3 はじまり
榮礼十三年(万久紀三九九一年)九月十九日、午前十時。両王と御子妃がそろって外国親善訪問へ向かう。行先は西の海の大国、アレンランド連合王国。両王がそろって同じ国を訪問するのは、かなり珍しい。ふた月前から公表されていたために、王族の住まうそれぞれの宮城南棟玄関前には多くのメディアが詰めかける。春和はこの日初めて父王の見送りのため玄関の外側に出て、公的に報道陣の前に立った。
今までは玄関の扉の内側で見送ったため、警備の侍衛や報道陣のカメラの数に春和は少し驚いた。しかし父の跡を継ぐということは、こういうことだ。こういう機会は、これから増える。
(月の宮と宮妃の子として生まれたその時に、一緒についてきたものだ)
昨日の御子妃の話を思い出す。
「恩恵も、足枷も」
続いた妃の言葉を口にしてみる。すると、父の言葉もよみがえった。
(まだすべてが決まったわけではないのだけれど、もしかしたら、私たちは今日までとは違う立場になるかもしれない)
決して考えたくない不安が頭をかすめ、打ちはらうように春和はひとつ呼吸をした。
「いってらっしゃいませ、宮陛下。お気をつけて」
春和は微笑み、丁寧に礼をとる。
「行ってくるね」
父王は柔らかい笑みで応え車に乗り込み、窓越しに手を振った。車が発車し、車の方へ春和はもう一度礼をする。
車が見えなくなってから、正面に向き直る。出発の様子を撮影していた報道陣に礼をした。シャッターの音が聞こえてくる。それを感じながら体を起こし、笑む。小さく手を振り、ゆっくりとした足取りで宮城の中へ戻った。
外から見えないところまで来ると、春和はあたりを見まわした。
「じじ」
大好きな侍従----雅雪を呼んだ。
「ここに」
後方から雅雪がそばに来ると、春和の表情が安堵に変わる。嫌なことが頭を過ったあとだったため、雅雪を見て春和はほんとうにほっとしていた。
「ご立派でしたよ、春和さま」
雅雪が言うと、春和は何かを堪えるように唇を嚙んだが、すぐに普段通り笑んで頷く。雅雪は、それを見守ってから穏やかに告げる。
「春和さま、本日のご予定ですが、十時三十分より国際公用語、十一時三十分より儀礼作法。十二時十五分からのご昼食は、いつものように和真さまがお越しになりましたらテラスにお持ちいたします。十三時三十分から算数、十四時三十分からの国語で本日のお勉強は終わりです。休憩時間はいつも通り十五分ずつ、四十五分間の講義の予定ですがよろしいですか?」
雅雪は月の宮付きだが、宮城内で側に控える内侍であるため公務には同行しない。彼ら内侍が動くのは、宮城の南棟玄関の内側までだ。月の宮が公務で外出している間雅雪は、まだ側付きの定まっていない春和の身のまわりを整える。
「はい」
春和が答えると、雅雪は続けた。
「和真さまはご昼食の後もこちらでお過ごしの予定とのことです。本日から御子陛下と妃殿下がお留守のため、ご夕食まで春和さまと過ごされたいとのことですが、そのようにご用意させていただいてよろしいですか?」
春和の顔が一気に華やぐ。雅雪はそれを見て、
「では」
と笑んだ。
午前の講義を終え、侍師に春和が挨拶を終えた途端、扉が開く。
「はる!」
和真が満面の笑みで駆け込んできたかと思うと、あっという間に椅子から立ったばかりの春和に抱きつく。扉の側では、雅雪が微笑んでいるのが見える。
「かず」
春和が和真の髪を撫でてやると、和真は満足そうに笑った。それから春和の侍師に目を向け、晴れやかな表情で挨拶をする。
「こんにちは、せんせい!」
「こんにちは。和真さま」
老侍師は温かな笑みで和真に返した。和真はそれを見て歯を見せて笑い、春和に目を戻す。
「はる、今日のお昼はハンバーグだよ! 早く行こ!」
言いながら、和真はすでに春和の手を引きテラスへ向かう。春和は引っ張られながらちょっと微笑み、侍師や雅雪たち内侍に会釈していた。
春和たちの足音が聞こえなくなってから、侍師が雅雪にゆっくりとした足取りで歩み寄る。春和たちの出て行った方に目を遣って、静かに発した。
「いよいよね」
「はい」
雅雪にゆっくりと頷いて、彼女はもう一度口を開いた。
「手筈通り?」
「はい」
粛々と答えた雅雪に彼女はもう一度先ほどのように頷いて、
「では、明日」
と、扉の方へ半身を向けた。しかし、ふと止まって再び雅雪に向き直る。
「お子たちをお願いしますね」
彼女から発せられたひと言は、侍師としてのものではなかった。彼女は、今年傘寿を迎える。立場が変わり六十年近く経てもなお、昔と変わらぬ立ち居振る舞い。雅雪は、去ってゆく背に心からの礼をとった。
「承りました。文和さま」
