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「そうか」
リゼットの恐怖を理解したのか、エクトルは短くそう答えると、リゼットの手を握った。
婚約を解消してから、よく手を繋いでくれる。
優しい温もりが心を落ちつかせてくれた。
「俺は、いずれユーア帝国に帰らなくてはならない」
リゼットの手を握ったまま、エクトルは静かにそう告げた。
「すべて投げ捨ててもかまわないと思っていた。だが、課せられた使命がある。いつまでも逃げるわけにはいかないと、覚悟を決めた」
力強い言葉に、もう生きる気力さえなくしていたエクトルではないと知る。
彼の瞳は、しっかりと未来を見据えている。
「エクトル様……」
けれど、彼がいなくなってしまう。
彼は皇太子だ。
ユーア帝国に帰ってしまえば、もう会えなくなるだろう。
こうやって手を握ってくれることも、優しく慰めてくれることもなくなる。
作った料理も、食べてもらえない。
そう思うと、胸が切なくて、苦しくなる。
(せめて、この気持ちだけは伝えたい。叶うはずのない恋だったけれど、エクトル様の存在が、私の心の支えだったから)
決意して顔を上げると、エクトルが真剣な顔をして、リゼットを覗き込んでいた。
「エクトル様?」
「勝手なことを言っていると、わかっている。だが俺は、君を愛している。離れることなど考えられない。どうか俺と婚約して、一緒にユーア帝国に来てくれないだろうか」
「え……」
信じられない言葉に、すぐに理解することができなくて、リゼットは呆けたようにエクトルを見上げる。
「エクトル様が、私を?」
「そうだ」
「嘘……」
「嘘などではない」
エクトルはリゼットの手を、祈りを捧げるように自分の額に押し当てる。
触れた体温も、いつもよりも高い気がする。
「あの、エクトル様。私は……」
情熱を感じる瞳で見つめられ、声が震える。
「リゼットと出会わなければ、俺は生きることさえ諦めていた」
それが大袈裟な言葉ではないことは、出会ったばかりの頃の彼の様子を思い出すと、よくわかる。
あの頃のエクトルは、まさに死が間近に迫った父のように見えた。
「私は、お役に立てたのですか?」
思わずそう口にする。
エクトルの変化は感じていた。
笑ってくれるようになった。
勉強を教えてくれた。
リゼットの作ったお菓子やサンドイッチを食べてくれた。
そして、優しい顔をするようになっていた。
それに、自分が少しでもきっかけになれたのだろうか。
「もちろんだ。君と出会って、俺は明日も生きていたいと願うようになった」
今まで見た中で一番優しい顔で、エクトルはそう言ってくれた。
「私も、エクトル様のことが好きです」
言葉を選ぶ前に気持ちが溢れ出て、そう口にしていた。
でもこれが、リゼットの心からの言葉だ。
「オフレ公爵家のことは、きちんと考えなければなりません。だからすぐに、一緒に行くとは言えません」
父が、祖父が大切に守ってきた領地であり、領民だ。
叔父によって信頼関係は崩れ、オフレ公爵家の名は地に落ちてしまったが、それらは叔父に好き勝手をさせてしまった、リゼットのせいでもある。
だから、このまま守るべき領地を放り出して、エクトルと一緒に行くと即答することはできなかった。
「でも、この気持ちだけは本当です。ですから」
エクトルが好きだった。
叶うはずがないと思っていたけれど、彼に焦がれていた。
それだけは伝えたくて、リゼットは必死に訴える。
「ああ、わかっている。返事は待つよ」
エクトルはそう言ってくれた。
リゼットは彼に縋りながら、今までのことを静かに思い出していた。
父が語ってくれた思い出の中の母。
父とふたりだけで過ごした日々。
父の死と、祖父の死。
それから、叔父と義母、マリーゼにすべてを奪われ続けたつらい生活。
思い出すとまだ胸が苦しくなるけれど、最後にはエクトルと出会い、彼を愛して、愛されることができた。
それは、今までの苦難の日すら忘れるほどの幸福を、リゼットにもたらしてくれた。
人生は、良いことばかりではない。
これからはもうつらいことはないなんて、無邪気にそう信じることはできなかった。
それでもエクトルが傍にいてくれる限り、人生に絶望することはないだろう。
でもそれからは、将来について悩む日々が続いた。
(エクトル様のことが好き。一緒にユーア帝国に行きたい。でも、オフレ公爵家をどうしたらいいのかしら……)
守らなくてはならない。
リゼットには、その義務がある。
けれどこの国では、女性が領地を治めることはできず、実際にオフレ公爵家と領地を継ぐのは、リゼットの夫になる人物だ。
でも、どうしてもレオンスのことを思い出してしまい、婚約するのが怖い。
実際に彼との婚約が正式に解消されたと公表してから、いくつも婚約を申し込む手紙が届いているが、爵位目当ての者ばかりだった。
悩むリゼットに、ゼフィールの婚約者で、この国に滞在しているアリアから、会いたいという手紙が届いた。
エクトルの従妹で、いずれこの国の王妃となるアリアからの招待だ。断るわけにはいかないと、リゼットは返事を出し、身支度を整えて、彼女を待った。
「急に会いたいなんて言って、ごめんなさい」
アリアはそう言って、少し申し訳なさそうな顔をしていた。
改めて見ると、本当に美しい女性だ。
銀色の流れるような髪に、つい意識を奪われる。
ソファにゆったりと腰を下ろすしぐさも、優雅で美しい。
マーガレットに紅茶を淹れてもらい、ひと通りの挨拶が終わると、アリアはリゼットを尋ねてきた要件を口にする。
「今日、あなたに会いにきたのは、私からあなたに提案があったからよ。もちろんこれは私の独断で、ゼフィール王太子殿下も、エクトルも関わりがないわ」
そう前置きすると、彼女はやや緊張したように口を閉ざした。
「……ユーア帝国では、女性でも自分で領地を運営するの。私にも、皇帝陛下から与えられた領地があったわ。何年もじっくりと問題に取り組んで、利益が出たら領民に還元して、とても良い領地だったと自負しているの」
ユーア帝国には女性医師もいたように、女性だからといってできないことや、やってはいけないことはないようだ。
きっとアリアも優秀で、素晴らしい領主だったのだろう。
この国では、領地を治めることができるのは男性だけで、たとえリゼットがオフレ公爵家のただひとりの直系でも、次の領主になるのは、リゼットの夫である。
少しだけ、アリアを羨ましく思った。
けれど、彼女の表情はあまり晴れやかではなかった。
「でも私がこの国に嫁ぐことが決まったから、領地は国に返納しなければならない。仕方のないことだと理解しているし、この国の王妃になれるのは、とても名誉なこと。でも、せめて良い人に、引き継いでもらえたらと思っているの」




