1 春和
榮礼十三(万久紀三九九一)年九月半ば。朝夕過ごしやすくなってきた。この日も小一時間かくれんぼや鬼ごっこに付き合ったので、春和は疲れ切ってしまった。少し離れたテラスの椅子に座り、テーブルの上に崩れてしまう。けれど、そのまま広々とした緑の上を転がる和真を見ているのは心地よかった。
和真はこのあいだ五つになった。春和はあとふた月で十一になる。和真が一つになるころから二人はともに過ごすことが多くなり、今では毎日一緒に父たちの帰りを待っている。
和真はとにかく外で駆け回るのが好きだ。驚くほど元気な子で、鬼ごっこをしても春和はもうなかなか勝てない。逃げる側だとすぐに捕まってしまい、春和が追いかける側なら先に春和の方が力尽きてしまう。走る速さの問題ではなく、すり抜けたり、よじ登ったり、飛び降りたり。和真の運動能力は、運動が得意を超えていた。
(私の方が六つも年上なのになぁ……)
春和は駆け回る和真を見ながら、ぼんやり思った。
「はる、ただいま。またあれに振り回されたか?」
まっすぐな心地よい声。春和はむくっと身体を起こし、前を見た。
「妃さま! お帰りなさい」
大好きな彼女の帰りに、春和の声も弾んだ。声の主は春和の隣の椅子に掛け、朗らかに笑う。東和国二王の一、日の御子の妃。名は椿。----和真の母である。
「いいの。かずと遊ぶと元気がもらえる」
春和が笑むと、椿は苦笑を漏らし、
「そうか」
と春和を撫でた。
公務を終えてここに戻ってくる椿にその日の公務の話を聞くのが、春和は好きだ。春和と和真の父----二人の王が朝議会に出ている間、妃である椿は外の視察に行くことが多い。そこで椿が見聞きしたものを聞くのは、春和にとってとても楽しいことだった。
「ね、妃さま。今日は祭部の馬術会のお稽古を見に行かれたのでしょう?」
祭部とは祭祀や儀礼全般を取り仕切る王宮府の一機関で、唯一政府にも籍を置く組織である。政府での組織名は祭務省。しかし王室側はその呼称でほとんど呼ばない。祭部は年に一度、伝統の継承と訓練を兼ねて、王族や来賓の前でその技術を披露する。それが、馬術会だ。
「やはり美しかったな。行進の隊列が一糸乱れぬのももちろんのこと、各種目で個々の人馬が一つになって駆け抜ける刹那が美しかった」
椿の眼は遠くを見て輝いていた。
「馬術会は西方式の行進や障害物走のほかに、東方式や古式の馬術もされるのでしょう? テレビではなく、私も実際に見てみたいわ」
春和が言うと、声を上げて椿は笑った。
「はるは将来、月の宮。大きくなったら何度だって見られるさ」
「でもそれは……」
春和が口ごもる。
(王の役目としてでしょう?)
続きは、心の中で言った。椿は何も言わず、春和の頭に手を載せて、その手で春和の手を取った。切り替えるように、勢いをつけて立ち上がる。春和も、手が引っ張られて立ち上がった。テーブルに足がかすれて少し痛んだ。
テーブルと椅子の間から出て、何歩か前に出る。目の前には、どこまでも続いていそうな草原の緑。椿は、まっすぐにそちらを見ていた。
「はるは、父上の後を継いでこの東和の王になる。日の御子と……和真と並びこの国の頂に立つ月の宮に。それは、きっと変えられない。だからその時のために、これから多くのことを実際に見聞きして、知らなくてはならない。この国と、世界と、そこに生きる人々を。----けれどな」
見上げていた椿の視線が、優しく春和に向けられた。
「はるもかずもまだ子どもだ。子どもは、いろんな経験をして学ぶもの。つらいことも、うれしいことも。そうやって大きくなる。それは世界中、どんな時代の、どんな立場の子どももみな同じだ」
椿は笑う。
「馬に興味があるのなら、父上にそう言ってみたらどうだ?」
「……でも……」
王女の自分がそういう願いを口にしたら、多少時間はかかっても大概のことは実現するよう計らわれる。多くの人が関わって。それを、春和はもうわかっていた。けれどそこまでしてもらったことに対して、自分はまだ何も返せない。だから、自分からはそういうことを言い出せないのだ。
また口ごもる春和を見て椿は屈んだ。春和の方にまっすぐ向いて目線を合わす。生まれたその日から、自分の娘と思って見守ってきた春和がどういう子であるか、椿はよく知っていた。
「はる。ちょっと難しいかもしれないけれど、大事なことだから覚えておおき」
言われて、春和は顔を上げた。
