竜皇女と呼ばれた娘
冥界への大瀑布
底が全く見えずここに落ちて生還してきた者が今まで存在しないことからこの滝はそう呼ばれている
そんな場所に鎧を着た一人の男がやって来た
その者が手に持っている籠の中にはまだ生まれて間もない小さな赤子が眠っていた
『こんな生まれたばかりの赤子を処分しろだなんて……お前が誰の子かは分からないがこんな危険な森にある滝に捨ててこいなんて酷い奴もいたもんだ。魔物払いのお香があるからなんとかなったが……恨むなら俺に命令した上の奴等を恨んでくれよ』
男は躊躇いながらも赤子を籠に入れたまま滝へと落とし、姿が見えなくなるまで確認すると速やかにその場を立ち去った
赤子は長い時間をかけて落下し続けた後滝底に叩きつけられた
だが赤子はそこでは命を落とさなかった
普通であれば激しい衝撃を受けた時点で即死だっただろう
しかし籠に入れられていた状態且つ中の毛布がクッションとなってくれたお陰で奇跡的に無傷で滝底に着水した
『スゥ…スゥ…』
驚くことに赤子はこんな状況にも関わらず寝息を立てて気持ちよさそうに眠っていた
赤子はそのまま川に身を委ね流され続けた
途中岩や流木に衝突しながらも濁流に飲み込まれることなく進み続け、やがて赤子はとある洞窟に流れ着く
洞窟内は青く輝く謎の石のお陰で比較的明るく、中央に大きな岩が一つだけあるだけの巨大な空洞になっていた
『あぅ……?あーあー』
洞窟に到着したところでようやく赤子が目を覚ました
まだ目がよく見えない赤子だが、ここが知らない場所だと肌で感じたのか不安を覚え泣き出してしまった
『おぎゃー!おぎゃー!』
泣き叫んだところでここは人間が踏み入れた事のない滝底からずっと先にある洞窟
当然誰も助けになんて来るはずがないが赤子にそれが分かるはずもない
このままただ飢えて死ぬのを待つだけ……かと思われたが、赤子の声に反応する者が現れた
『……五月蠅い』
赤子の叫び声に苛立ちを募らせる声ようなが聞こえると、突然中央に聳え立っていた大岩が動き出した
なんと大岩だと思っていた物体はこの洞窟を寝床としていた生物で、蛇のような鱗に覆われており背中にはその巨体で自由に飛び回る為の大きな翼が生えている
洞窟を棲み処にしていたのはこの世界の頂点に立つ存在、竜だった
『吾輩の眠りを妨げるとはいい度胸をしているな。わざわざここまで来るとは余程吾輩を越殺したいようだ……な?』
竜と赤子の目が合うと竜は動きを止めた
このような場所にあまりにも似つかわしくない存在がいることに侵入者を屠る気でいた竜は意表を突かれる形となった
『人間の赤子?どうしてこんな場所にいるんだ』
『おぎゃー!おぎゃー!』
『こんな所まで無傷で来るとは貴様相当運が良いな。しかしどうしたものか、赤子なんて食っても腹の足しにもならんしそもそも人間は美味くない。このような矮小な存在を殺したところでなぁ……』
『おぎゃー!おぎゃー!』
『えぇい黙れ!気が散る!吾輩がその気になれば貴様を細切れにしてゴブリン共の餌にしてやることなど容易なのだぞ!』
一向に泣き止まない赤子に向かって竜は洞窟が揺れる程の怒声を浴びせた
その声を聞いた赤子はピタリと泣き止んだ
竜の声に怯えて声も出なくなってしまった……かに思えたが、赤子は予想とは裏腹に楽し気な声を上げた
それどころか怒声を浴びせてきた相手に向かって微笑みかけてきた
『キャッキャッ♪』
『ほぉ、この吾輩の威嚇に臆するどころか笑いかけてくるとはな。貴様は中々見どころがありそうだ』
『あぅ~♪』
『あ、コラ。気安く触るでない……全く仕方のない奴だ』
赤子は籠から自力で這い出てくると竜の元までやって来て足元に擦り寄って来る
こちらを全く気にしないその無邪気さを見て竜は赤子を掌に乗せ、自身の鼻の上へと持っていった
そうすると赤子は更に上機嫌になった
『キャッキャッ♪』
『光栄に思え。吾輩に乗った人間は貴様が初めてなんだからな……って吾輩は何をやっているのだ?相手は赤子とはいえ人の子、そうと分かっているはずなのになんだこの感情は……もしやこれが子を持つ親の気持ちというものなのか?』
