涙の別れ
「クッキーをどうぞ」
フローリアが小さな手で包みを差し出すと、誰もがにっこりと笑顔で受け取る。
「まあ、ありがとうございます。フローリア様」
「ありがとう、プリンセス・フローリア」
お礼を言う母親と、小さな女の子。
そのあとも次々と、列を作って待っている皆に、フローリアとアレックスはにこやかにクッキーの包みを手渡していた。
春のうららかな陽気が心地良い5月。
王宮の広い庭園では、一般開放の日に合わせてたくさんの家族連れが遊びに来ていた。
「クリスティーナ様、ごきげんよう。この子、マックス王子と同じ日に生まれたんです」
「そうなのですね。ではマックスの良いお友達になってくれたら嬉しいわ」
「まあ!もったいないお言葉、ありがとうございます」
マックスを抱いたクリスティーナのもとにも、母親達がにこやかに話しかけにくる。
アレックスもフローリアも、それぞれ年が近い子と仲良く駆け回って遊んでいた。
クリスティーナが提案して始まったこの王宮の庭園開放は、今ではすっかりお馴染みのイベントとして国民の楽しみになっている。
我が子には身分の差など気にせず友達をたくさん作って欲しいと、クリスティーナもフィルも常々願っていた。
「よーし、では次は誰かな?」
クリスティーナ達母親同士が、ガーデンテーブルで紅茶を飲みながらおしゃべりをする傍ら、フィルやアンドレア、そしてオーウェン達近衛隊の隊員が、おもちゃの剣を片手に子ども達とチャンバラを楽しんでいる。
「おっ、君、なかなか上手いぞ。将来近衛隊に入らないか?」
フィルは半分本気交じりに、男の子と戦いながら近衛隊に勧誘していた。
「おおー!フローリア様、中々のお手前。血は争えませんな」
年上の男の子相手に果敢に攻めていくフローリアを、オーウェンは感心したように眺める。
「うわ、ちょっと、アレックス!参った、参ったってば」
アンドレアは相変わらず剣術が苦手で、まだ5才のアレックスにも押され気味だった。
「アンドレア様、しっかり!」
リリアンが笑顔で声をかける。
その様子に、クリスティーナはロザリーと顔を見合わせて笑う。
誰もが幸せな笑みを浮かべる平和な午後のひととき。
だがコルティア国には、まだまだ試練の時が待ち構えていたのだった。
*****
「フィル、ちょっといいか?それからアンジェも」
その日の夜。
遊び疲れた子ども達がぐっすりと眠りについた頃、控えめなノックの音がしてアンドレアが姿を現した。
「ああ、今行く」
フィルとクリスティーナはアンドレアに頷くと、子ども達はリリアンとロザリーに任せて部屋を出る。
執務室のソファで二人はアンドレアと向き合った。
「どうした?改まって」
フィルが切り出すと、アンドレアは声を潜めて話し出した。
「実は、南にあるスナイデル王国の様子を見に行かせた遣いが帰って来たんだ。話を聞いてみたんだが、どうも気になることがある」
「なんだ?」
フィルもクリスティーナも、身を乗り出して耳を傾けた。
「スナイデル王国といえば、周りを海に囲まれた立地のおかげで他国に攻め込まれることもない、いわば平和の国だった。酪農、農業、林業、そして漁業も盛んで、国民の暮らしも安定している。国王への信頼も厚く、内戦などもめったに起きない。今後、我がコルティア国との友好関係をゆるぎないものにして、スナイデルから作物を輸入したり、武器の制作を依頼して、我々の暮らしを補ってもらえないかと模索していた。幸いスナイデルの国王と王妃もコルティア国には良い印象を持っているし、既に国王同士の交流もある。だが、一つだけ妙に気になっていたことがあるんだ。スナイデル国王には兄がいる」
兄?と、フィルは眉を寄せる。
「国王は世襲制だよな?現国王は、兄ではなく弟が就いたってことか?王位継承順位はどうなってる?」
「もちろん、兄の方が上だ。それなのになぜ弟の方が現国王なのか。それに国王に兄がいることも、対外的には秘密にされているし、スナイデルの国民でさえ知らない人がいる。口にするのはタブーらしいな」
雲行きの怪しい話に、フィルもクリスティーナも固い表情で思案する。
秘密にするには、それなりの理由があるはずだ。
そしてそれは、あまり良くない類の。
「それで?何か分かったのか?」
フィルの言葉に、アンドレアは首を横に振る。
「いや、くわしいことは分からず仕舞いだ。ただやはりスナイデルの現国王は、我がコルティア国と友好条約を結びたいらしい。今はまだ戦争に巻き込まれていないが、いつ海を越えて敵が襲ってくるかもしれない。そうなった時に対抗できる軍事力は、あの国にはないに等しいからな」
