5 疑問
今の国の状況は知っておきたい。それは将来への最大の準備であり、景の常の思いである。景がそう思うようになれたのは、間違いなく母のおかげだ。
母はいつも父の言動を静かに見守り、父がどんな失態を犯した日でも寄り添っている。母は、景にもあまり多くを言うことはない。幼いころの景は、母が父に縋るしかない儚い人なのかと思っていた。だから母を哀しませないよう、うんと勉強して、父より立派な大人になろうと思っていた。しかし成長するにつれ、それは違うと気がついたのだ。母の実家は、御子妃の実家でもある。旧王族、瀬織家の出身なのだ。父に縋らずとも、人並み以上の生活が約束された人である。身勝手極まりない父のもとにいる理由はわからなかったが、母は自ら選んでそこにいるのだ。それに気づいてはじめて、景は母のつよさをわかりはじめた。
景にも多くを言わない母が、常に口にすることが一つだけある。
「正しいことがわからなくても、だれに見られても恥ずかしくない生き方をなさい」
何をするかわからない父に寄り添い続ける母のつよさは、景の中でこの言葉とぴたりと合った。この言葉と母の生き方を見て育つ中で、景はできる限り自分の目で確かめて、正しいことを見極めながら大人になろうと考えるようになった。最後に行きつく先は、父の中でもう決まっている。だからそうやって大人になれば、きっと将来父の決めた場所に進んでも、母の言葉に近い生き方ができる気がする。景はそう信じるのだ。
景が取り出したのは、『水上』の隣に立てたファイル。一般にはまだ発表されていない最新の情報を見るために資料室に行きたかったが、今は動かない方がよさそうだった。
『水上』をはじめ机の上に立てて並べたファイルは、公邸一階の資料室のデータを自分でまとめ直したものだ。政治、経済、歴史はもちろん、あらゆるデータや研究を分野ごとにまとめ直した。ファイルの背表紙には、『次代』とある。
表紙をめくり、月の宮の嗣子「宵待の宮」の記述に目を通す。いつからかはわからないが、今後自分の人生に一番深くかかわる人だということを、景はすでに理解している。しかしまだ幼く、あまり公式の場に出てこないので、資料室のデータを漁ったところで一般に公表されていること以上を知るのは難しい。
(年は十……あとふた月で十一歳か)
宵待の宮は、景より五歳年下。名前を、春和という。当代月の宮の第一子、「一の宮」。亡き宮妃、桜との唯一の子。史上初めて、女子の身で嗣子宵待の宮に立てられた。宮妃は彼女を産んだその日に薨じたとされる。両王位は代々男子のみに継がれているので、新たな妃が迎えられても不思議はなかった。嗣子がないまま妃が薨去した場合、新たな妃を迎えた例は多くある。また、月の王家の分流から男子を養子にするという例も過去にはあった。しかしそれらの先例を差し置いて、彼女は一歳を迎えたその日、宵待の宮に立てられた。
(両王陛下や王宮府、それに政府はどうしてそんな例外を選んだんだろう……?)
一般の家庭であれば、男子が跡取りというのは古い。しかし王家だ。日の御子と月の宮にはそれぞれ別の役割があり、それゆえに、少なくとも理論上は一つの遺伝子を代々残してきたという。今までそれにこだわったため、次の妃や養子を迎えていたのだろう。そんな王家が、王宮府や政府が、こんな選択をするのだろうか? そのころまだ政治家を志したばかりだった父が今の野望を描き切っていたとは、景もさすがに思いたくない。だが結果として、皮肉な話だとは思ってしまう。
例外と言えば、もう一人の嗣子も例外である。日の御子の嗣子、「暁の御子」に立てられていない「二の御子」だ。名前は、和真。父の即位と同時に三歳で暁の御子に立てられた「一の御子」は、宵待の宮が生まれた年に亡くなった。そうである以上、実質嗣子は二の御子である。しかし彼は一歳を過ぎても、暁の御子に立てられなかった。宵待の宮以上の例外だ。
(幼い例外の二人が、この状況で即位して、丸く収まるだろうか)
景にでも、そんな大人たちの不安は想像できる。今日の両王に昔ほどの力はない。それでもこの国には、この国の王と一部の者には、背負わなければならないものがある。彼女たちと会うまでに、もっといろんなことを見て、知っておかなければならない。
自分の置かれた立場に逆らうつもりはないが、この状況になった以上、母も守らなければならないし、その中で許される誰の幸せも諦めるつもりはまったくなかった。
