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他国に嫁入りするのだから、仕方のないことだ。
そんなふうに理解はしていても、大切にしてきた領地が人手に渡るのは、やはり少しやるせないのだろう。
「私の領地は、エクトルの妻……。つまり、ユーア帝国の皇妃に与えられることになっているの。だから、あなたに引き継いでもらえたらと思って」
「……えっ」
ずっと大切にしていた領地を手放さなくてはならない、彼女の心情を思いやっていたリゼットは、突然の言葉に驚いて、思わず声を上げてしまった。
「私? 皇妃って……」
動揺してしまい、危うく紅茶のカップを取り落としそうになった。
アリアは、エクトルがリゼットに婚約を申し込んでくれたことを、知っているのだろうか。
「私はこの国に嫁いでからも、領地の運営をしたいと思っているの。この国では、唯一王妃が、王領の運営に携わることができるわ」
慌てるリゼットに、アリアは理由を説明してくれる。
けれど今までの王領はすでに管理人がいて、今さらアリアが介入することはできない。
王家があらたに王領を得るか、管理人が引退するのを待つしかない状況だった。
「でも、今は王家預かりになっている、とても大きな領地があると聞いたの。そう、あなたの領地よ」
アリアは、自分が治めてきた領地をリゼットに。
そして、オフレ公爵家の領地を王領として、いずれ王妃となるアリアが治めたいと、そう言ってくれているのだ。
「もちろん、あなたの気持ちが最優先よ。ただ、あなたもエクトルに惹かれているような気がするの」
「……そうです」
ここは隠すべきではないと、リゼットは真面目に答えた。
「私はエクトル様が好きです。エクトル様も、一緒にユーア帝国に行こうと言ってくださいました」
「そうだったの。エクトルったら、もう告白までしていたのね」
アリアが困ったように笑った。
「はい。でもオフレ公爵家のことが心配で、保留にしてもらっていました」
彼女としてみれば、エクトルから思いを告げられる前に、こうすることもできるという可能性を提示して、リゼットが悩まなくても良いようにしたかったらしい。
たしかにこのことを事前に知っていたら、すぐにエクトルに一緒に行くと告げていたのかもしれない。
でもここ数日、領地について真剣に悩んだ日々は、きっと無駄にはならない。
そう信じている。
その上で思うのは、アリアが王領として納めてくれるのならば、領民にとっても良いのではないかということだ。
今回の叔父の事件のせいで、オフレ公爵家の名は失墜している。ここから信頼と利益を取り戻すのは、相当大変だろうと覚悟を決めていた。
でも正式に王領となれば、今までの悪評はすべて消える。
ユーア帝国から嫁いできた、美しい王太子妃が治める領地になれば、爵位目当てのリゼットの夫が継ぐよりも、遥かに良いことではないのだろうか。
しかも彼女はすでに、領地の運営に関して熟知している。
とても良い提案な気がしたが、リゼットにはまだ、領地の運営に関しての知識がない。
しかも、ユーア帝国についても勉強し始めたばかりだ。
「私では、せっかくアリア様が大切にしていた領地を、きちんと治めることができないのではと心配です」
「それなら、心配はいらないわ」
アリアは優しくそう言ってくれた。
「すべては組織化されていて、優秀な配下もたくさんいる。彼らに学びながら少しずつ覚えて行けば、ユーア帝国についても、より深く知ることができる。エクトルと婚約すれば、いずれ皇妃にならなくてはならないけれど、皇太子妃であるうちに、領地で学べることも多いはずよ」
アリアは提案といいながら、リゼットの問題をすべて解決してくれようとしている。
自分の領地の心配のように聞こえるが、他国出身のリゼットが、領地を通してユーア帝国について深く知ることができるように考慮してくれている。
さらに、オフレ公爵の領地のことを心配しているリゼットに、自領地を治めてきた経験がある自分が引き受けるから大丈夫だと、そう伝えてくれている。
「……ありがとうございます」
リゼットは、そんなアリアの優しさと気遣いに深く感謝して、頭を下げた。
この件についてはゼフィールにも相談したが、叔父は相当ひどい領地運営をしていたらしく、領民の中にはオフレ公爵家を恨んでいる者もいるらしい。
それを聞くと、王領にして、新しいスタートを切ったほうがいいのではないかと思う。
リゼットの決意も固まってきた。
メイドとして傍にいてくれるマーガレットも、よく相談に乗ってくれた。
やはりエクトルと離れることなど、耐えられそうにない。
彼の隣に立つには、色々と不足しているのかもしれない。
でも常に努力を怠るつもりはないし、エクトルの身体も気遣って、一緒に生きていけたらと思う。
リゼットは学園の図書室で、エクトルに自分の気持ちを伝える。
「エクトル様。私はまだまだ未熟で、役に立てないかもしれないけれど、これから先、ずっとエクトル様と一緒に生きることができたらと、思います」
そう答えると、エクトルはリゼットを抱きしめてくれた。
「すまない。君には、つらい決断を強いてしまった」
「私なら大丈夫です。得たものもたくさんありますから。これから少しずつ、ユーア帝国について勉強していけたらと思います」
仮にも、皇太子の婚約である。
正式な婚約は、ユーア帝国に移住し、正式な契約書を交わしてからだ。
ユーア帝国の皇帝の許可は必要なのではないかと不安に思ったが、驚いたことにエクトルはすでに許可を得ていた。
リゼットに告白し、承知してもらったあとでは、万が一皇帝が反対したときに、リゼットにつらい思いをさせてしまう。
そのことを考えてくれて、先に皇帝の許可を得てくれていたのだ。
「ほとんど死んでいたような俺が、気力と体力を取り戻し、さらに婚約者も見つけたと聞いて、父も喜んでいた。きっと歓迎してくれるだろう」
「……本当ですか?」
「ああ、間違いない」
力強く頷くエクトルは、歓迎してくれると確信している様子だった。
ならばリゼットも、エクトルを信じるだけだ。
彼と婚約できるのなら、これほど嬉しいことはない。
けれど、彼には今まで婚約者はいなかったのかと、ふと不安になる。
「今まで婚約していた方は、いらっしゃらなかったのですか?」
エクトルなら、どんな身分だったとしても婚約者候補が山ほどいそうだ。今までいなかったなんて信じられない。
しかも、ユーア帝国ほどの大国の、皇太子だ。
けれど、エクトルは静かに首を振る。
「いなかった。今まで一度も婚約したことはない」
だがエクトルは首を横に振る。
「そろそろ決めなければと思っていた矢先であの事件が起こって、この国に逃げてきた。それから二年、一度も国に帰ったことはなかったからね。まさかこの国で大切な人と出会うとは思わなかったな」
エクトルはそう言って、リゼットを見て目を細める。
その視線には愛情が込められていて、リゼットは頬を押さえて俯いた。
まだ自覚がない。
この恋は、本当に叶ったのだろうか。
「はい。あの。……私でよかったら、よろしくお願いします」
今さらながら頭を下げてそう言うと、エクトルはしあわせそうに笑った。
その笑顔を見て、リゼットの胸が甘く締め付けられる。
ずっと感じることのなかった幸福感が胸を満たした。




