第二十九話 静かな暮らしの続き scene1 辺境の村の日々
朝霧が畑を薄く覆っていた。
土はまだ冷たく、靴底にしっとりと張りつく。
リオは村人たちと並んで畑に出て、黙々と鍬を振るっていた。勇者として剣を握っていた頃よりも、今の方が体はよく動く。呼吸は深く、頭の中は驚くほど静かだった。
「今日は豆の芽がいいね」
隣の老人がそう言うと、リオは素直に頷いた。
一方、家の前ではアザルが洗濯物を干していた。
風を読み、影を避け、無駄のない動きで布を広げる――その所作だけは、どうしても元魔王のままだった。
無意識のうちに険しい表情になっていたのだろう。
「アザルさん」
通りがかった村人が、少し困ったように笑う。
「そんな顔で干すと、洗濯物が怖がりますよ」
アザルはぴたりと動きを止めた。
しばらく考え込んでから、表情を――ほんのわずかに――緩める。
「……善処しよう」
村人は満足そうに頷き、去っていった。
昼になると、リオは村の子どもと一緒に手紙配達をした。
王都から届いた封書には、簡潔な一文だけが記されている。
『情勢は安定しています』
それ以上は、何もなかった。
命令も、要請も、評価もない。
リオは封を閉じ、子どもに笑いかける。
「ありがとう。助かったよ」
世界はもう、彼らをどう扱えばいいのか分からないのだろう。
それでいい、とリオは思った。
夕方、二人は連れ立って村の共同温泉へ向かった。
湯気の向こうでは、かつて敵だった者も味方だった者も、同じ湯に浸かり、同じ話題で笑っている。
その光景を眺めながら、リオがぽつりと呟く。
「来てよかったね」
すぐには返事がなかった。
だが、しばらくして、低く落ち着いた声が返ってくる。
「……ああ。本当に」
それだけで十分だった。
その短いやり取りが、剣も王座も要らない、
この物語の静かな勝利宣言だった。




