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「エクトル様」
声を掛けると、本から顔を上げたエクトルは、リゼットの姿を見つけて笑みを浮かべた。
短くなってしまったリゼットの髪を、そっと撫でる。
マリーゼの手の者に襲われたとき、リゼットは髪の一部を切られてしまった。
どうせなら綺麗に伸ばしたいからと、髪は肩あたりで揃えたので、以前よりはかなり短くなっている。
エクトルはそれを気にしているのか、よくこうしてリゼットの髪を撫でてくれた。
「短い髪は、嫌いですか?」
髪を撫でるエクトルが少し悲しそうに見えて、リゼットはあえて明るくそう尋ねた。
「いや、とても可愛いと思う」
そう言って、エクトルも微笑んだ。
「ただ、守れなかったことが悔しいだけだ」
「エクトル様は、ちゃんと私を守ってくださいました」
何度言っても納得してくれないが、リゼットも何度だって言うつもりだった。
あれはリゼットを殺すために計画された襲撃で、慣れた町だったとはいえ、警戒もせずに少女についていった自分が一番悪い。
そのためにエクトルに負傷させ、完全に回復するまで、かなりの日にちを費やすことになってしまった。
あれから、少しでも傍を離れるときは、エクトルにひとこと言うことにしている。
それにアリアが言うには、ユーア帝国では髪の短い女性もたくさんいるらしい。
女性ならば美しく長い髪が理想とされている。この国との違いをまたひとつ、見つけ出した。
「それに、一年後の結婚式には伸びるだろう」
「……結婚式」
あのユーア帝国の皇太子妃になるのかと思うと、まだまだ勉強が必要だと思ってしまう。
「私で、本当によかったのでしょうか」
「もちろんだ」
そう言って、エクトルは優しく笑う。
「異母兄と義母に裏切られ、誰も信じられなくなっていた俺が婚約したことを、父はとても喜んでいる」
そう言って、しばらく沈黙したエクトルは、異母兄と義母のことを話してくれた。
「義母は父の側妃だったが、もともとは皇妃候補だったらしい。それが政治的な理由で、俺の母が皇妃になった」
政治なもので、どちらかを愛していたというわけではなく、エクトルの父にとっては、どちらも政略結婚だったらしい。
「父も母もそれを望んでいたわけではない。だが義母はそれを、ずっと恨んでいたようだ。もし俺と母がいなかったら、義母は皇妃で、兄は皇太子になっていた」
恨んでいたのなら、いっそ憎いと言ってほしかったと、エクトルは悲しげに言う。
エクトルの母が亡くなってからは、むしろ本当の母のように、エクトルを大切にしてくれていたらしい。
その言葉に、リゼットはマリーゼの憎しみを思い出す。
たしかにマリーゼがリゼットを姉として慕ってくれて、仲の良い姉妹のように暮らしていたら、もっと裏切りがつらくなっていただろう。
エクトルの異母兄と義母は、彼をより深く傷つけるためにそうしたのだろうか。
マリーゼは、最後にリゼットに何を言おうとしたのだろう。
リゼットが覚えているのは、マリーゼをリゼットの視界から追い出し、声も聞かせないようにしてくれた、エクトルの微笑みだけだ。
マリーゼが最後に何を言ったのかは、どんなに頼んでも教えてもらえなかった。
でも、誰も教えてくれないほどの言葉だったに違いない。
だとしたら、もし聞いてしまっていたら、二度と忘れられなくなっていたに違いない。
「あの、今おふたりは……」
「ふたりとも、亡くなった。もうどこにもいない」
それは、罪を裁かれた結果なのか。
それともすべてが露見したことを悟って、自ら幕引きをしたのかわからない。
けれど、憎しみだけを残して彼を置き去りにしたことだけはたしかだった。
罪が裁かれ、父の名誉も回復したリゼットとは違って、エクトルはこれから先もずっと、優しくて尊敬していた兄が、心の底では殺したいほど自分を憎んでいたことを思い出すのだろう。
リゼットは彼の背中に手を回して、思い切り抱きしめた。
エクトルがマリーゼの呪詛から守ってくれたように、リゼットも、今もまだ残るエクトルの異母兄の悪意から、エクトルを守りたい。
「私はユーア帝国に嫁ぎます。あなたの新しい家族になりたい。そして、しあわせになりたい。皇太子妃になるにはまだ実力不足かもしれないけれど、エクトル様の傍にいられるように、精一杯がんばります」
リゼットは、皇妃の器ではないのかもしれない。
でもこれからも努力をし続けること。
そしてエクトルを愛し続けることだけは、けっしてやめないと誓う。
「……リゼット。ありがとう。君がいてくれるのなら、何でもできそうだ。これからもずっと、一緒に生きていこう」
二度目のプロポーズに、リゼットは笑顔で頷いた。
試験はもちろん合格していて、リゼットは進学することができた。
学園はもう冬季休暇になり、移住するための準備で忙しくなった。
一度はユーア帝国に帰ったアリアも再びこの国を訪れて、オフレ公爵家だった領地のことを学び、向こうの領地のことを、リゼットに教えてくれる。
エクトルは手を尽くして、叔父たちに売り払われたものをなるべく買い戻してくれた。
母の形見の首飾りがひとつだけ手元に戻り、リゼットは涙を流しながらエクトルに抱きついて、何度も礼を言った。
町の人たちにも、今度は護衛をたくさん連れて会いに行った。
あの襲撃事件に巻き込まれて怪我をした人はいなかったらしく、あの少女も母親と一緒に保護施設に入れてもらえたらしい。
少女は暗殺者に母親の命を盾に脅されていたらしく、それほど罪には問われなかったようだ。
それを聞いて、ほっとする。
リゼットがあのとき庇ってくれた人と結婚するためにユーア帝国に向かうことを告げると、とても喜んでくれて、少し寂しがりながらもしあわせを祈ってくれた。
優しい人たちに出会えて、とても幸運だったと思う。
移住のための手続きや、オフレ公爵家の領地を王家に返還する手続きなど、やることはたくさんあった。
アリアからも、できるだけ多くのことを学びたい。
あまりにも忙しく動いているせいで、エクトルが心配するくらいだ。
けれど、メイドとして働いた経験もあるリゼットは、思っていたよりも体力があるようで、そう簡単に疲れたりはしなかった。




