21 瀬津
貞香元(万久紀三九九一)年十月三日十八時。
瀬津が東棟玄関から中に入り、帰着の挨拶をしようとすると、声と同時に正面から衝撃があった。
「瀬津! おかえり」
「御子陛下、ただいま帰りました」
瀬津が屈んでうれしそうに笑ってみせると、和真は満足げに笑い、瀬津の手を握った。
「瀬津さん、おかえり」
和真のすぐ後ろにいた春和も、うれしそうに瀬津を迎える。
「ただいま帰りました、宮陛下」
瀬津は春和にも穏やかに笑んで一礼し、その奥を見た。
「「「「おかえりなさい」」」」
月の宮城の内侍として仕える侍女たちが、整列している。
「ただいま戻りました。……私の出迎えに、お忙しい中出てきてくださったのですか?」
和真に手を握られたまま立ち上がった瀬津が問うと、侍女たちは口々に言う。
「おふたりのお供です」
「ちょうど事務所の電話が鳴ったもので」
「お塩が切れて保存庫へ行こうと」
「宮陛下の衣替えをと」
夕食前のこの時刻にはかなり苦しい口実もあるが、瀬津は微笑み会釈した。
「瀬津さん、おかえりなさい」
侍女たちから少し離れて立っていた雅雪も声をかける。
「ただいま戻りました」
きっちりと応える瀬津を見て、雅雪はほっと笑った。
「瀬津さん、夕食の準備が整いましたら内線を鳴らしますので、それまでお二人をお願いします。あぁ、瀬津さんが来られるまで書斎には私がおりますから、お着替えがすんでからでよいですよ」
「はい」
瀬津が雅雪に応えると和真が勢いよく瀬津を引っ張る。
「やったぁ! 瀬津、早く来てね!」
和真は瀬津から手を離し、今度は春和の手をしっかり握った。
「行こう」
そう言って、和真は春和を引っ張ってゆく。瀬津はその後ろ姿を見送ってから職員たちに会釈して自室に戻った。
日も月も王族の住まう宮城は二棟からなる。私的な賓客、使者、侍師など、外部の人間の出入りする南棟。外の者が侵せない、完全な王の私的空間である東棟。東棟に入れるのは、王が許した者だけだ。東棟の最上には統石を祀る斎場があり、すぐ下の階には王の居室と執務室、そして司の居室がある。しかし、今これらの部屋は使われていない。これらの部屋が使われるのは、今の状況の収束と王の成長を待ってからのこととなる。そのふたつ下、一階は書斎や資料室、ダイニングやリビング、洗面所がある。あとは、職員用の部屋が二つ。
瀬津は、本来の王の居室がある階の下階に部屋を与えられた。長い廊下で距離はあるが、春和の部屋も廊下を進むと奥にある。瀬津としては一階にある宿直職員の部屋で十分だったが、そうはいかない立場だというのもよくわかっていた。
部屋には瀬津の生活に必要なものが充分にそろっている。服や学校に必要なもの、公邸の自室から持ってきた資料も部屋にすべて収まった。
通学鞄を置き、学校の制服から王宮府職員の制服に着替える。通学鞄と本棚から必要なものを取り、瀬津は書斎へ向かった。
瀬津は、書斎はもともと特別な場所だったと聞かされた。月の宮が父宮ともっとも長く過ごした場所、と。それゆえ職員は無論、日の御子すら書斎には入らなかったという。
しかし先の両王と御子妃のことがあってから、奥へ通さないとはいえ、月の宮は日の御子と雅雪を書斎に入れるようになった。そして、瀬津も。瀬津はそれを素直によろこぶだけでは済ませられないが、一番家族と過ごしたテラスの見える奥の方へ立ち入りを許されていないことが、かすかな救いだと感じていた。
瀬津が東棟の一番奥にある書斎に着くと、雅雪が入り口を入ってすぐの壁際に控えていたので瀬津は会釈した。雅雪は穏やかに頷いて中へ促す。まもなく、入り口から見える円卓を囲んでいた春和と和真がうれしそうにこちらを向いた。
「待ってたよ」
言いながら、和真は自分のそばに来てほしいと机をたたく。春和は散らばっていた数冊の本を一箇所にまとめた。