『あー♪』
『……これも運命の巡り合わせというやつか。いいだろう、ちょうど暇を持て余していたところだ。貴様はこの吾輩が育ててやろうじゃないか。天の計らいに感謝するのだな』
『うー?』
『そうと決まれば名前が必要だな。見たところ貴様はメスの様だしメスらしい名前の方がいいんだろうが……うーむ』
初めてする名づけに竜は唸りながら頭を悩ませた
その時再び赤子と目が合った
赤子の燃えるような赤い髪、そしてサファイヤのよう青い瞳を見て竜は一つの名前が頭に思い浮かんだ
『ヴァイオレット……ヴァイオレットなんてどうだ?』
『あぅ……?』
赤と青、その二つの色を併せ持つ赤子の名前にピッタリだと思い竜は繰り返し名前を告げた
『ヴァイオレットだ、ヴァ・イ・オ・レッ・ト』
『うぁいおーお♪』
赤子は竜の口の動きを真似て手を叩き喜ぶ仕草を見せた
『決まりだな。貴様の名前は今日からヴァイオレットだ』
斯くして赤子の名前が決まり、竜の育児生活が始まった
この時、適当に餌だけ与えていれば勝手に大きくなるだろうという浅い考えだったことを竜は近いうちに後悔することとなる
滝に落とされ流れ着いた洞窟に棲んでいた竜に赤子が拾われてから数時間が経過した
竜はその時間を使って洞窟に流れ着いた漂流物で暖をとれるようヴァイオレットの寝床を作り上げた
『こんなものか。さて、あとは何をすればよいのだろう』
『んぅ……おぎゃー!おぎゃー!』
『なんだ?さっきまで上機嫌だったのに急に泣き出し始めたぞ。そういえばここに来てからまだ飯を食わせていなかったな。だがここには食い物がないしな……仕方ないちょっと待っていろ』
お腹を空かせて泣いていると思った竜はヴァイオレットを置き、翼を広げて洞窟を飛び出していった
それからものの数分程で竜は獲物を持って戻ってきた
『ほら、飯を持ってきてやったぞヴァイオレット。たらふく食って大きくなるんだぞ』
竜の口にはこの世界で魔物という存在に分類されている生き物でワイルドボアという猪の魔物が咥えられていた
竜はそれをヴァイオレットの前に差し出し食べるよう促したが、ヴァイオレットは喜ぶどころか更に激しく泣き始めた
『おぎゃー!おぎゃー!』
『な、なんだ?飯は持ってきてやっただろ?あぁそうか、確か人間は肉を生では食さなかったのだな。よし待っていろ』
そう言うと竜は口から火を吹いて倒してきたワイルドボアを焼き始めた
こんがりと焼きあがるとヴァイオレットの口に入るサイズに切り分けて口元へとゆっくり近づけてみた
『ほら、これならどうだ?』
『んんんみゃー!!』
『なぜだ、なぜ食べないんだ?肉もしっかり焼いたし問題ないはずだぞ。それとも腹が減っているわけではないのか?人間の子供は分からん……一体どうすればよいのだ』
育児経験のない竜に子供の……ましてや人間の赤子が何を求めているのかなんて分かるわけもなかった
どうすればヴァイオレットが泣き止むのかと頭を悩ませていると、突然洞窟の外から強烈な風が舞い込んできた
『ん?この魔力の感じは……』
強烈な風からヴァイオレットを守りつつこちらにやって来る存在に目をやる
竜が棲む場所に正面から入ってくるような命知らずな者はいない
いるとすればそれは同種の存在。竜の前に現れたのは白銀に輝く毛並みをしたもう一頭の竜だった
『やはり貴様だったかバシリッサ』
『久しぶりねイグニス、こうして顔を合わすのは何百年ぶりかしら』
『いきなり吾輩の棲み処に来るとはどういう風の吹き回しだ?』
『たまたまこの近くを通りかかったから寄っただけよ。それにしても相変わらず陰気な場所に住んでいるのね』
『どこを棲み処にしようが吾輩の勝手だ。用がないのならさっさと消えろ、吾輩は今忙しいんだ』
『おぎゃー!おぎゃー!』
二頭が会話をしているところに再び赤子の泣き声が木霊する
その声を聞いて白銀の竜バシリッサはようやく赤子の存在に気がつき顔を近づけた
『人間の赤ちゃん?どうしてこんなところに?まさか攫ってきたの?』
『違うわ!ここに流れ着いたから吾輩が育ててやってるのだ』