もう一度並んでいるファイルの背表紙を指でなぞる。何冊かのファイルを取り出し積み上げて、ルーズリーフとペンを出し、パソコンも立ち上げた。調べたことを書き出してみると、新たな見方ができることは少なくない。景はいつもそうやって、頭の中を整理するのだ。
鳥のさえずりが聞こえ、景は正面の窓のカーテンを少し開けた。白い光が飛び込んでくる。気が立って眠れなかったので、景は結局そのまま朝を迎えてしまった。
(行こう)
自分を励まして立ち上がり、身支度をした。気持ちの上でも状況把握でも隙を作らない万全の準備ができているとは言えなかったが、淡々と過ごすしかない。
「大丈夫」
鏡の中の自分に言った。
「おはようございます、坊ちゃま」
景が部屋を出ると、家政婦の一人が廊下の隅に控えていた。昨夜のことがあったから様子を見に来たのかもしれない。彼女の声は普段よりも沈んでいた。
「おはようございます」
努めて普段通りの声で景が彼女の前を通り過ぎると、彼女も普段通りの距離を取って景の後からやってきた。
ダイニングルームの扉は、勝手に開く。中にいる家政婦が開けるのだ。ダイニングの扉を開ける家政婦と、景の後から続く家政婦、そして部屋の隅に執事が一人。屋敷には一家の身の回りの世話をするためだけに、最低でもこれだけの人数が控えている。これは首相一家ゆえではない。現在首相を務めている津山一郎の私的な使用人である。交代制のため、そのために雇われている人数は十人以上だ。
中にいる二人にも挨拶をし、景は部屋の奥に目を向ける。ほかの二人もやはり沈んだ顔をしていた。
母は、まだいない。父が昨夜官邸から戻れなかったことは、想像がつく。
景は待っていたが、母はちっとも来なかった。景の母は、夫がメディアに何を言われても、決して顔色一つ変えずに穏やかに振る舞う人である。しかし今、彼女は姉----御子妃----の安否がわからない。母に何を言ったら良いかはわからないが、景はこれ以上母を独りにしてはいけない気がした。
景が一度座った椅子から立ち上がろうと足を引いたちょうどその時、部屋の扉が再び開いた。
「おはよう」
母はいつも通り穏やかに世話をしてくれる人たちに言い、景を見た。
「おはよう、景」
「おはようございます」
自分がどんな表情で母に対しているのか不安な景と反対に、母は気遣うように微笑んだ。それから粛然とした面持ちで、
「月曜日以降しばらく学校をお休みして、お父さまのおっしゃる通りにお過ごしなさい」
と口にした。
(休め、か……)
どんな報道があった日でも、休めと言われたことは一度もなかった。学校のない土曜日に、月曜日以降の欠席の指示。事の重大性が物語られる。景は、
「はい」
とだけ応えた。
母の目は景に何か言おうとした。しかし結局、景の返事を聞いて食卓には着かず、世話をしてくれる人たちに声をかけて部屋を出た。
景は、伯母である御子妃に会ったことがない。しかし母のことはやはり気になったので、朝食後母の部屋へ足を運んだ。
「母さん」
扉の前で呼びかけたが、返事はない。代わりに、すすり泣く声がかすかに聞こえた。入ってよいか、しばらく扉の前で躊躇った。そのとき、
「……かり、……ひかり……」
かすれた声は、そう聞こえた。
「……かり、……ひ、ひ……かり……、ひ……」
鋭く刺さる小さな声は、何度も聞こえた。
父のことで周りがどれだけ騒いでも決して人前で取り乱さない母の声は、景の身体をそれ以上前へは進ませなかった。
自室に戻り再び机のファイルを開くが、景の頭の中では先ほどの母の声がめぐっていた。
(どうして、母さんは僕の名前を呼んでたんだろう……)
安否がわからないのは姉である。なぜ姉でなく、息子の名前を母は呼ぶのか。
(墜落のニュースがどこまで本当かわからないけど、ニュースの内容からして両王陛下の生存の可能性が低いのは確かだろう。そうしたらおそらく、流れは次代二人の即位に向かう。そうなった場合、僕が今の居場所にいられなくなる可能性は十分にある。学校を休めというのが何よりの証拠……。母さんは、だから僕のことを考えてるのか……?)
椅子に背をもたせ天井を仰ぐ。
(でも次代の即位で僕の立場が変わることは、最初からきっとわかっていたこと。父さんの目論見をそばで見ている母さんが、今更そこで揺れ動くとは思えない)
白い天井の一点を見つめた。
「じゃあ、どうして……?」
くすんだ白い天井に問いかけて、首を振る。ぱん、と両頬を叩いた。
(なんにしても、僕のやることは変わらない)
景は、ファイルの資料に目を落とした。
景が新たに即位した月の宮の側仕え、光司として王宮に迎えられたのは、この三日後のことだった。