6,3限‐後編
今思えば、あれは俺を見ていた訳じゃなかった。あれは恐らく、今の状況に追い込む為、北浦に合図を送ったのだろう。その証拠に、今の2人は満面の笑みである。
本来ならば、憤りが先行するのだろう。だが、一連の流れより、普段の俺ならいくらでも察する事ができた筈。なので、他人を非難するよりも、不甲斐ない自身に対し、呆れてしまった。
「では、可愛い後輩に選ばれた三笠君。前へ」
頭を抱えながら、彼女のいる教壇前へと向かう途中、俺はとあるモノを確認した。
「では、先程との比較をしてみよう。まずは自身。少々意味合いが変わってしまうが、先程の彼から三笠君に代わった。次に相手、つまりは私。先程は先入観の情報だけだったが、新たな情報が加わり、簡単には倒せない。
最後の環境については、唯一変化がない訳だ。さて、どのようにして固定概念を打ち消すか」
彼女は悩む素振りをしつつ、こちらに視線を送る。まるで『こちらの意図を汲め』と言わんばかりに――。
「俺ならまず。相手に対して交渉を試みます」
俺の発言で皆からの視線が一斉にこちらへ注がれる。
「ほぉ、それはどのような交渉だ?」
「今回、“強い”か“弱い”かについての検証。その線引きを言い換えれば、“勝ち”か“負け”かに置き換えることができる。現状のままだと、猪狩講師が優勢。
なら、勝ちの範囲を延長する交渉を行うことが最善かと思います。例えば、“引き分け”もこちらの勝ちとして扱ってもらうとか」
学生たちの反応は「そんなのあり?」と困惑気味だった。勿論これは、相手に諭されていないことが前提だ。こちらにとって都合が良すぎる。いかに悟られないようにするかがカギとなる。
仮に公で受理されたとしても、当人はともかく、第三者からみれば、卑怯の部類になりかねない。何せ“公平”ではないから――。
だからなのか、周囲の反応は冷ややかなものだったので、こちらも言葉につまる。しかし、彼女は「続けて」と催促してきた。
「交渉が成功すれば、条件。つまり“環境”がかわったことになる。それにあともう一つ。猪狩講師が発言していない変化が1つある。敢えて、言わなかったかもしれませんが――」
「それは興味深い。それは一体何かな?」
「今ここで言ってしまうと――」
「つまらない、か。いいだろう」
彼女は教壇から離れ、こちらと対峙する位置まで移動する。
「君の発想の転換は、実に見事だ。その恩恵ではないが、引き分けだった場合、三笠君の“勝ち”としよう。しかしながら、環境が変わったことで、少々こちらの分が悪い。なので、今回はこちらも攻撃をさせてもらう」
はじめから、そのつもりだった癖に――。
「こちらはかまいません」
ニヤっと笑う表情から「では、はじめようか」と言い、ファイティングポーズをとる彼女。先程と異なるのは、互いがすぐに攻撃へとうつらなかったことだった。
静寂と緊張が部屋に、充満していく。それは想像以上に冷たく、誰も動かない。いや、動けない状況だった。まるでその部屋だけ、時間が止まったかのように――。
「ゴクン」
それは部屋の誰もが、余りの緊張に息をのんだ物音。通常ならば、誰も気付く事のないような小さな音。しかし、この状況の中では違った。
「「っ!」」
それが合図かのように、彼女と俺は同時に動く。
始めは相手の右拳が、こちらの顔面目掛けて飛んでくる。それを左手で払い、こちらの右手で彼女の左横腹を狙う。が、彼女はその攻撃をかわす為、左肘を突き出しながらこちらに突進する。
結果、こちらの態勢が崩れ、右手は空振りする。それだけではない、彼女の体重がこちらにかかり、そのまま押し倒されそうになった。
だが、払った左手で彼女の右手を咄嗟に掴み、遠心力を利用して体全体を半回転させる。その勢いで、彼女を後方に投げ飛ばす。
彼女は冷静な顔で、受け身をとったかと思えば、そのまま次への攻撃にうつる。次は右から上段蹴りがこちらの左頬めがけ襲ってくる。それをその場にしゃがみ込み回避し、こちらは下段からの回し蹴りを行う。
攻撃は見事、彼女の左足に直撃し、彼女はバランスを崩して倒れ込む。そこから彼女は左手を床に突き出し、片手だけで逆立ちの態勢へとなり、横転を回避した。
「さすがだ」