『あなたが子育て……?冗談でしょ?自分の子供すら持ったことがないあなたが人間の赤ちゃんを育てるなんて……』
『何を言っている、吾輩にだって赤子の一人や二人容易に育てられるわ』
『おぎゃー!おぎゃー!』
『えぇい!五月蠅い!貴様も泣いてばかりいるな!そんなのでは強くなれんぞ!』
『びええええええええ!!』
泣き続けるヴァイオレットに一喝するがそれが逆効果となり一層激しさを増す
その様子を見てバシリッサは深い溜め息をついた
『全く、そんなんじゃ先が思いやられるわね。この子お腹空かせているみたいよ』
『そう思って飯を持ってきてやったんだ。わざわざ口に入るよう切ってもやったのだぞ』
『アナタ生まれて間もない赤ちゃんにそんなものをあげようとしていたの?竜の赤ちゃんと違って人間の赤ちゃんは母乳で育てるものなのよ』
『なに?そうなのか?だが吾輩から母乳なんてものは出ないぞ。貴様は出るのか?』
『出るわけないでしょ。竜だもの』
『じゃあどうするんだ』
『ちょっと待っていなさい』
イグニスにそう伝えるとバシリッサは外へ出ていった
その間なんとか泣き喚くヴァシリッサを宥め帰りを待っていると、バシリッサが大きな葉っぱを持って戻ってきた
葉の中には白い液体が入れられていて微かに甘い香りがした
『これを飲ませてあげなさい』
『なんだこれは?』
『ミルキーツリーという木から採った樹液よ。その木から採れる樹液は人間の母乳と殆ど同じみたいだから赤ちゃんにあげても問題ないと思うわよ』
『よく分からんがこれならヴァイオレットは口に入れるのだな。さっさと寄越せ』
『ゆっくり、少しずつあげるのよ』
バシリッサの持ってきた樹液を慎重にヴァイオレットの口へと運ぶ
最初は中々口にしようとしなかったヴァイオレットだが、一度口にすると美味しそうに樹液を飲んでくれた
『おぉ!飲んだぞ!見ろ!吾輩だってちゃんと授乳できているだろう!』
『はいはい、その調子で頑張りなさいね』
お腹が膨れるとヴァイオレットは満足したのか程なくして気持ちよさそうな顔をして眠りについた
ようやく一息つくことができたイグニスは今まで味わったことのない疲労感に襲われた
そんな生活を過ごすこと早五年、ヴァイオレットはスクスクと育ち、今では自分の足で走り回れるようにまで成長した
『お父さーん!』
『おいヴァイオレット、あんまり遠くへ行くんじゃない』
ヴァイオレット達はあの後洞窟から棲み家を変えて生活を送っていた
洞窟内ではヴァイオレットの成長を妨げる恐れがあると判断してのことだ
そして今日はイグニスと共に食料の調達にやって来ている
イグニスの影響かヴァイオレットは肉が大好物
森の中を探検しながら獲物を探していると、やがて食事中の無警戒なウサギを見つけた
『いた!お父さんいつもみたいボワーって火で倒して!』
『ここは森だから火は使えん。それよりもヴァイオレット、今日はお前がやってみろ』
『えっ、でも私やったことないし無理だよ』
『やる前から無理だと決めつけるな。まずは挑戦してみることが大事なんだ。最近魔法を学び始めただろ。魔法を上達させるには実戦で経験を積むのが一番手っ取り早い。失敗してもいいからやってみろ』
『……分かった。やってみる』
普段はイグニスに任せっきりで自分で狩りを行うのは今回が初めて
緊張しながらもウサギに狙いを定め教えてもらった通り体内の魔力を手に集中させいき標的であるウサギに魔法を放つ
『ふぁいあぼうる!』
ヴァイオレットの放った火の魔法"ファイアボール"はウサギに向かって真っ直ぐ……とはいかず、途中で軌道が逸れて木にぶつかり消滅した
それに驚いたウサギは森の奥へと慌てて逃げていった
『やっぱりダメだった……ヒック……』
『これしきの事で泣くんじゃない。失敗してもいいと言っただろ。諦めずに続けていればそのうち自分の手足のように魔法が扱えるようになる。さぁ次の獲物を探すぞ』
『うん……』
その後もヴァイオレットは魔力の限界が来るまで獲物に向かって魔法を撃ち続けた
結局その日は自分の力で獲物を捕まえることができずイグニスが今日の食料を調達した
『さぁ早速飯にしよう。腹減っただろ』