「お待たせいたしました。失礼いたします」
和真に呼ばれた場所に瀬津が座ると、春和もうれしそうに笑う。それを見ていた雅雪は、
「では、のちほど」
と一礼した。
「あとでね!」
和真が言い、春和は手を振る。瀬津は会釈し、雅雪の背を見送った。
雅雪がいなくなると、和真は瀬津の袖を引っ張る。
「ぼくは、”さんすう”をしてるの。はるは、”こご”をしてるんだって。瀬津は今から何するの?」
瀬津を見上げる和真の目は輝いていた。瀬津は穏やかに笑んでみせ、自分の持ってきた荷物を順に示す。
「私は今から学校の課題をして、それから自分の課題をします。今日はこれです」
瀬津が自分の課題と言った本の表紙を春和と和真がのぞく。国際公用語であるルーベルトの言葉で、
『東和国と東西諸国』
と書かれていた。
「わかんない」
と和真は残念そうに侍師の作った課題に戻る。
「瀬津さん、それぜんぶ、ルーベルトの言葉で書かれているの?」
春和が尋ねると、
「はい。もちろん、辞書を引きながらになりますが」
と答えが返ってきた。
「すごい……!」
春和は瀬津を見上げる。
それから
「わからなかったらまた教えてね」
と、自分の手元に目を戻した。
「はい、陛下」
瀬津は課題に戻った春和と和真をしばらく見守り、それからゆっくり学校の課題を広げはじめた。
内侍に侍従は雅雪ひとり。侍女たちは、四十路前後の者が多い。それは、十三年前春和の母である桜妃の身の回りを整えることを想定して集められた人員だからだ。代替わりにおいて、先代に仕えた者は数名を残し退位した王や妃に従い秋御殿に移るのが慣例である。しかし今回は、新王である春和と和真の成長に合わせ、時機をみて数人の若手を入れるという判断になった。
瀬津は春和の司。すなわち婿候補と目される側近としてやってきた。“さん”付けではあるものの、侍女たちは瀬津が城に上がったその日のうちに心を奪われ、仕えるべき人と認識した。端正な顔立ち、誠実な態度、春和や和真のみならず職員への気遣い----そして何より、十五とは思えないほど何をさせてもよくできる。それらの要素が彼女たちの心を掴んで離さないのは、自然なことだ。
行政や学校など関係機関の準備が整う昨日まで、瀬津は雅雪のそばで内侍の仕事をはじめた。春和の身の回りを整えることはもちろん、この宮城で過ごすことの多い和真のあそび相手、そして講義以外の時間の二人の勉強をみることまで。その合間に、自分で決めた課題を計画的にこなしている様子だった。
誠実で機転が利き、教養が深く体力も十分。それは申し分なく証明された。春和も和真も瀬津を見つけてはたくさん話し、よく懐いた。春和と和真両方の相手が務まるというのは、職員側としてもありがたい。しかし、無駄な動きをまったくしないでスマートに内侍がこなす料理やベッドメイクまでこなす姿は、感心でありおそろしい。
もともと家に使用人のいる、首相になるような人物の子どもが、この歳でここまでのことをこなせるようになっている。彼は、それだけ努力をしてきた。
(桔梗さんは、あの方をしっかりお育てくださった……)
----どこででも、彼が自分の力で生きられるように。
----どの立場でも、“申し分ない人物”と人々が納得するように。
それならば今は、ここへ来た初日に瀬津自身が話したように、今の彼にしかできないことを身に着けてほしい。学校へ行って、母との時間を大切にして、春和や和真と宮城で過ごして。
内侍でも公侍でもなく、いま司になった瀬津には、それが必要だ。
しかるべき時に、しかるべき立場で、彼が最善を選べるように。
侍女たちの夕食の支度を見ていると、昨日までの瀬津のキッチンでの姿が思い出される。夕食の支度が整ったのを確認し、雅雪は書斎の内線に電話をつないだ。
寒すぎる。




