11 対面
榮礼十三(万久紀三九九一)年九月二十三日、十六時十五分。景は月の宮城南棟の一室にいた。
ある程度の広さはあるが、政治や公的な行事の場である東和城に比べると、威信を誇示するような装飾はない。景のそばのテーブルには母と同じ名の花が置かれていた。
(桔梗……)
景は花の一つにそっと触れた。桔梗より少し先に目を向けると、景が座っている椅子と同じ椅子がもう一つある。景はまた指先で桔梗に触れた。
「こんにちは」
幼い子どもの声がした。顔を上げ、景は思わず立ち上がる。間近に来るまで気配をまったく感じなかったが、目の前には、即位したばかりの日の御子がいた。侍従も侍衛も周りにいない。
「御子陛下、大変失礼いたしました」
景が言うと、日の御子は景をじっと見上げて首を振る。それからもしばらくじっと景の顔を見上げて、日の御子は言った。
「これからよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
言葉の意図が何にせよ、日の御子に言われたのだから返事はこれしかしようがない。屈んで景が応えると、日の御子は何か言いかけようとしたが、ほかの何かに感づいた様子で扉のない廊下を見、言葉を呑み込む。
「人が来る! またね!」
言い終えるかどうかのうちに、日の御子は見ていた廊下と反対の景が入ってきた扉から出て行った。
「失礼いたします」
声がして、景は腰を上げた。部屋の奥、日の御子が見ていた廊下と景のいる部屋との絨毯の境に、男が立っていた。服装は侍従のようで、背はしゃんと伸びているが、王宮に仕える職員としては老齢に見える。景が会釈すると、男は部屋の中を見まわしてから柔らかく笑んだ。
「月の宮陛下と孝至の大宮妃殿下のおなりです」
景は奥の廊下に向かって礼をとる。新たにこの国の権威の象徴となった月の宮は、祖母である先々代の宮妃とともに複数の侍衛に囲まれてやってきた。
「お顔を上げてください」
顔を上げた景の前にいたのは、日の御子よりは背の高い子どもだった。もうすぐ十一のはずだが、それにしては幼く愛らしい顔立ち。これは、メディアに公開されている通りと言える。しかし、その声には幼さよりも歳に見合わぬ落ち着きがあった。
景のそばまできて、月の宮は立ち止まる。
「春和と申します。本日はお運びいただき、ありがとうございます」
月の宮が微笑んでゆっくりとお辞儀したので、景もゆっくりその場に膝をついた。
「あ……」
かすかに声がしたような気がして景は顔を上げたが、彼女はもう笑んでいた。大宮妃は挨拶をする月の宮を見守ってから口を開く。
「ようこそいらっしゃいました。ほんとうにありがとう。よ志と申します。お二人とも、こんなに大勢いるとお困りでしょう。一番初めに参った内侍以外は、失礼いたしますね」
よ志妃は景に微笑み、隅に控えていた複数の侍衛とともに戻っていく。
よ志妃と侍衛が去ると、月の宮は景に椅子へかけるようすすめ、自身も向かいの椅子に座った。
「紅茶はお飲みになれますか?」
「はい」
景が返事をすると、月の宮は後ろを振り返る。
「竹富さん、お願いします」
「はい、宮陛下」
心得たように、残っていた内侍が退出した。
「私、まだ、ミルクを入れないと飲めないんです」
月の宮は恥ずかしそうに言ってから、口元に人差し指を立てて笑った。景も、笑んで返した。
彼女の仕草はかわいらしく、発せられた言葉の中身も年相応で安堵する。けれど、やはりまとっている雰囲気は、子どもにしては静かだ。
「お名前を聞いてもいいですか?」
月の宮に言われ、景は自分がどんな表情をいま彼女に向けていたのかと、刹那思う。そんな景の思いを何か感じとったのか、月の宮はほんのわずかに首を傾げた。
「名乗るのが遅れ失礼いたしました。私は、瀬津と申します」
景は日ごろこのように振る舞うことが多く求められてきたので自然に言うことができたとは思うが、名乗った時は、他人を呼んだようだった。月の宮は瞬きをして、頬に右手の指をあてながら上を見る。せつ、せつ、せつ、と何度か呟き、
「きれいな音ですね」
と笑った。
ちょうどその時、声がする。
「失礼いたします」
先ほどの内侍が、ティーポットとカップ、クッキーをワゴンに載せて運んできた。柔らかい手つきで、内侍は準備を整える。月の宮は、その指先を静かに見ていた。
内侍が準備を終えると、月の宮は礼を言う。
「ありがとう、竹富さん。あのね、呼ぶまでお人払いをお願いできますか?」
内侍は微笑み、
「では私はお部屋を出た所で控えておりますので、御用でしたらお声掛けください」
と退出した。
内侍が去ると、月の宮は座っていた椅子から立ち上がる。その椅子の肘掛けを持ち、絨毯の上を引きずった。
「陛下、私が」
景が立ちあがりかけると、月の宮は首を振る。
「お客様に、していただいてはいけません」
まもなく景の顔が見やすい位置で月の宮は手を止め、座り直して満足げに頷いた。
「お待たせしました。大事なお話だから、こうしたかったんです」
言ったあと、月の宮の表情はすっと締まる。彼女の言葉に、景も心の背を正した。
先ほどまでの愛らしさを残しつつ、月の宮の眼差しは、今までなかった光を秘めていた。景は、月の宮の言葉を待つ。
「瀬津さんのお荷物が宮城内に運ばれたと聞きましたので、そういうことかなとは理解しているのですが、今の状況と、今後どうするかを、ちゃんとお顔を見てお話ししあっておきたいと思っています」
「はい」
返事はしたが、景は月の宮の真意を図りかねる。月の宮は景の返事に礼を言い、では、と切り出した。
「瀬津さんは、私の司になってくださるということでよろしいのでしょうか?」
「……え?」
景にとって、それは想定外の質問だった。
やっと会えました。




