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「リゼットのことは、不思議と気にならなかった。それに、いつも先に部屋に入ってカーテンを閉めたり、休憩を提案してくれた」
「……父のことを、見ていましたから」
エクトルの症状は、父とまったく一緒だった。
だから、父にしてあげたかったことを、やっただけだ。
そう告げたのに、エクトルはますます嬉しそうな顔をする。
「何の見返りも求めずに、ただ自分の父と同じ症状だったというだけで、あれほど献身的に面倒を見てもらえるとは思わなかった。リゼットなら傍にいても気にならなくなった。むしろ、いないと寂しく感じるようになっていた」
いつのまにか、また手を握られていた。
「昼に色々と作っていたのも、俺のためだったのだろう?」
「はい。何でもいいから食べることができれば、と。父はもう食事をまったく受け付けなくなっていました。だから、薬も効かなくて。どんどん弱ってしまって……」
父の最期を思い出してしまい、声が震える。
エクトルには、絶対にそんな目に遭ってほしくない。
「リゼットが作ったものでなければ、口にする勇気が持てなかった。最初は、慣れない料理をしているから、手が荒れているのかと思っていた。だが、様子を見ているうちにそれだけではないと気が付いた」
ずっと理由を聞こうと思っていたと、エクトルは言った。
それがわかるくらい、見ていてくれたのだ。
エクトルはリゼットに救われたと言ってくれるが、リゼットだって、エクトルに救われた。
「私を見てくれる人なんて、もういないと思っていました」
孤独に生きてきた日々だった。
リゼットもまた、人が恋しかったのかもしれない。
「リゼット。君は素晴らしい女性だ」
そんなリゼットに、エクトルは子どもに言い聞かせるかのように、ゆっくりと告げる。
「居場所を奪われ、虐げられ、理不尽な目に遭ってきたというのに、他の誰かを慈しむ心を忘れていない。悲劇に浸るのではなく、自分で道を切り開き、誰にも後ろめたくない方法で歩んできた。そんな君の人生を知ったとき、俺は、逃げてきた自分が恥ずかしくなった」
「そんなことは……」
自嘲気味にそう言うエクトルに、リゼットは思わず声を上げてしまう。
エクトルこそ、いつもリゼットに優しかった。
知らない振りをすることだってできたのに、何度もリゼットを救ってくれた。
それがどんなに救いになったことか。
「たしかに、信じた人に裏切られた。信じていたことが、すべて嘘だと知って絶望した。だがリゼットとは違って、俺には味方になってくれた人もいた。ゼフィールも、俺のことを案じてくれている。リゼットと比べると、遥かに恵まれていた。それなのに、生きることを諦めていた。もう人を信じることなどできないと思っていた」
エクトルは、握っていたリゼットの手を、自分の頬に押し当てる。
「リゼット。君は俺などよりも、よほど強い。君ほど素晴らしい女性を、俺は知らない」
紡がれる言葉が。
惜しみない賛辞が。
リゼットの心を満たしていく。
「私だって、諦めていました。オフレ公爵家も、レオンス様も、マリーゼのものになるなら仕方がない。公爵家を出て、修道院にでも入って、静かに暮らそうと思っていました。でも……」
諦めなくて、よかった。
心から、そう思う。
メイド服を着て、他のメイドに交じって働いた。
馬車さえ出してもらえなくて、僅かな荷物だけを持って、歩いて学園に来た。
お金が足りなくなるのが怖くて、町で下働きもした。
リゼットだって、生まれながらの貴族だ。
苦痛も屈辱も、まったく感じなかったといえば嘘になる。
でもそれを乗り越えたからこそ、このしあわせに辿り着けたのかもしれない。
「エクトル様に出会うまで、諦めなくてよかった。頑張ってよかった。今の私にとって、エクトル様は希望です」
エクトルを見上げてそう言うと、肩に腕が回された。
そのまま、腕の中に閉じ込められる。
エクトルの腕は思っていたよりも大きくて、とても温かかった。
レオンスとの婚約が正式に解消され、叔父も後見人から外された。
オフレ公爵家は王家預かりになっていたので、引き続き、王家で管理してくれるようだ。
叔父やマリーゼ、そしてレオンスの罪状は正式に公表され、リゼットはオフレ公爵の唯一の後継者となった。
「卒業まで、君の後見人は私がなろう」
そう言ってくれたのは、王太子のゼフィールだった。
あまりにも恐れ多いとリゼットは慌てたが、オフレ公爵領が王家預かりになっているので、ゼフィールが後見人になった方が、都合が良いのだと言う。
親戚の中には、後見人に名乗りを上げるだけではなく、このまま婚約者に収まろうとする者もいたから、エクトルの助言もあって、ゼフィールの申し出を受けることにした。
夏の長期休暇には、二年半ぶりに公爵家に帰ることができる。
それでも過去の記憶が蘇り、自分の生まれ育った屋敷なのに、少しだけ帰るのが怖い。
そう訴えると、エクトルが一緒に行ってくれることになった。
エクトルも、学園の夏季休暇には図書室が閉まってしまうので、どこで過ごせばいいのか迷っていたそうだ。
ちょうど良かったと言ってくれたので、リゼットも遠慮せずに来てもらうことにした。
叔父が雇っていた使用人は、その逮捕によってすべて解雇され今は王城に勤めるメイドや使用人が管理してくれていた。
それだけではなく、昔の使用人が何人か戻ってきてくれて、屋敷を元通りにしようと頑張ってくれたらしい。
だから、父が生きてきた頃と同じような内装に戻っていて、リゼットは感動して屋敷の中を巡った。亡き母の部屋も、今までマリーゼが使っていた部屋も、すっかり元通りだ。
これだけ違うと、働いていたことも、虐げられていた記憶もあまり蘇らず、ただ父のことを懐かしく思い出すことができた。
数日は屋敷に引きこもって過ごしていたが、気分転換に行きたいところはないかとエクトルに聞かれて、しばし悩む。
叔父やマリーゼのことなど、最近は考えることが多くて疲れていた。それを見て、心配してくれたのだろう。
「王都から少し離れた場所に、昔、よく父と行った海の見える場所があって。その景色を見てみたいです」
小高い丘になっていて、とても眺めの良い場所だった。
そう言うと、エクトルはすぐに承知してくれた。
色々なことがあって疲れたリゼットを、優しく労わってくれるのがとても嬉しい。
少し遠いので、まだ早朝のうちに屋敷から出て、そのまま王都を出る。
ユーア帝国より温暖とはいえ、朝の冷たい空気はエクトルの身体に良くないかと思って心配したが、最近はとても調子が良いらしい。
そう言えば最近、眩暈も頭痛もないようだ。
「リゼットのお陰だ」
馬車の中で、エクトルはそう言ってリゼットの手を握った。
「俺のために、色々なものを作ってくれるから、体力がかなり回復している。だから薬も前よりも効きやすくなっているようだ」
ありがとう、と囁くように言われて、嬉しくて笑みが零れる。
「エクトル様のお役に立つことができて、本当に嬉しいです」
ゼフィールもエクトルの主治医も感謝すると言ってくれたが、エクトルの体調が良くなってきて、一番嬉しいのはきっと自分だと、リゼットは思う。
昔の思い出の場所から海を眺め、今まで生きてきた過程を、ゆっくりと思い出してみる。
これからは、自分の思うように生きていける。
それは、自分の人生は自分で責任を負わなくてはならず、失敗しても責任は全部自分にあるということだ。
でも、失敗した痛みや苦しみもすべて、自分の人生として受け入れる。
リゼットは懐かしい光景を見つめながら、ようやく自覚した自由を噛みしめていた。