「両王陛下や私、かずでもそうだが、はるの言葉や行動は、大概の場合多くの人を動かしてしまう。それは、はるが和重と桜の、月の宮と宮妃の子として生まれたその時に、一緒についてきたものだ。人は生きる中で、いろんなものを選べるけれど、生まれる場所は選べない。そこについてくる恩恵も、足枷も。それは、どんな人だって同じだ。みなそれぞれ、その場所に生まれ落ちることには意味がある。生まれた場所、行き着いた場所で、感じ、考えることで、自分の進む方を選ぶ。はるがこの立場で生まれてきたのも、今ここにいるのも、ここで感じるべきことがあるからだ。はるは今、自分の行動一つで多くの人が動く自分の立場を感じている。だから、よく言いたいことを言おうか迷う。言うのも、言わないのも、迷うのも、はるが選んでしていることだ。はるだけが置かれた状況の中で、はるだけにしか選べない。……選ぶまでに考えること。選んだことに責任を持つこと。責任を棄てほかの人に迷惑をかけないこと。それができているのならいい。どんな人も、どんな時代も、それが大切なのは変わらない」
春和は、椿をまっすぐ見つめたままだった。母代わりに自分のことも見守ってくれる妃の瞳は、どんな時も迷いをまったく感じさせない。そのまっすぐな瞳の光を、春和はとても慕っていて、少しだけ、うらやましいと思う。
「はい。妃さま」
春和が椿からこのような話をされることはあまりない。自分がどう在るべきか、というような話は、父である月の宮からよく諭される。あとは教育係である侍師たちから。普段そのようなことを自分に言わない妃からこうして聞くのは、なんとなく不思議な感覚で、新鮮だった。そして、言われたことの大きさのせいか、妃の瞳がこの日はほんの少しおそろしかった。
椿は、ぽんと春和の頭に手を載せる。
「雅雪が来た。父上たちのお帰りだな」
宮城の扉から柔和な面持ちの侍従が一人現れた。古希を過ぎた最古参の侍従で、月の宮付き内侍だ。彼は、いつも両王の公務の終わりをこの庭まで告げに来る。それから間もなく、両王はこの庭に来てともに過ごし、空が真っ暗になる前に和真たちは自分たちの宮城へ帰るのだ。椿は、まだ草の上を転がりまわっている和真を呼びに草原の中へ踏み出した。
「はる、ただいま」
春和が振り返ると、父がいた。
「父さま! おかえりなさい」
いつものように、春和は父の広げた両手に飛び込む。和重は春和を柔らかく包み、その横顔を見つめて言った。
「はる、大事な話があるんだ。書斎に行こう」
「大事なお話?」
春和は和重を見上げた。
「うん」
和重は春和の髪を撫でる。
「はい、父さま」
宮城に入ってすぐ、草原が見える位置に書斎がある。日中は大きな窓から程よく日の光が入って心地よい。春和は物語を読むのも、授業以外のことを学ぶのも好きだ。だから和真に外へ引っ張り出されない限り、勉強の時間以外もよくここにいる。和重はそれをわかっているので、春和と話したいときは寝室より先にこちらへ寄って、そのまま二人で過ごすのだ。宮仕えの者たちは皆それを知っているから、誰も入ってこない。ここは、春和と和重が一番長くともに過ごす場でもある。
椅子は三つ。テーブルをはさんで向かい合わせに、春和と和重が座る椅子。そして真ん中は、春和の母、桜がいつも座った椅子だ。桜は春和を産んだ日に亡くなったから、春和は母と話したことがない。けれど、ここで和重から桜の話をたくさん聞き、大切なことはここで三人で話してきた。
和重が先に座り、春和が向かいに座る。春和が姿勢を整えて落ち着いたのを確認し、和重は話し始めた。
「いつもしっかりと頑張っていると、先生方から聞いているよ。なかなか長く一緒にいる時間が作れなくてごめんね」
「あの地震以降、たいへんなことが続いているのは先生方からも聞いています。どうかお気になさらないで」
春和の笑みが胸を刺すのを感じながら、和重は続ける。
「もしかしたらこれから、国の形が大きく変わるかもしれない」
「変わる?」
和重はゆっくり頷き、また続けた。
「春和もわかってくれている通り、あの地震以降、いや、ほんとうはもっと昔からなのだけれど、やらなくてはならないことがたくさんあってね。ほかの国々とも何度も相談しているんだ」
「はい」
春和から、笑みは消えた。
「まだすべてが決まったわけではないのだけれど、もしかしたら、私たちは今日までとは違う立場になるかもしれない。たとえ短い時間でも毎日会えるということが、なくなるかもしれない」
春和ははっとしたような表情をして、それからしばらく返事をしなかったが、やがて
「はい」
と、先ほどのように返した。
「はるは優しくて一生懸命頑張る子だから、父さまは安心している。でも頑張りすぎるところもあるから、一つだけ言っておかせておくれ」
娘のそばまで行って、和重は屈んだ。
「父さまも母さまも、どこにいようと、はるが元気に幸せでいてくれることが、今の一番の願いなんだ」
「はい。父さま」
春和は椅子から降りて、父にしがみついた。父の胸に顔を埋め、瞼を閉じた。包んでくれる父の腕は温かい。
(妃さまのさっきのお話も、きっと何か意味がある……)
今の父の話と、テラスでの妃の話。どう結びつくかは説明できないが、無関係でないように思え、春和は父の身体に回した手に力を込めた。