【序章】 Dinner with the full moon
拝殿とその隣り合った小部屋を仕切る障子戸が、がらりと乾いた音を立てて開けられた。
雨戸を閉め忘れた拝殿には、煌々とした満月の灯りが差し込んでいる。その灯りを背負って鴨居をくぐった大柄な男は、逆光の中で黒衣と黒髪も相まって漆黒の影のような姿に見えた。
ひと月に一度の訪問――。とはいえこれは逢瀬ではない。男はここへ「食事」をしに来ているのだ。
私、清華薫子はその食事を提供するためだけにここにいる。
「ほう、今宵も支度はできていると見える」
何度聞いても聞き慣れない低い声は、まるで地の底から響くように私の身体を震わせる。しかし震えて逃げ出すわけにはいかなかった。
私は正座をして畳に指を付け、深々と頭を下げた。
「お待ち申し上げておりました……」
ざりっと男の足が畳を擦る。男が部屋に入ってきたのだろう。狭い室内の空気が動き、伏せた額にかかる前髪がわずかに揺れたのが分かった。
私がそのまま頭を上げずに待つと、男の気配が近づいた。彼の着物に焚きしめられた甘やかな香に、ふんわりと鼻がくすぐられる。
「震えておるのか」
「……いえ」
肩口を晒すように着物の襟元をはだけた私の肩は、確かに小刻みに震えている。今は夏。寒さによるものではない。
――怖いんです。
私はその言葉を喉の奥にとどめ置いた。一度それを発してしまえば、今後耐えられなくなりそうだから。
その代わりに私はわずかに首を左へ傾けた。先月は左側だった。だから今月は右側の首筋を、目の前に来た男に差し出す。
ほう、と男が息を漏らす音が聞こえた。それとほぼ同時に髪をひと房つまみ上げられる。つんっと引っ張られ顔を上げると、口角を上げて不敵に微笑む男と目が合った。
長く野放図に伸ばされた黒髪、陶器のように滑らかだが色素が濃い肌、ぎょろりと大きな金色の目。現世の者とは思えない、妖しい美しさに圧倒される。けれど男が持つのは美しさだけではない。
にやりと持ち上がった唇の端に覗く、大きな、鋭い牙が月光を反射して白く輝いていた。鋭利なその輝きに背筋が凍る。
妻として召し上げられ、食事と称して吸血されるようになって四ヶ月。頭から丸ごと食われなくてよかったが、その代わり月に一度あの牙を肌に突き立てられ吸血されるのだ。
本当なら逃げだしたい。けど、逃げても行き場がない。そして逃げるわけにもいかない理由もあった。
ただ彼に気に入られれば、ただひとつ願いたいことがある。そのためならば、この身を差し出すことも耐えてやる。
男は舌なめずりをしながら私の顎に手をかけた。
「たまらんな。歯を立てずとも、その肌からお前の強い神力が漏れ出ているのが分かるぞ。このひと月、ゆるりと暮らしたようで何より」
「も、もったいないお言葉にございます……」
「我が食事のためにご苦労なことだ。何か褒美でもとらそうか」
「い、いえ! 滅相もない……! そんなことより、お早くお召し上がりくださいませ」
早く食事を終えて機嫌良く帰ってくれ。切実にそう願うも、男は今夜に限って何故か饒舌だった。いつもであればほとんど無言で、私の首にかぶりついていくだけだというのに。
この流れで願いを口にしてみたらどうなるだろう。
しかしそれはできなかった。
男の目の奥に凶暴な光がギラついていて、わずかなきっかけでそれが湧き出してきそうな気がして身が竦む。
その目が不意に私からふすまの方へと動いた、気がした。
まさか、と私の心臓がきゅっとなった。
まさか、気づいているのでは。
いや、気が付くはずがない。気づかないで。一瞬、私の意識が隣の部屋の押し入れに向く。守らなくては。
私は男の目を見据えて、着物の襟に手をかけた。ぐいっと大きくはだけさせ、右側の首を男に突き出す。背に腹は代えられない。男に早く「食事」をさせ、帰ってもらわねば。
「どうぞ! たっぷりとお召し上がりください!」
威勢よく言い放った私がおかしかったのか、男が喉の奥をくつくつと鳴らした。
「進んで俺に食われたいとは、お前も変わった女よ」
では遠慮なく、と男が告げるとすぐに首筋に固いものがあてがわれた。尖った牙の感触にぞくりと肌が粟だったが、それも刹那の事。耳元でずぶりと牙が肌を突き破る音がした瞬間、身体全体を電流が駆け巡るような衝撃に襲われる。
いつもこれだ。決して慣れることのない感覚に包まれながら、私の意識はそこで途切れたのだった。
「……薫子殿、薫子殿。朝ですよ」
遠くから私を呼ぶ声がして、急激に意識が引きずり上げられた。
ひんやりしたものに頬を押されているのは分かるが目が明けられない。手足も動かすことができず、全身が泥に浸かっているように重かった。頭の上で呼びかけられていても、口を開くのも瞼を動かすのもおっくうだ。
「昨夜はお勤めご苦労様でした。しかし朝日が昇り御子が既にお目覚めです。お世話をお願いしたく」
「……う……あぁ、もう……あさ……?」
「明六つどころか朝五つ近い時刻です。はよう」
低くくぐもった声の主は容赦なく私を起こそうとする。ゆっくりと目を開けると、そこにいたのは灰色の大きな犬、もとい狼だ。
狼は湿った鼻先で私の顔を小突きまわしていて、目が合うと呆れたようにため息をついた。そしてほれ、とでもいうように半分開いたふすまの向こうに顎をしゃくる。
「はようお起きください。ほれ、御子が押入れから出ようとしてますよ」
「え? ええっ? ちょっと、待ってよ早いよ……」
私は大急ぎで、とはいえ腕にも腹筋にも力が入らずじりじりとだけれど、身体を起こしてふすまから隣の部屋をうかがった。
するとその部屋の押し入れから小さな手足がばたばたと動いているのが見える。
良かった、無事だったとほっとすると同時に、私の脳は一気に活性化した。
――布団から落っこちそう!
下の段とはいえ布団を重ねているから、その上から床まではおよそ三十センチ――いや、この世界風に言えば一尺ほどと言えばいいか。要するに子どもが頭から落ちたらそこそこ泣く高さなのだ。
「やだ、危ない!」
そう叫ぶと私は大急ぎでふすまを開け放ち、押入れに駆け寄った。今にも布団の隅から畳へ落ちそうな赤ちゃんの頭をキャッチすると、腕の中できゃっきゃと笑う声がする。
まんまるの目に薄茶の髪。ぷくぷくしたほっぺがかわいい、一歳にも満たない男の子だ。
誰の子かって? 断じて私の子じゃない。産んだ覚えなんて一つもない。
でもとてもかわいい、守りたい、守らなければいけないと思っている子だ。
屈託のない笑い声を聞きながら今月も乗り切ったことを実感した私は、狼によって開けられた障子戸の向こうの青空を見てため息を吐いたのだった。