『うん!今日はたくさん動いたからいっぱい食べる!』
『ちょっと待ちなさい』
ヴァイオレット達が狩ってきた獲物を調理し始めようとしたタイミングで空からもう一頭の竜が現れた。バシリッサだ
『あ!お母さん!』
『ふふ、今日も元気ねヴァイオレット』
バシリッサはイグニスだけに子育てをさせるのは不安で仕方がなかったのでこうして頻繁に様子を見にきている
それもあってか物心がついた頃にはヴァイオレットからお母さんと呼ばれるようになった
しかしイグニスはそれをよく思っていなかった
『ヴァイオレット、コイツをお母さんを呼ぶのはやめろと言っているだろ』
『えー、だってお母さんはお母さんだもん』
『私は可愛い娘にお母さんって呼んでもらえて嬉しいわよ。さっ、早くご飯の準備をしちゃいましょ』
そう言って材料の方に目をやるが、用意されているのは肉肉肉。全部肉だ
野菜が一つもないことが分かるとバシリッサは思わず溜め息をつく
『もう、またヴァイオレットに肉だけ食べさせようとしていたのね。ちゃんとバランス良く食べないとダメって何度も言ったでしょうに』
『好きな物を好きなだけ食わせた方がヴァイオレットも嬉しいだろう。なぁヴァイオレット、お前もたらふく肉を食いたいだろう?』
『うん』
『ヴァイオレット、好き嫌いせずに食べないといつまで経っても大きくなれないわよ』
『えぇ、それはやだなぁ。んー……野菜は好きじゃないけど頑張って食べる』
『偉いわね、全部食べられたらご褒美にデザートを上げるわね』
『デザート!?やったー!お母さん大好き!』
『ふんっ、もので釣るとは卑怯な奴め』
ヴァイオレットは肉の次に甘い物に目がない
文字通りバシリッサの甘言にまんまと乗せられたヴァイオレットは普段好んで食べない野菜を進んで食べ完食しデザートを堪能した
『ん~♪プディンうまうま~♪』
『ヴァイオレットそれ大好きだものね。けどこれは人間の町でしか作られていないから手に入れるのが大変なのよね』
『人がたくさんいるんだよね。私もいつか行ってみたいなぁ』
『その為にはちゃんと人の言葉が喋れるようにならないとね』
成長していく過程でイグニス達の会話を聞いているうちにヴァイオレットは人間の言葉よりも先に竜の言語を喋れるようになってしまった
なので現在魔法の練習と並行して人の言葉を勉強中なのである
『ふぁ~……』
『そろそろおねむの時間のようね。今日は魔法をいっぱい使ったみたいだしゆっくり休みなさい』
『うん、おやすみぃ……』
イグニスとバシリッサに挨拶を済ませるとヴァイオレットは早々に眠りについてしまった
覚えたての魔法を連発した疲労で限界だったようだ
ヴァイオレットが寝たことを確認するとバシリッサが口を開いた
『それでどうだったの?』
『あぁ、やはりヴァイオレットは五歳にして既に人並み以上の魔力量を有している。しかもまだまだ成長途中で底が見えん』
『アナタがそこまで言うなんて珍しいわね。親バカってやつかしら』
『茶化すな』
『冗談よ。けどそうね……このまま放置していたら強大すぎる力に壊されてしまうわ。どうにかしてあげないと』
『そうだな、まだ幼いヴァイオレットには大変だろうが頑張ってもらう他あるまい』
日に日に魔力が増え続けるヴァイオレット
このままではいずれ自身の力で身を滅ぼしてしまうことを危惧し、イグニス達は心を鬼にしてヴァイオレットを鍛えることを決意した
その翌日、イグニス達は早速ヴァイオレットが自分の力に潰されないようにする為の特訓を始めた
『いいかヴァイオレット、これからお前には魔物と戦ってもらう』
『まもの?昨日のウサギさんじゃなくて?』
『あれでもいいが魔法の上達を早めるには実戦が一番いい。お前も魔法を使うのは好きだろ?』
『好きだけど……ウサギさんみたいに襲ってこない?』
『魔物は人に害を為す存在、見つかったら問答無用で襲ってくるぞ』
『えっやだそんなの怖いよ。お父さんが戦って』
『それじゃあお前の為にならないんだヴァイオレット、お前は普通の者より優れた力を持っている。だがこのままだと将来必ず辛い目に遭う。そうならない為にこれは必要なことなんだ』
