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体力回復、神力回復。
それを決意してからというもの、私はハチロウが準備してくれる食事をしっかり食べて、そしてしっかり眠るように努めた。
大学院にいた頃は成績を維持するためにほかの科目も勉強を怠らなかったけれど、ここにいるなら神力の修行だけすればいいと思うとかえって開き直れたというのもある。経済や農業、数学、古典文学などの座学の時間は本当に暇だったのだ。
もともと大学院に入る前に侯爵家の家庭教師から洗いざらい教わっていたため、試験前にさらっと復習すれば合格点は軽々クリアだった。あまりに暇すぎて、座学の時間についつい蘭に対するあれやこれやの作戦を練っていたくらい。
しかし神力の修行はそんなわけにはいかない。何をやるかといえば主に体力づくりと経典の理解だが、呪文の詠唱、瞑想なども含む。そして一番きついのが折々の季節に行われる儀式の所作と経典の複製だった。
例えば春の初めに行われる、その年の豊穣を願う儀式なんかは一昼夜ぶっ通して呪文を唱えながら舞を踊らなければならない。その際、呪文は一言一句間違えてはいけないし、舞も手順がすべて決まっていて一つも省略することができない。しかも儀式のはじめ、中ほど、そして終わりには舞台に設えた祭壇への祈りを捧げなくてはならず、それも作法が厳しく決められているのだ。
舞を一昼夜踊り続けるだけでも、普通の女子にはかなりの重労働である。これに耐える体力をつけるには、ただひたすらに筋トレ、走り込み、素振りなどを繰り返さなければいけない。
そうして高められた神力を供物に込めて天上へ捧げたり、護符や宝具に込めて皇帝をはじめとする皇国民を守るのが巫女の仕事である。
「意外と、地味なものですなぁ」
「地味って言うな! 筋肉は裏切らない!」
みこがギャン泣きして私がぶっ倒れてから十日後。私は縁側から上半身を半身乗り出し、袴の足元をハチロウに押さえてもらいながら上体を逸らしていた。
大学院でこんな背筋トレーニングをしていたかと言えば否であるが、薫の記憶がよみがえった今、筋トレなら現代日本でやっていたことの方が効果がありそうだからと思ったのだ。ふんふんと荒い息を吐きながら、上体を持ち上げては下し、持ち上げては下しを繰り返す。
その様子を、室内の座布団に寝かせたみこは、きゃっきゃと弾んだ笑い声を上げながら眺めていた。
まだハイハイはおろかずりバイもしていない。お座りもさせようと思えばできるのかもしれないけれど、あの子の親も見ていないだろう「初めてのお座り」をこちらが独り占めするのもなぁと、寝かせっぱなしである。
あれからかなり日数が経つが、結局みこは食事を摂っていなかった。というか、食事を拒否していた。水だけでも、と飲ませてみようとしたけれどそれも要らないと首を振るのだ。
飲み食いを全くしていないのにすこぶる元気。いつ目を覚ましてもご機嫌で、私のことをじっと見つめ、目が合うとけらけらと笑い出す。可愛いけれど、とても心配になる。
心配で脱水などを頻繁に確認する私だったけれど、ハチロウはいたって冷静だった。
ハチロウは世話役として、私の神力の増減を把握することができるらしい。その力によると、どうやらみこはこの間のギャン泣きの際や私が抱っこをしている際、密着した私から神力を吸い取っていたというのだ。
ここ数日は抱っこごとにちょっと神力を吸われる程度で済んでいるが、この間はさすがに現世からやってきたばかりで、こちらの世界とは言え一晩眠ってお腹がすいたのだろう。それなのにミルクもなく、離乳食ももらえないことに癇癪を起して泣き続けた最中、ずっと抱っこをしていた私から腹が満ちるまで神力を吸い続けたということか。
通りで力が抜けたわけだった。
ヒトなのに、と驚く私にハチロウは、常世では現世の理が働かないこともあるとかなんとか煙に巻くようなことを言っていたが、飲まず食わずにしておくよりいい。私はみこにも神力を分けられるよう、さらに修行――つまり筋トレに励むことにした。
「それっ、にしてもっ、この屋敷のっ、敷地からっ」
「しゃべるか動くか、どちらかにされませんか?」
「いいのっ! ここからっ、外にっ、走りにっ、いけないっ、なんてっ」
「聞き取りづらくて堪りませんなぁ……」
ハチロウは私の足を抑えながらため息を吐いているっぽかったが、私はそのまま続けることにした。
「走り込みっ、できないのっ、なんとかっ、ならないっ!?」
「敷地の外にはさすがに主の許しが無ければ無理でございますよ。その代わり、少しばかりですが我の力で敷地を広げることは可能です」
「ほんとっ!?」
意外な申し出に驚いた私は上体を起こしたままハチロウを振り返った。おおっと、と灰色の狼姿のハチロウはのけ反って目を瞬かせる。