春和が講義を受けるのは、宮城の公の場とされる南棟の一室である。午前の講義を終えると居住空間である東棟か、テラスへ移動して食事する。移動時間を考えると多少せわしない気はするが、和真と過ごすためなので苦に感じることはない。学校に通えない春和にとって、和真と過ごす時間は大切だ。同じ境遇の親しい子は、互いしかいない。午前の講義が終わるころ和真はいつも講義室まで迎えに来る。日の王族である和真は、本来月の宮城の南棟には入れないので、友人として私的空間である東棟かテラスへ行って過ごすのである。
「こんにちは!」
春和の手を引っ張りながら、立ち止まって会釈するすべての職員に和真は屈託なく笑い挨拶をする。
「ありがとう」
和真に引っ張られながら微笑んで、春和はすべての職員に、毎回必ず日々を整えてくれる礼を言う。
「お昼ですね、いってらっしゃいませ」
「転ばないようにお気を付けくださいまし」
声をかけた職員たちに、
「ありがとう!」
と和真の声がもう一度飛んだ。
東棟とテラスは月の王族の私的空間であるため、南棟や周囲に比べると侍衛の数は大幅に減る。春和と和真から少し離れて四人がついてくるだけだ。あとは、東棟とテラスの各出入り口に、侍衛は常に二人ずつ。しかしこの日は、東棟とテラスの付近に人影があった。
「ね、今日は何かあるの?」
テラスの手前で会った若い職員に、和真が尋ねた。春和は黙って会釈する。春和のあまり見たことのない職員だった。職員は一礼して顔を上げたが、少し慌てた様子だった。
「これは春和さま、和真さま。お邪魔をして申し訳ございません。いえ、何でもございません。こちらへ伺うのは久しぶりで、迷ってしまったのです」
「こちらへあまり来ないということは、公侍の……」
春和が尋ねようとすると、後ろから侍衛が一人出てきた。
「春和さま、さようです。春に配属されたばかりの公侍の者でして。内侍の詰め所に用があるのでしょう。あとは私が案内します」
言った侍衛は一礼し、若い公侍に声をかけて遠ざかる。
(王の公務に同行する公侍が内侍の詰め所に呼ばれることもあるのね。知らなかった)
遠ざかる二人を見ながら春和は思ったが、口には出さなかった。けれど、下から声がする。
「はる。なんで父上たちはお仕事なのに、公侍の人がここにいるの?」
「わからない。あの方にはあの方のお役目があるのよ、きっと」
あいまいに応えると、和真は後ろを振り返った。
「ね、どうして?」
振り返られた侍衛は自分に質問が来ることを想定しており、すでに構えていた。
「今日は年に数度の大事な職員会議の日なのです。和真さまのお住いの日の宮城にも、今日は公侍が伺っています」
「ぼく、会ったことない」
「それは、和真さまがほとんどこちらのお城でお過ごしだからです。こちらにお住いの春和さまでさえ、公侍がこちらへ伺うのを見かけられたのは、今日が初めてだったのですから」
穏やかな表情で説明する侍衛を、和真はまだ納得していないと言わんばかりにじっと見つめた。侍衛はなるべく調子が変わらないように努めながら言葉をつづける。
「そんなことよりお二人とも。せっかくの春和さまのお昼休みが短くなってしまいますよ」
言いながら、軽く春和と和真の背を前に押す。
「ハンバーグ!」
和真は急に駆けだして、春和はまた引っ張られた。
「迷った新入り補臣と鉢合わせとは……」
和真に説明した侍衛が言う。入職して間もない職員は、広い王宮敷地内を迷いがちだ。補臣とは、王宮と政府で使われる職員の階級呼称。入職して三年目までと非常勤職員は補臣、入職四年目以降を佐臣、各省・部の長を副臣、政府の首相と両王家の職員のトップである首侍は主臣という。和真に説明した侍衛福井は、もうすぐ四十を迎え、侍衛長すなわち副臣候補と目されている。
「大丈夫でしょう。いくらご利発と言ってもまだ五歳ですし……」
三年目の侍衛が言うと、福井は緊張を崩さず続けた。
「無邪気に振る舞う子ほど鋭い」
小さくなりつつある背を見つめ、福井は若い侍衛二人に静かに命じた。
「今のことで何かあろうと、計画通りに進まなくとも、重んずべきはただ一つ。両王陛下と妃殿下の御心に背かぬように」
「はい」
二人の返事を聞き、福井は侍衛の待機位置まで歩みを進めた。
春和と和真、そして昼食を整える侍女の楽しそうな声は福井たちのいるところまで聞こえてくる。遠くにそれを聞きながら、福井たちは東棟を見つめていた。
榮礼十三(万久紀三九九一)年九月十九日、十三時。東和国の全メディアが速報を伝えた。
『オルゴー共和国から荷箱。東和国政府宛』
それは、すでにはじまっていた。