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「レオンス様」
だが、リゼットの声が聞こえているだろうに、レオンスは無視して立ち去ろうとしている。
リゼットは思わず、そんなふたりの前に立った。
進路を遮ったリゼットを、レオンスは忌々しそうに睨む。
「何のつもりだ」
いつも面倒そうではあったが、こんなに冷たい声で言われたことはなかった。
「あ、あの……」
思わず身を竦ませるリゼットを、レオンスは突き飛ばした。
「邪魔だ」
「あっ」
少し体力がついてきたとはいえ、男性に力一杯突き飛ばされて、留まれるはずもない。無様に地面に転がったリゼットに、マリーゼが駆け寄る。
「ああ、お姉さま」
優しいのは、その声だけ。
マリーゼはひどく歪んだ顔で、リゼットを見下ろした。
「無様ね。学園でも、嫌われていると聞いたわ」
周囲に聞こえないように小声で、けれど深い憎しみをこめて、マリーゼは言う。
「わたしとお母さまから、お父さまを奪うからよ。あなたを愛する人なんて誰もいない。もしいたとしても、わたしが全部奪ってやるわ。絶対に、許さないから」
「……っ」
強い憎しみをぶつけられて、身が竦む。
マリーゼは、実の父の愛を知らずに育った。
どんなに義母や叔父に愛されても、大勢の友人に囲まれていても、その心は満たされなかったのだろうか。
そして、父の愛を当たり前のように受けていたリゼットを、これほどまでに憎んでいる。
「お前は優しい女だな。だが、そんなものは放っておけ」
「……はい」
マリーゼは心配そうな表情でリゼットの傍を離れると、そのままレオンスに手を取られて中庭を出ていく。
ひとり残されたリゼットは、ただ茫然とその光景を見つめていた。
レオンスの蔑むような視線が、マリーゼの憎悪の言葉が、胸に深く突き刺さる。
異母妹と義母の存在を知らなかったリゼットにとっては、マリーゼこそが何もかも奪った相手だ。
けれどマリーゼが悪いかというと、そうとも言い切れない。
苦労して育ったというマリーゼは、公爵令嬢として生きてきたリゼットを見て、異母姉妹なのにどうしてこんなに違っていたのかと、リゼットを恨み、憎んだことだろう。
その憎しみはマリーゼのもので、どんなに理不尽だと思っても、リゼットが否定することはできない。
(でも……)
ここまで憎まれているとは、思わなかった。
周囲の人たちは、婚約者に捨てられたリゼットを嘲笑っている。
みっともなく縋ったことも、マリーゼがそんなリゼットに駆け寄ったことも、明日には誰も知らない者がいないくらい、大きく広がっていくのだろう。
それでも立ち上がることができなくて、リゼットはそのまま座り込んでいた。
翌日には、リゼットの悪評は学園中に広がっていた。
もともと浮いていたところに、あんなに大勢の前でレオンスに罵倒されたのだ。
この婚約は王命であり、普通であれば、簡単に破棄することはできない。
レオンスは、オフレ公爵家を継ぐ予定である。
けれど、その相手がリゼットでなくとも構わない。
オフレ公爵家には、もうひとり娘がいるのだから。
彼女たちはそう囁いた。
もしかしたらそうなるかもしれないと、リゼットもぼんやりとそう思う。
愛らしく優しいマリーゼは、たちまち学園で人気となった。
大勢の人たちが彼女に群がり、その容姿を、優しい人柄を褒める。
マリーゼは謙遜しながらも、嬉しそうに微笑んでいた。
そんなマリーゼを、レオンスは毎日のように呼び出していた。
特に中庭にあるテラスで、マリーゼと話すのが好きらしい。今日も護衛を連れて、中庭でマリーゼと寛いだ時間を過ごしていた。
(レオンス様……)
リゼットは、そんなレオンスと話がしたくて、中庭に通っていた。