逆立ちのままそう呟いた彼女は、左手だけの反動を利用し、体操選手のようなアクロバティックな動きをした後、床に着地した。
この2度の攻防で、学生たちは興奮と熱狂を覚え歓声が沸き出した。
「な――にが「さすが」ですか」
どうせ、こうなる事を“知って”の行動なのに――。そう思いながら、チラッと、とあるモノを確認するのであった。
その後も、ほぼ一方的な攻撃をこちらが受けることとなるが、そのことごとくをかわすか、反撃することで凌いでいく。
だが、5分、10分と時間が経過しているのに、彼女の攻撃速度や力は一向に弱まらず、次第に攻撃を防げないことが起きてきた。
「さてさて、先程から息が切れてきたようだが、そろそろギブアップか?」
最早これは講義じゃない、何かしらの格闘試合だ。とにかく、息を整える為、深呼吸を行いつつ、再びとあるモノを確認した後「1つ聞いても」と彼女に対し、手を挙げる。
「何だろうか?」
「猪狩講師は、固定概念を持つべきか?持たないべきか?」
彼女は攻撃態勢をとるとき、少し悩みながら口を開く。
「先程も述べたが、固定概念は我々の共通認識として生活を支えている。家族でもない赤の他人と集団生活を行う上で、それなくして文化的生活は成り立たない。しかしながら、そればかりに固執すると、何が起きるか?」
――それは柔軟性の欠如だ。
「言われることだけ行動し、それに対して疑問を持たなくなると、本当に大切な選択や、大きな変化が起きた時、自身で何も考えられなくなる。それは、後々後悔することに繋がる。よって、一言でいえば、『どちらも程々に』が私の回答になるだろう」
「白黒だけではないと?」
「寧ろ、白か黒かが回答であるケースは社会に出たら少ない。今回の講義でさえ、思い込んだ結果にならない事がたくさんある。だからこそ、固定概念だけでなく、日頃から何事にも疑問や理由など考えることを大切にしてほしい。それを今回の総評としようと思ったのだが――」
タイミングを見計らったかのように、講義の終了を告げる予鈴が鳴った。その場にいる全員が試合に集中していたからか「え?」という表情になり、一同は一斉に講義室にある時計に注目する。その時計が刻む時刻は14時半。確かに、3限目が終わる時刻だった。
「成程どうやら、彼が隠していたのは“時間”だったようだ。これで引き分け、つまりは私の負け。一本取られたな、優秀な三笠君に拍手を!」
こうして3限目が終わった。強制的な幕切れだったが、学生側に不満を持っている者はいなかっただろう。既に講義が終わったのに、暫く拍手は鳴りやまなかったのだから――。
◆
「やってくれたな2人とも!」
講義が終わった後、猪狩講師と北浦を引きずって、彼女の研究室へと連れ込んだ。
「まあまあ」
「まあまあ?」
ギロっと北浦を睨み付け、彼女の言葉をオウム返しすると「すんません」と下を向く。猪狩講師は咳払いで、自身に注意を向ける。
「すまないとは思っている。ただ、夏休みあけの講義だ。少々スリルがあってもいいかと」
「講義にスリルって必要でしたっけ?」
こちらの目が座っていたのか、ド正論に何も言い返せないのか、目線を逸らし「いや――必要ない」と回答する。
「あとで絶対、問題になりますよ?」
俺だけでなく、あの生徒を巻き込んで、講義中にあのような試合をしたことで、ちょっとした騒ぎになっていた。確実に――。
「そこは問題ない」
「え?」
「君の前に対峙した学生は、大学側に頼んで依頼したスタントマン。つまり、今日の講義内容は大学側から了承を得ている」
「つまり問題は起きないと?」
「ああ!」
「つまり俺に言わなかったのは面白そうだったからと?」
「ああ――え?いやちが――」
「つまり俺が訴えるとは思わないと?」
「あの、その――申し訳ない」
猪狩講師は、大学院を卒業して早々、この大学に講師として赴任するという、類を見ない優秀な人物であり、年の離れた俺の幼馴染。外見だけでなく、外面も全く問題ない完璧超人。
だが、身内という枠に認識された途端、今回のようなことが突発的に発生するトラブルメーカーなのである。
「はぁ――これ、4回目はないよな?」
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