イグニスが懸命に説明するが、まだ幼いヴァイオレットにはいまひとつ理解ができないようで戦うことを躊躇していた
そんな話をしていると茂みの奥の方からガサガサと茂みを掻き分ける音が聞こえてきた
現れたのは二足歩行で局部を隠す程度の布切れ一枚だけを身に着けた人の姿に似た魔物、ゴブリンだ
『はぐれゴブリンか、群れから追い出されたならず者だ。あれ位ならヴァイオレットでも倒せるだろう。ヴァイオレット、魔法を使ってあいつを倒してみろ』
『ギャギャギャ!』
ゴブリンはヴァイオレットに対して威嚇しているような声を浴びせてくる
その声に怯んだヴァイオレットは咄嗟にイグニスの後ろへと隠れた
『怖いよお父さん……私戦いたくない』
『大丈夫だ、危なくなったら吾輩が守ってやる』
『本当……?』
イグニスの言葉をヴァイオレットは信じておずおずと前に出ていきながらゴブリンと対峙、それを見てゴブリンはこちらに迫ってきた
『ギャギャギャギャ!』
『ひっ……!』
『恐れるな!攻撃をするんだ』
『うぅっ……ふぁいあぼうる!』
ヴァイオレットの放ったファイアボールは見事にゴブリンに命中した
昨日ウサギ相手に散々練習した成果がしっかりと発揮できていた
しかしまだ急所を狙えるだけの精度はなく、一撃くらった程度ではゴブリンはこちらに向かってくる歩みを止めなかった
『それではダメだ。相手が動かなくなるまで撃ち続けろ』
『ふぁいあぼうる!ふぁいあぼうる!』
倒れないゴブリンにヴァイオレットは無我夢中で何度も攻撃を浴びせた
そして何発目に放ったファイアボールが顔面に直撃したところでゴブリンはようやく倒れ力尽きた
『はぁはぁ……』
『よし、初めてにしては上出来だな。じゃあ次の相手を探しに行くぞ』
『……ない』
『ん?何か言ったか?』
『行かない!もう戦いたくない!なんでこんな怖いことさせるの!?』
ゴブリンのこちらを殺そうとしてくる必死の形相にヴァイオレットは恐怖を覚えてしまった
まだ五歳という年齢でいきなり戦闘をさせるのは酷だとイグニスも重々理解している
だがこうでもしないとヴァイオレットの増幅し続ける魔力がいずれ暴走してしまう
それにこの森で生きていくには最低限戦えるようになっておかなくてはならない
ヴァイオレットが嫌がろうと続けさせなくてはとイグニスは説得を試みようとした
『さっきも言っただろ、これはお前の為であってだな……』
『私の為ならこんな事もうしたくない!お父さんなんてもう嫌い!』
『き、嫌い……だと……!』
ヴァイオレットはイグニスにそう言い捨てるとどこかへ走り去っていってしまった
当のイグニスはというと生まれて初めて愛娘に嫌いと言われたことで精神に大ダメージに負い暫く放心状態に
『グスッ…グスッ…お父さんのバカ……』
ヴァイオレットはイグニスの元を離れた後、とぼとぼと一人森の中を彷徨っていた
しかし普段一人で来たことがない場所まで夢中で走って来たので今自分がどこにいるかも分からずヴァイオレットは不安が募っていった
『ここどこ……?おとうさ……』
お父さんと口にしかけたところで口を噤む
あんな事を言った後で気まずいのとまだ気持ちが整理できていなかった
だが一人でいつまでもこんな場所にいるとまた魔物が出てくるかもしれないと思い、ヴァイオレットは仕方がなくイグニスの元に戻ろうとした
だがその瞬間、突然何者かがヴァイオレットの背後に現れて布で口を押さえつけられる
『うむっ!?』
『ダメだよ嬢ちゃん、こんなところを一人で歩いてちゃ。俺らみたいな悪い人に拐われちゃうよ』
ヴァイオレットの前に現れたのは初めて見る自分と同じ種族の人間
自分よりも大きい人間が数人いて何かを話しかけてきているように見えたが、人の言葉がまだ理解出来ないヴァイオレットにそれは通じなかった
『んー!んー!』
『このだだっ広い森に迷い込んでツイてないと思ったが思いがけねぇ拾い物をしたな。こいつは高く売れそうだ』
『おい、こんなガキが一人なわけがねぇ。どこかに親が近くにいるかもしれねぇから早くヅラかろうぜ』
『あぁ』
男達はヴァイオレットを連れて早々にその場を立ち去ろうとした
