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けれど、新しい生活は思っていたよりも順調ではなかった。
いくらメイドとして働いたことがあるとはいえ、リゼットは公爵家の令嬢である。
毎日、自分で部屋を掃除して、食事の支度まですると、さすがに疲れ果ててしまう。
この生活に慣れるまではまったく余裕がなく、そのせいで、友人を作る機会を逃してしまったようだ。
もともと学園に入る前に、お茶会などを開催して交流していた者がほとんどだ。
リゼットのように知り合いがひとりもいないのなら、自分から積極的に声を掛けなくてはならなかったのだ。
でも気が付いたときにはグループができていて、リゼットはクラスで浮いた存在になってしまっていた。
さらに招待されたお茶会を叔父が勝手に断っていたことや、リゼットがその身分にふさわしくない姿をしていたこともその理由だ。
いくら自分で必死に整えていたとはいえ、生まれたときから大切に育てられた令嬢たちとは、見た目の違いが出てしまう。
満足に食事も与えられなかったので、身体は酷く痩せている。
清潔に保ってはいたが、髪にも肌にも艶がない。
下手をすれば、寮で目にする他家のメイドの方が美しい容姿をしているくらいだ。
そんな様子を見て、オフレ公爵家でリゼットは大切にされていないとわかってしまったのだろう。
気が付けば、屋敷にいたときと同じような状態になっていた。
すれ違いに、くすくすと笑われる。
聞こえるように、陰口を言われる。
そんなことをする者たちは、とくにリゼットがレオンスの婚約者であることが気に入らないようだ。あんな女がレオンス様の婚約者だなんてと言われることが、一番多かった。
寮の部屋に戻ったリゼットは、鏡を見て溜息をつく。
綺麗に整えてはいるが、艶のない黒髪。
青白く、痩せた頬。
たしかに、輝くばかりに美しいレオンスの隣に、こんなにやつれた容貌のリゼットはふさわしくない。
(たしかに、言われても仕方がないのかもしれない。何とかしなくては)
学園で友人がひとりもいないことや、陰口を言われることは、それほどつらくなかった。
孤独はもうすっかりこの身に馴染み、もう日常のようなものだ。
けれどレオンスに見捨てられるかもしれないのは、さすがに怖い。
リゼットに残されたのはもう、レオンスとの婚約だけなのだ。
それから毎日。
学園の授業が終わると、すぐに学園寮に戻り、寮内にある図書室に向かう。
寮生活にも慣れてきたところだったので、少しでもこの生活を改善させなくてはならない。
(まず、食事よね。栄養のあるものを食べて、体力をつけないと)
図書室には色々なジャンルの本があって、料理や栄養学の本もあった。
それを借りて部屋に戻り、一生懸命勉強をした。
料理も少しずつ上達はしていたが、やはり学園寮で販売されている食材はかなり上等なもので、割高だ。
まだ失敗が多く、資金も限られているので、ここは少しでも節約したい。
「どうしようかな……」
他家のメイドたちをそれとなく観察すると、彼女たちは、たまに主の命令で外に出て買い物をしているようだ。
だから学園が終わったあと、思い切ってメイド服を着て町に出てみることにした。
下町に行くほど安いらしいが、治安も良くないらしく、さすがにそこまで行く勇気はない。
大通りの商店街に行くのがやっとだった。
それでも寮で販売されている食材よりも、かなり安く手に入れることができた。
出かけるまでは少し怖かったが、町の人達は、今まで会ったどんな人たちよりも、親切で優しかった。
瘦せ細ったリゼットを心配して、おまけをくれる人もいた。
簡単でおいしい料理の作り方を教えてくれる人もいた。
リゼットが公爵令嬢だと知らない人たちの方が、親切で優しい。
屋敷にいるよりも学園にいるよりも、町にいるときの方が、心が安らいだ。
色々な人に教えてもらったこともあり、料理も少しずつ上達している。
町で本を見て、栄養バランスを考えながら料理をしているとき、考えるのは亡き父のことだった。
父は、ある日突然倒れて、それからすっかり身体が弱り、最後にはほとんど寝たきりになってしまった。
母が亡くなってから、その喪失を埋めるように仕事に没頭していたので、疲れが溜まっていたのかもしれない。
優しい父だったが、リゼットでは父の悲しみを癒すことはできなかったのだろう。
今思えば倒れる前も、少しずつ異変はあった。
随分と、肌が青白かった。
頻繁に眩暈がする様子だった。
目が見えにくいと口にしていた。
リゼットと一緒に食事をすることがなくなった。
ほとんど食べていなかったのかもしれない。
主治医は過労としか言わなかったが、もっと重い病気を患っていた可能性がある。
何度も薬を変えて何とか回復させようとしていた様子だったが、弱った父の身体はもう、薬さえも受け付けなかった。
あまりにも身体が弱ると、身体を回復させるための薬さえも、負担になる。
リゼットは、いかに食事が大切なものか思い知った。
だからこそ少ない資金で栄養のある食事をするには、手間をかけるしかないと悟った。
町の人たちに教えてもらった節約方法で、固い肉でも柔らかくなるまで煮込めば栄養のあるスープになること。残り物のパンでも、調理すればおいしくなることを知った。
そしてきちんと食事をするようになると、体調が悪くなる日が減り、疲労が翌日まで残ることがなくなった。
「……お父様にも作って差し上げたかった」
自分で用意した食事を並べながら、リゼットはぽつりとそう呟く。
今日のメニューは牛肉を煮込んだシチューに、温め直したパン。そして野菜のサラダにフルーツジュースだ。
弱った父には食事も苦痛の様子で、どんなに料理長が食べやすく工夫しても拒んでいたが、リゼットが作れば食べてくれただろう。
母に向けるほどではなかったかもしれないけれど、父はリゼットを愛してくれていた。その愛を疑ったことは一度もない。
最初は少量で、消化の良いものから少しずつ食事の量を増やしていけば、体力も回復したかもしれない。
体力が回復すれば、薬も効いただろう。
(ああ、でもお父様はもういないのね)
父に作る料理を考えていたリゼットは、ふいに現実に引き戻された。
どんなに後悔しても、過去には戻れない。
それがわかっているのに、願ってしまう。
リゼットは亡き父を思い出して、ひとりで涙を零した。