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リゼットは、教科書から顔を上げて、窓の外を見つめた。
いつもなら授業中の時間だったが、今日は教師の都合で自習になっていた。
他の生徒たちは、友人同士でおしゃべりをしている。リゼットには話す相手もいないので、自習をしていた。けれど、ふとした瞬間にこの間のことを思い出して、溜息をついてしまう。
レオンスに「いないもの」として扱われてから、もう中庭には行っていない。
あれほど嫌われてしまったのだから、もう何を言っても無駄だとわかってしまった。
きっとレオンスとリゼットの婚約は解消され、マリーゼと婚約を結び直すのだろう。
この婚約はオフレ公爵家と王家の間で交わされたものであり、リゼット個人ではないのだから。
婚約を結んでくれた父はもうおらず、後見人で公爵代理の叔父は、レオンスがマリーゼを望めば、喜んで承諾するだろう。
そうなれば、オフレ公爵家はレオンスとマリーゼが継ぐ。
理不尽だと思うが、リゼットも、もうレオンスとの結婚を熱望する気持ちはなくなっていた。
こちらの話を聞こうともせず、一方的に責めたてる人と結婚しても、しあわせになれるとは思えない。
しかも、レオンスはマリーゼに惹かれている。
(だとしたら、これから先のことを考えないと……)
学園を卒業したら、屋敷から追い出されるかもしれない。
修道院に入れられてしまう可能性もある。
でも一年間、この学園寮で生活してきたので、以前ほどの絶望感はない。
ある程度なら料理もできるし、掃除などもやったことがある。
それに、学ぶことも楽しかった。
これから先の人生に役立つかもしれないから、学園にいる間は、精一杯勉強をして、もっと知識を身につけようと思う。
授業が終わり、リゼットは誰よりも先に教室から出ると、そのまま寮に戻ろうとした。
けれど、ふと思い立ち、いつもとは逆の方向に歩き出した。
学園に入学して一年が経過して、最近は時間にも少し余裕が持てるようになってきた。
そこで学園寮にある図書室に通い、色んなジャンルの本を読んでいたのだが、もうほとんど読みつくしてしまった。
だから、学園にある図書室に行ってみようと思ったのだ。
(ほとんど人がいない様子だったから、きっと静かだわ)
一年生だった頃も、何度か中の様子を眺めてみたが、ひとりかふたり、静かに本を読んでいるだけだった。
寮内の図書館も、いつも人がいない。
皆貴族なのだから、わざわざ図書室で本を借りなくとも、欲しければ自分で手に入れるのだろう。
(先生が、昔は貴族専門の学園じゃなくて、優秀な人であれば身分問わず入学できたと言っていた。だから図書館は、その名残ね)
本を買う余裕のないリゼットには、とても有難いことだ。
そんなことを考えながら、そっと図書室の扉を開く。
「あっ」
図書室に入ったリゼットは、先客がいることに気が付いて足を止めた。
入口からよく見える場所には広い机と複数の椅子が置いてあり、そこにひとりの男性が座っていた。
(……留学生?)
本を開いている彼は、この国ではとても珍しい容姿をしていた。
煌めく美しい銀髪に、青い瞳。白い肌をしている彼は、ユーア帝国の出身だと思われる。
(ユーア帝国からこの国に留学に来るなんて)
ここ一年間で、リゼットもたくさんの本からこの国の情勢、そして他国の状況を知った。
キニーダ王国とは古くからの友好国ではあるが、ユーア帝国はかなりの大国だ。学問も軍事力も上回る帝国から、この国に留学に来る者などいないだろう。
どうやら他に人はいないようだが、図書室に入っても良いかどうか迷っていると、気配を感じたのか、ふいに彼が顔を上げる。
青い瞳で射貫くように見つめられて、思わず息を呑む。
彼は、レオンスを見慣れているリゼットでも見惚れてしまうほど、整った容姿をしていた。
それなのにこちらに向けられていた瞳は鋭く、昏い陰がある。
どうしたらいいかわからずに立ち尽くすリゼットから、彼は忌々しそうに視線を逸らした。
「……っ」
リゼットは身を翻して、その視線から図書室から逃げ出した。
異母妹を虐める性格の悪い公爵令嬢が、とうとう婚約者の第二王子殿下から拒絶された。
婚約破棄も時間の問題だろうという噂が、学園内に広がっている。
きっとあの男性もその噂を聞いて、リゼットのことを疎ましく思っているのかもしれない。
誰もいない場所まで来て、ほっと息を吐く。
けれど少し落ち着いてみると、何も逃げることはなかったのではないかと思う。
リゼットは何も悪いことはしていない。
疚しいこともしていない。
ただ学園内にある図書室に行って、本を読もうと思っただけだ。学生ならば、誰だって図書室を使うことが許されるのだから。
「学園にはきっと、寮とは比べものにならないくらいたくさんの本があるはず。自分のためにも、もっと知識を身につけないと」
明日もまた、図書室に行ってみよう。
そう決意した。
それから何度か図書室に行ってみた。
けれど、いつも銀色の髪をした彼がいて、リゼットを見ると険しい顔をする。
それを見ると、あんなに決意をしたにも関わらず怯んでしまい、図書室に入らずに帰ってしまうことが続いた。
図書室はとても広いのだから、中にさえ入ってしまえばいい。そうわかっているのに、どうしても足を踏み入れることができない。
あのすべてを拒絶するような、冷酷な瞳が恐ろしかった。
そんなことを繰り返していた、ある日。
授業が終わったあと、リゼットはまた図書室に向かっていた。
今日は授業が、いつもよりも早く終わったのだ。この時間なら、あの男性よりも先に図書室に入ることができるかもしれない。
そう思って急いでいると、図書室の前に誰かが立っているのが見えた。
(あ……)
また、あの銀髪の男性だろうか。
そう思って一度は足を止めたが、姿がはっきりと見える位置まで来ると、それがひとりの騎士であることに気が付いた。
(騎士が、どうして学園に?)
学園は警備兵によって厳重に見守られているので、たとえ王族であるレオンスが通っていても、騎士が警護することはないはずだ。
それなのに、どうしてここに騎士がいるのだろうか。
背が高く、漆黒の髪をした騎士は、リゼットが近寄ってきたことに気が付くと、警戒するようにこちらを見た。
「最近、この辺りをうろついていたのは、君か?」
「え?」
「ここで何をしている?」
「……っ」
強い口調ではないが、自分よりも大柄な騎士に静かに問い質されて、思わずびくりと身体を震わせる。
図書館に来る目的など、ひとつだけだ。
(私は本が読みたいだけなのに……)
よく見ると、彼の騎士服は近衛騎士隊のものだ。
家庭教師をつけてもらえなかったリゼットは、このキニーダ王国のことさえ、本から学んだ。
その本に、騎士の種類と制服が書かれていた。
あの本が正しいのならば、彼は王家に仕える騎士なのだろう。