「広げられるの? 敷地を?」
私が奇妙なポーズになっているのがおかしいのか、みこがきゃっきゃと笑い出す。それなのに体を起こしたついでに「いないいないばあ」をして見せると、途端にすんっと表情が消えるのが面白い。
二、三回いないいないばあを繰り返していると、小首をかしげたハチロウが庭全体を見渡した。
「まあ城ほど広くというのは難しいですが、薫子殿が狭そうに庭を走っていらっしゃるのを、もう少し広々走れる程度には」
「一周一キロくらいにはなる?」
「きろ? とは? ああ、庭を一周ですか、半里くらいにはなりましょうか」
「お願いします!」
一里って確か四キロメートルくらいだっけ、と私は高校生の頃の古典の授業を思い出す。それの半分もあれば周回コースとしては十分だ。
やってやってとお願いすると、ハチロウはすぐさま私の足から離れ庭に飛び降りた。
「ではちょっと庭を作り直しますよ。空間を引きのばしますので、お二人は屋敷からお出にならないでください……」
へえ、と私は縁側から部屋に一歩下がる。ついでにみこを抱き上げて、万が一にも縁側に行かないように座り込んだ。
「では!」
ハチロウは地面に四肢を踏ん張って仁王立ちになると、なにやら低い声で唸りだす。普段はすっかり忘れそうだけれど、そういえばもともと彼の口は獣の形状をしているのだ。人語を語るほうがおかしいのに、動物っぽく唸る姿になぜかものすごい違和感がある。
しかしすぐにそれは気にならなくなった。一声ハチロウが遠吠えをすると、ぐにゃりと庭の景色がゆがんだのだ。なんというか、ガーゼに書かれた模様が、布の両端を持って引っ張ったときにゆがむみたいな感じ。
「う、わあ……」
「固定するまでしばしお待ちを」
引き延ばすって、ほんとに空間を引っ張ってのばしてるのか。
ふんっとハチロウの鼻息が荒くなった。すると一瞬だけ庭の景色が二重に見え、そしてそれが落ち着くと、目の前には先ほどの何倍も広い庭が姿を現したのだ。
「すごい! 広い!」
「お気に召していただけましたかな」
「気に入った! ここなら走りこみができるわ!」
わあい、と私は抱き上げたみこを高い高いしながらくるくる回った。面白い動きだったのかみこはきゃっきゃと声を弾ませる。
「ただ走るよりみこをおんぶして走ろうかしら。その分、負荷も増えるし体力づくりにはいいかも! ねえハチロウも一緒に走ろうよ」
「えええ……」
家の中にずっといては獣の足も鈍ってしまうだろう。そう思って誘ったのに、ハチロウはあからさまに顔をしかめた。
「何よ、犬って一日一時間も二時間も散歩するものよ?」
「我は犬ではなくてですね……いや、そうではなく、昼夜にわたって嫁御寮をお守りしている老体に、走り込みに付き合えと……」
「老体」
「あ、その何かかわいそうなものを見る目はやめてくだされ! 走れます、走れますとも!」
「……老体、だものねぇ」
「何をおっしゃいます! ほら! 行きますよ薫子殿! 次にわが主がおいでになるまであと半月もあるのですから、もっともっと神力を高めていただかないと!」
そういって勢いよく四駆で走り出したハチロウを見て、またみこが笑った。くりくりふわふわの髪がゆれる。
平和だなぁ。
私は広がった庭とそこを疾走する狼の姿を見ながら、大きく伸びをしたのだった。
でも。
そのおよそ半月後の満月の夜。
私は屋敷の中の拝殿に足を踏み入れた。
日頃はハチロウが聖なる場所だといって開けてくれない扉を開け、一人でその中で主がやってくるのを待つ。
一月ぶりの、月夜神の「食事」の時間である。
すでにみこは深く寝入っており、起きる気配もない。とはいえ荒ぶっている月夜神に見つかって食われてしまってはいけないので、ハチロウとともに隣室の押し入れの中に隠して寝かしてきた。
これから夜が更け、やってくる魔神改め月夜神に、思う存分神力を吸っていただく。そのために鍛えてきた。しっかり理性を取り戻していただいたのち、みこを現世に返してくださいとお願いする。そのついでに私もちょっと、帰りたい。そう願い出るつもりで、口上をぐるぐると頭の中で繰り返す。
しんと静まり返った屋敷の中で、ただひたすら待つ時間が続き、緊張のあまりこめかみがずきずきとうずいた。
身を清め、ハチロウに指定された着物に袖を通し、拝殿で身を正して待つ。ただそれだけの時間が長い。
待ちくたびれて姿勢を崩すなんて気持ちはみじんも起きなかった。ご機嫌を損ねてしまうわけにはいかない。神力どころか命を取られるわけにはいかない。みこを食われるわけにもいかない。
早く来い。
鍛え上げた神力を吸って、理性を取り戻して話をさせてほしい。
それだけを願ってじっと待つこと一刻以上。
ガタッと拝殿から中庭をのぞく引き戸が開けられた――。