しかしその行為はわざわざ竜の逆鱗に触れに行くに等しい
刹那大きな影が上空に現れるとそれは男達の前に立ちはだかった
ヴァイオレットはその姿を見たことで先程まで感じていた恐怖は吹き飛んだ
『むむーむん!』
『貴様等……吾輩の娘を連れ去ろうとは。覚悟はできているのだろうな?』
『は……え……?』
『いや愚問だったな。覚悟が出来ていようといまいと貴様等に待っているのは死のみだ。ヴァイオレット、目を閉じていろ』
『いや……ちょっと……お?』
イグニスに言われた通りヴァイオレットはギュッと目を閉じる
それは僅か数秒の出来事、気づくと男達の声が聞こえなくなりイグニスに目を開けていいと言われゆっくり開けると既にイグニスの手の上にいた
『全く、吾輩の元から離れるなといつも言っていただろ』
『おどんっ……おどうざああん!ごわがっだよおお!!』
安堵したことで緊張の糸が切れたのかヴァイオレットは堰を切ったように泣き出し、イグニスはそれをあやすように優しく頭を撫でた
棲み処に帰ってくるとヴァイオレットは泣き疲れたのかイグニスの背中の上で眠ってしまったので、その日の特訓は中断することに
夜、ヴァイオレットが目を覚ますとそこにはバシリッサが優しく包み込むような形で見守ってくれていた
『起きたみたいね』
『お母さん……』
『気分はどうかしら』
『お腹減った……』
バシリッサの問いにヴァイオレットが空腹だと告げてくる
昼間から何も食べていなかったヴァイオレットは用意しておいたスープを渡されるとゆっくりと胃袋の中へと入れていった
『食欲があるなら大丈夫そうね。明日からまた頑張りましょう』
『……』
その言葉を聞いた途端ヴァイオレットの手が止まる
また今日のように魔物と戦わなくてはいけないと思ったら気が重くなってしまったようだ
『また……魔物と戦わなきゃダメ?』
『ヴァイオレットは戦うの嫌い?』
『だって怖いんだもん……』
『そう……実は私もね、戦うのはそんなに好きじゃないの』
『お母さんも?』
バシリッサはイグニスとは対照的で温和な性格をしており、確かに戦っている姿は一度も見たことがなかった
『えぇ、けれどねヴァイオレット。私でも戦う時があるわ。一つは自分の命を脅かしてくる相手が現れた時、そしてもう一つは大切なもの守る時よ』
『大切なもの……』
『そう。私の場合はあなたよヴァイオレット』
『えへへ』
ヴァイオレットの頭を優しく撫でてあげながらバシリッサは続ける
『ヴァイオレットにもいつかきっと守りたいものができるはず。だからその時の為に今から頑張らなくちゃいけないの。最初は怖いし逃げたくなるわよね、けれどあなたが成長したらその力はきっと役に立つはずよ』
バシリッサの話を聞いてヴァイオレットは幼い身なりに思考を巡らし、暫くしてから口を開いた
『私でも頑張れば強くなれるかな』
『大丈夫、ヴァイオレットなら出来るわ。だって私達の娘ですもの』
『私……もうちょっと頑張ってみる!』
『そうね、お母さんも協力するし応援するわ。あっ、あとイグニスにちゃんと謝りなさい。あなたに嫌いって言われたのが相当ショックだったみたいで落ち込んでるみたいなのよ。イグニスも強引だったかもしれないけど決して悪気があったわけじゃないの』
『うん、私お父さんに謝ってくる!』
バシリッサが間に入ったことでヴァイオレットとイグニスは仲直りすることができ、特訓もどうにか続けさせることができた
そんな出来事が起きた日からあっという間に一年が経過、ヴァイオレットが六歳になる年を迎えた
あれからイグニスとバシリッサの指導の元ヴァイオレットは魔力のコントロールを学び魔物との戦いを頑張った
途中で何度も投げ出しかけたが、その度イグニス達に支えてもらったことでヴァイオレットは一年で見違えるように逞しくなった
『お父さん!見てみて!』
『ほぉキングゴブリンを倒したのか。やるじゃないか』
『周りにゴブリンがたくさんいたけどなんとか倒せた!』
『最近コイツ等が森の生態系を荒らしていたからこれで元通りになるな』
『ねぇゴブリンって食べられる?』
『やめておけ、ゴブリンの肉は固くて食えたもんじゃないぞ』
