17 春和の契(下)
目の前で話していたカミが透けてきたことに春和が気づいた次の瞬間、カミの姿は見えなくなった。カミを捜そうと周囲を見渡したが、正面に小さな石が一つあるのみ。気づくと、春和は闇の中にたたずんでいた。
暗闇の中、そこがどこかはわからず、前に立つ人がだれなのかもわからない。ただ自分の両肩に触れる手は優しく、声は悲しい。
「はる、たのむ」
肩に触れる手に力がこもる。
「生きるんだ」
声の主が男なのはわかった。父ではない。肩に触れる相手の手は、震えていた。
自分は何と応えるのか? 春和はしばらくその時点にいるはずの自分が答えるのを待った。しかし話しかけられているはずの自分は次の言葉を口にしない。また、相手の声がした。
「その子を産んで、育てて、一緒に生きて、見届けて」
相手の言葉で春和は腹に手を当てる。ーーーーふくらみがあった。
「見届ける?」
話しかけられている時点の自分が口を開かないので、春和は訊いた。
「ぼくたちが下した決断のもとにある、これから先を」
「あなたは?」
「ぼくはここで見届ける。これは、『ぼく』の決めたことだから」
相手が言った途端、春和と相手の間に球のような空気が生じ、光った。それは瞬く間に大きくなって春和を相手から遠ざける。
「待って! ……!」
相手の名を呼ぼうとしたが、呼べなかった。
遠ざかり飛ばされていくような感覚の中で、幾重にも重なって声が聞こえる。
「陛下」
「宮陛下」
「はるさま」
「ひめさま」
自分の意思などまるで歯の立たない風と、無数の声の重なった太い流れに押し出され、引き留めたい相手に手も声も届かない。
(あぁ、どうしよう……!)
自分を呼ぶ声は東和以外の言葉もあった。何十何百では収まらない声の渦。これだけの人の思いが、自分にこれから向けられるのか。力の限り手を伸ばし、声の限りを尽くしている喉の感覚。しかし、相手にそれは届かない。この瞬間が現実として訪れたとき、自分は、ちゃんと相手に届くか。
春和が縋るように思っている時、切り裂くように流れを割って、はっきりと声が聞こえた。
「はる!!」
気がつくと、春和は斎場に戻っており、カミがそばに座っていた。
「これを見ても、気は変わらぬか?」
「はい」
春和は応えてカミに尋ねる。
「今私が見たのは、未来に起こることですか?」
カミは穏やかな目で遠くを眺める。
「そうだな。……これから先であり、過ぎ去ったことであり、現在であり」
春和が首を傾げると、カミは首を横に振る。
「まぁよい。今大事なのは、そなたが自分でここへ戻ってきたことだ」
不思議そうな表情で春和はカミを見つめていた。
カミは、切り替えるように一つ頷く。
「名は?」
「春和です」
「はるの字は?」
「季節の『春』です」
カミは天井を見上げる。
(読みはまちまちだが、『和』は王家の通り字。はるは季節の『春』か……)
十一年前、あの少年の母がここへ来た日は秋だった。
「春和。懐の真名を書いた紙に目を閉じて深く息を吐け。精一杯鼻から吸って口からすべて息を吐くのだ」
懐に紙を入れた覚えなどなかったが、春和が懐を探ると本当に二つ折りの紙が入っていた。開くと自身のもう一つの名が書かれている。言われた通りに目を閉じて精いっぱい鼻から空気を吸い、口からできる限りの息を紙に吐いた。頭のてっぺんから、何かがすーっと出ていくような感覚が体中に広がってゆく。手の中から紙が消える。
「真名は、『史結』か」
カミはひとつ呼吸をして続ける。
「頼る者のない贈りものをやろう。そやつは、そなたの望む形でそばに置くがよい。きっと互いに助けになる」
春和が目を開けるとそこにカミの姿はなく、目の前に小さな石があるのみだった。今までのことが現実かどうかわからず春和が不思議な感覚に浸っていると、目の前の石から声がした。
「幼き娘よ、見届けよ。汝が名の通り。私と契る最後の王よ」
この言葉の後、石は一人の少年をその身に映した。
毎眠暁を覚えず。