「確かに。コルティアとしても、この先またどこかの国に戦を仕掛けられた時に、国民の食料や最低限の武器を供給してもらいたいところだな」
「ああ。そこでだ」
アンドレアはいよいよ本題だとばかりに、真剣にフィルとクリスティーナを交互に見る。
「近々スナイデルは、コルティア国を親善訪問したいと考えているそうだ。その話を受けて、逆にこちらからスナイデルを訪問すると伝え、実際にあの国の内部がどうなっているかを探りたい。向こうの国王と王妃がこちらに来たところで、何も国の様子は分からないからな」
「なるほど。こちらが訪問し、実際に自分の目で確かめるまでか。それで?その役目を国王ではなく俺に、って訳だな」
ご明察、とアンドレアがニヤリと笑う。
「王太子が代わりに行くと言っても、特に疑問は持たれず歓迎されるだろう。長旅は国王と王妃には負担だから、と言えば納得されるはずだ。だが油断はするな。表向きは友好条約を結びつつ、影の動きがないかを探るんだ。俺も一緒に行って目を光らせる」
と、それまで黙って聞いていたクリスティーナが、いきなり口を開いた。
「いいえ、私が行きます。フィルと一緒に」
ええ?!と二人は驚いて顔を上げる。
「クリスティーナ、必ずしも安全な旅とは言えないんだぞ?」
「そうだよ、アンジェ。単なる親善訪問ではないんだ。多少は危険な動きも必要だし、何があるかは分からない」
クリスティーナは、承知の上とばかりに頷いた。
「それならなおさら私が行きます。アンドレアは剣の腕はからっきしですもの。いざという時、自分の身も守れないわ」
うぐっ、とアンドレアが妙な声を上げる。
「それに親善訪問なのに、王太子が妃を伴わないのは不自然です。まあ、フィルとアンドレアが恋仲だって噂されてもいいなら仕方ないけど」
うげっ、と今度はフィルが声を上げた。
「やだよ、そんな噂」
「それなら、ごく自然な流れとして王太子夫妻として訪問しましょう。子ども達はロザリーとリリアンに任せれば大丈夫」
きっぱりとそう言うクリスティーナに、フィルとアンドレアはしばし考え込んでから頷いた。
*****
「それじゃあ、行ってくるわね。お留守番頼むわよ」
スナイデル王国への出発の日。
クリスティーナは身を屈めて、子ども達を順番に抱きしめる。
我が子と離れるのは初めてのことで、気を抜けば涙が溢れそうになるが、子ども達を不安にさせてはいけないと懸命に笑顔を作った。
「お父様、お母様、どうかお気をつけて」
大人びたアレックスは、キリッとした顔つきで頼もしい。
「おかあさま、はやくかえってきてね」
フローリアは寂しそうにしながらも、一生懸命涙をこらえている。
「お土産たくさん持って帰ってくるからね、フローリア。楽しみに待っててね」
クリスティーナはギュッとフローリアを抱きしめて、明るく声をかけた。
事情が分かっていないマックスは、リリアンの腕に抱かれて、にこにこ手を振っている。
後ろ髪を引かれながら、クリスティーナは三人の子ども達の頬にキスをすると、立ち上がった。
「リリアン、ロザリー、アンドレア。どうか子ども達をくれぐれもよろしくね」
「ええ、任せてお姉様。こちらのことは気にしないで。みんなでたくさん楽しいことして待ってるわ」
「ありがとう、リリアン」
「アンジェ様、道中お気をつけて。フィリックス様も」
「ありがとう、ロザリー」
「フィル、アンジェ。無茶だけはするなよ」
「分かってる」
それぞれに固く頷き合うと、フィルとクリスティーナは意を決して馬車に乗り込んだ。
「いってらっしゃい!おとうさま、おかあさま」
フローリアの可愛い声が耳に残る。
「行ってきます!」
走り出した馬車の窓から、クリスティーナはいつまでも手を振っていた。
*****
「クリスティーナ、おいで」
しばらく馬車に揺られていると、ふいに向かいの席からフィルが声をかけてきた。
え?とクリスティーナが首を傾げると、いいから、ほら、と手を引いて自分の隣に座らせる。
「必ず戻ろう、子ども達のところに。俺が必ず君を無事に連れて帰るから」
そう言うとフィルは、クリスティーナを強く胸に抱きしめる。
クリスティーナは、緊張の糸が切れたように涙を溢れさせた。
とめどなく涙を流すクリスティーナを抱きしめながら、フィルは優しくその髪をなでる。
フィルの胸に顔をうずめ、ただひたすら泣き続けるクリスティーナを、フィルは黙ったままずっと抱きしめていた。