茶会の連絡も、贈り物も、何ひとつリゼットに届いていない。それをきちんと話せば、きっとレオンスはわかってくれる。
初対面のとき、自分の失言を謝罪してくれたレオンスならば。
けれど、彼と話をすることはできなかった。
話しかけても、レオンスは聞こえなかったように振舞う。そしてリゼットの存在など無視して、マリーゼと楽しく語らっている。
「しかし連絡しておいたにも関わらず、肝心の婚約者が不在とは、あのときは驚いたな」
「……あのときは、本当に申し訳ございませんでした。このままお返ししては非礼を重ねることになると、母が言うものですから。わたしが姉の代わりに、お相手をさせていただきました」
「なるほど。たしかにあのまま追い返されていたら、ますます機嫌を損ねていたぞ。お前の母は、なかなか気の利く女性だ」
「恐れ多いことでございます」
レオンスと話がしたくて立っていることを知っているだろうに、ふたりはリゼットの存在など忘れたように、その失態を語る。
レオンスとマリーゼを引き合わせたのは、どうやら叔父ではなく義母だったようだ。
それが何度も繰り返されるうちに、レオンスはすっかりマリーゼを気に入ってしまったのだろう。
それもマリーゼが、レオンスが好む、控えめで従順な女性を演じているからだ。しかもリゼットと違って、マリーゼはとても愛らしい。
「そうだ。今度、お前にドレスを贈ろう」
「え?」
マリーゼは嬉しそうに目を輝かせたが、それから狼狽えたように視線を彷徨わせる。
「とても嬉しいです。ですが、レオンス様はお姉さまの……」
「気にせずとも良い。どうせ向こうに贈っても、今までと同じように放置したままだろう」
そんな話をして笑い合ったあと、ふたりは立ち上がる。
そろそろ午後の授業が始まる時間だ。
「あ、あの。レオンス様」
マリーゼは遠慮がちに声を掛けて、立ち尽くすリゼットを見た。
「どうした、マリーゼ」
リゼットがいることなど知っているのに、レオンスは何も知らないふりをする。
「申し訳ございません。お姉さまがかわいそうで……。せめて、一言だけでも」
「何を言っているんだ、マリーゼ」
レオンスは、皮肉そうに笑う。
「そこには、誰もいないだろう」
その冷たい一言が、リゼットの心に突き刺さる。
話せばわかってくれると思っていた。
けれどレオンスにとって、リゼットはもう見る価値もないものらしい。
立ち去るふたりを、呆然と見つめることしかできなかった。
しかもそれから、中庭でその様子を見ていた者達が、レオンスのようにリゼットの存在を無視するようになったのだ。
「そこには誰もおりませんわね」
「誰もいないよな」
侮蔑の表情を浮かべてそう言う彼らに何も言い返せず、リゼットは静かにその場を立ち去るのが常だった。
(間違ったのは、私……)
学園なら、屋敷からも通える距離だ。
馬車を出してもらうことはできないかもしれないが、徒歩でも行ける距離である。
リゼットは、どんなにつらくともあの屋敷を出てはいけなかったのだ。
そうすれば、どんなにマリーゼがリゼットを憎く思っていても、義母がレオンスとマリーゼを接近させようとしても、どうにもならなかった。
それに、レオンスはリゼットの言い分を聞こうともせず、一方的に責めた。
邪魔だと言って突き飛ばし、存在を無視する。
さらに周囲を煽ってリゼットを孤立させ、その様子を楽しんでさえいる。
さすがにレオンスとの婚約を大切にしていたリゼットも、このまま彼と婚約していたいとは思えない。
きっと初対面の顔合わせのときに謝ってくれたのも、国王に叱られて、しぶしぶ謝罪してくれたのかもしれない。
レオンスと結婚し、オフレ公爵家を叔父から取り戻したかった。
けれど、もうそれは不可能かもしれない。
これから先、どうするべきか。
リゼットは、静かに考えを巡らせていた。