入りから百年経ったとはいえ、ヒトの世界の時代はずいぶんと進んだようですなぁ。古来より月夜神へ嫁入りする巫女殿は乙女であられたものを」
「嫁、入り……? え? 私、人柱……いけにえにされたんじゃ……」
「しかし前代未聞ですぞ。此度の嫁御寮は御子様連れとは」
「は?」
少し落ち着いたというのに、また妙なことを言われて私の頭には疑問符が飛び交った。
このイヌ、いや狼は何を言っているんだ。
嫁入り?
古来から百年に一度ささげられるのは、人柱、つまりいけにえのはずである。それ嫁入りとはいったい、と考えたところで私の思考は遮られた。あ、とか、あば、とか、とても聞きなれた喃語が聞こえたのだ。