『でも気になるなぁ。ちょっとだけ試しに食べてみよ』
ヴァイオレットの肉好きは成長すると共に増しており、色んな肉を食べてみたいという衝動に駆られていた
イグニスにも昔そういった過去があったので強く引き止めることはできず、毒があるもの以外は許していた
ゴブリンから食べられそうな部位だけを剥ぎ取りその日の夕飯に早速焼いて食べてみるとヴァイオレットの表情が渋くなる
『うーん……これはちょっと……』
『だから言っただろ。ほら、吾輩の狩ってきた獲物を分けてやる。しかしヴァイオレット、随分と魔法を扱えるようになったな。最初の頃なんて泣いて逃げていたというのに。この調子ならもう少し森の奥に入ってもよさそうだな』
『もっと強い魔物がいるの?』
『この森は奥に進めば進む程強い魔物が出てくるんだ。お前にはいずれ一番奥深くにいる魔物を倒してもらうつもりだ。それが卒業の証となる。まぁまだ当分先の話だがな』
ヴァイオレットも強くなったとはいえまだまだ成長途中、森の奥深くに存在する魔物の相手をするにはもっと力をつけなくてはならない
『その魔物ってお父さんでも倒せないの?』
『馬鹿を言うな、吾輩にかかれば一撃だ』
『やっぱりお父さんは凄いねぇ!どうすればお父さんみたいにもっと強くなれるの?強くなる方法教えてよ』
『どうすれば……?吾輩はひたすら暴れていたら気づけばこうなっていたな』
『えーなにそれー』
『強くなる方法は何も一つではない。ヴァイオレットはヴァイオレットの合った方法でゆっくりと強くなっていけばいい』
『はーい』
それからもヴァイオレットは日々増え続ける魔力を制御しながら魔物との戦いに明け暮れた
そんな生活を送り続けていると気がつけば十年という歳月が経過し、ヴァイオレットは十六歳になった
ヴァイオレットは見目麗しい立派な女性へと成長、そして見た目だけでなく実力の方も大きな成長を遂げていた
『お父さーん!倒してきたよー!』
満面の笑みを浮かべながらイグニスに向かって手を振ってくるヴァイオレット
今日は森の最奥部に潜んでいる魔物、エンシェントプラントに挑戦しに行っていた
以前話していたこの特訓の卒業条件、それがこのエンシェントプラントである
ヴァイオレットはその魔物を見事に倒しイグニスの元へと帰ってきた
『うむ、吾輩も上空で様子を見ていたぞ。これで今日をもって鍛錬は終了だ。今日までよく頑張ったなヴァイオレット』
『なんだか終わってみると少し寂しいね』
ヴァイオレットの現在の魔力総量は十年前とは比べ物にならない程上がっている
それをしっかりと暴走させずにコントロールできているのはヴァイオレット自身の努力とイグニスとバシリッサの助けがあってこそ
未だ魔力は上がり続けているが、今のヴァイオレットであれば問題なく制御できるだろうとイグニス達も判断している
エンシェントプラントを倒し棲み処に帰ってくるとバシリッサが料理を作って待っていた
『お疲れ様ヴァイオレット、よく頑張ったわね』
『ありがとうお母さん。わぁ……!凄いご馳走!』
『今日はあなたの好きな物ばかり作ったわ。たくさん食べなさい』
『やったー!いただきまーす!ん~♪うまうまぁ♪』
背丈は伸び女性らしい体つきに成長し随分と見た目は変わったが、食事をしている時の美味しそうに食べる表情だけは小さい頃から全く変わっていなかった
『ヴァイオレット、何か欲しいものはあるか』
『欲しいもの?』
『これまで頑張ってきたご褒美よ』
『ご褒美かぁ』
ヴァイオレットは少し考える素振りを見せると口ごもりながらイグニス達に希望を告げてきた
『えっと、物とかじゃないんだけど……私、前から学校に通ってみたいかなって思ってたんだ』
『学校……?確か人間の子供が通う教育の場だったか。どうしてそこに行きたいんだ?』
『私ね、学校に行って友達を作りたいんだ』
今までイグニスやバシリッサがいてくれたお陰で寂しさを感じることはなかった
だが二人はあくまで親であり友人とはまた違う
同年代の人間と友達になるには学校に行くのが一番だと、以前バシリッサから聞かされた時からヴァイオレット気になっていたのだ
ヴァイオレットの想いを初めて耳にしたイグニスは突然のことにあわあわしている
その様子を見てバシリッサが代わりに尋ねてきた
『ヴァイオレット、人の地に行くというのなら私達はついて行くことはできないわ。何かあっても自分一人の力でどうにかしなくてはいけないけれどそれでも学校に行きたい?』
バシリッサの問いにヴァイオレットは悩む素振りを見せず頷く
その目から強い意志を感じたのでそれ以上言及することはなかった
『分かったわ、学校に行くことを許可しましょう』
『おい!』
『イグニス、この子も独り立ちする時が来たのよ。親であるなら背中を押してあげるべきじゃない?』
バシリッサの言葉を受けたイグニスは反論できず暫し逡巡し、そしてようやくヴァイオレットと離れる決心がつきイグニスも学校に行くことを許してくれた
『分かった……学校で友達とやらを沢山作ってこい』
『お父さんお母さん……ありがとう!』
『そうとなったらちゃんとした名が必要だな』
『名前?もうヴァイオレットって名前があるじゃん』
『人間には名前の他に姓というものがある。それは家族の一員だという事を意味するらしい。そうだな、カラミティ……ヴァイオレット・カラミティアなんてのはどうだ』
『物騒な名前ね』
『ヴァイオレット・カラミティア……なんかかっこいい!じゃあお父さんはイグニ・カラミティアでお母さんはバシリッサ・カラミティアになるね!だって家族なんだから!』
『ふっそうだな』
こうしてヴァイオレットに姓が与えられ人の地で暮らすことが決まった
持っていく荷物の整理等を淡々と済ませていき、その姿をイグニス達がひっそりと見守っているとあっという間に別れの日はやってくる
『金の使い方は大丈夫か?』
『大丈夫だよ、お母さんに教えてもらったし練習もしたから』
『体調には気をつけるんだぞ。小さい頃はよく風邪を引いていたからな』
『もう心配しすぎだよお父さん』
十六年、ヴァイオレットを育てることに尽力してきたイグニスは愛娘がいくら強くなろうと自分から離れようとしているのがやはり心配で仕方がなかった
だがここで引き止めてしまえば娘の未来を狭める行為であることは理解している
イグニスに今出来ることは笑顔で送り出すことだけだ
『ヴァイオレット、これを持っていけ』
イグニスが渡して来たのは自身の爪の先に紐が通されたネックレスのようなものだった
『なにこれ?』
『お守りのようなものだ。肌身離さず持っているんだぞ』
『分かった、ありがとうお父さん』
『ヴァイオレット、こっちへ』
バシリッサに言われ近くまで行ってみるとヴァイオレットを抱き締めてきた
優しく暖かい抱擁、自然と心が安らいでいった
『私達はいつでもあなたの事を想っているからね。笑顔が素敵なあなたならきっといいお友達ができるわよ』
『ありがとうお母さん……お父さんも!ギュー!』
『うぉっ!や、やめろこっぱずかしい。吾輩に抱きついても気持ちよくもないだろう』
『そんなことないよ』
バシリッサとの抱擁を見ていたイグニスに対してもヴァイオレットは力強い抱擁をした
バシリッサと違いゴツゴツとしていて硬い鱗の皮膚、けれどずっと自分を守ってきてくれたこの硬い体がヴァイオレットは大好きだった
『いつでも帰ってきてよいのだからな。吾輩はずっとここにいるから土産話でも聞かせに来てくれ』
『うん……じゃあ二人共、行ってきます!』
そう言うとヴァイオレットは姿が見えなくなるまで二人に手を振り続けながら去っていった
ヴァイオレットの姿が見えなくなった途端、イグニスの目から我慢していたものが溢れ出してきた
『ヴァイオレット……うぅ……』
『あなた本当に涙脆くなったわね』
『貴様も泣いておるだろうが』
『ふふっ、そうね』
斯くして二頭の竜の元を離れて人の地へと踏み出したヴァイオレット
これは様々な苦難を乗り越え彼女が一国の主となり民を導くまでのプロローグに過ぎない
ご拝読頂きありがとうございます
こちら連載中のものを短編として投稿させて頂きました
この話の続きを毎日投稿しているので、もしよければそちらも読んで頂けたら幸いです!