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けれど、先に刑が決まった両親も、もうマリーゼを見限ったレオンスも、誰も助けてくれない。
マリーゼは最後に、助けを求めるようにエクトルを見た。
「わ、わたしはユーア帝国の皇族の方に、危害なんて」
そんなマリーゼの目の前で、エクトルは自分の右腕に触れる。
リゼットを庇って傷を負った場所だ。
「俺は、エクトル・ソルダ・ユーア。ユーア帝国の皇太子だ」
「えっ……」
驚いたのは、マリーゼだけではなかった。
ゼフィールを除いた全員が驚き、視線がエクトルに集まる。
リゼットも、信じられない思いで目の前にいるエクトルを見つめた。
「ユーア帝国の……。皇太子殿下?」
「黙っていて、すまなかった」
エクトルはリゼットにだけ謝罪すると、ゼフィールに視線を向ける。
「では、そのように」
「承知した」
リゼットを襲った際にエクトルを負傷させてしまったマリーゼとクリスは、主犯としてユーア帝国に引き渡される。
地下牢で終身刑と聞いて、マリーゼは暴れて泣き喚いたが、たちまち屈強な騎士たちに取り押さえられた。
「知らなかったのよ、皇太子殿下だったなんて。お姉さまのせいだわ。何もかも、全部!」
マリーゼが憎しみのこもった瞳で、リゼットを睨む。
「お姉さまなんて……」
ふと、リゼットの視界からマリーゼの姿と声が消えた。
エクトルがリゼットの前に立って視界を遮り、マリーゼの呪詛が聞こえないように耳を塞いでくれたのだ。
だからリゼットの目に焼き付いたのは、自分を見下ろして優しく微笑む、エクトルの姿だけだった。
マリーゼとクリスが連れて行かれたあと、叔父とマリーゼの母も連れて行かれた。
ひとり残されたレオンスは、落ち着かない様子で周囲を見渡している。
「あ、兄上。私はただ、騙されていただけで」
「それが、王族にとっては致命的だった。しかも王子であるお前が、婚約の契約書を盗み出す行為に加担した。オフレ公爵令嬢リゼットとの婚約は、正式に解消。レオンスは、引き続き別宅にて謹慎しろと、父からの命令だ」
「嘘だ! 父上がそんなことを言うはずがない!」
レオンスは喚いたが、エクトルは目を細めて、随分と甘い処分だな、と呟いた。
ゼフィールも同意する。
「そうだな。私も謹慎ではなく、もっと重い処分にするべきだと進言したのだが」
呆れたように言うゼフィールだったが、レオンスは嘘だ、と何度も繰り返す。
「嘘だ、父上がそんなことを言うはずがない。きっと兄上が、私を妬んで……」
「妬む? 何故レオンスを?」
ゼフィールは、不思議そうにレオンスを見つめている。それは、本当にレオンスの言っている意味がわからない様子だった。
「何故って、父上が私を可愛がっているから……」
「父が何を『愛玩』しようと、私にはあまり関係がないよ」
弟ではなく、まるで父親が可愛がっているペットを相手にしているような兄の言葉に、レオンスは言葉を失う。
そんなレオンスを、ゼフィールの指示で、騎士たちが連れ出した。
「これでリゼットも、あの家族と婚約者から解放されたな」
エクトルはそう言ってくれたが、リゼットはまだ信じられない思いだった。
「本当に?」
レオンスとの婚約は解消され、叔父と義母。そして、本当は従妹だったマリーゼ。
本当に全員が、リゼットの前からいなくなったのか。
まだ信じられなくて、リゼットは立ち尽くす。
そんなリゼットの手を、エクトルがそっと握ってくれた。
今までは、背や髪にそっと触れるだけだったのに、こうして手を握ってくれたのは、リゼットの婚約がようやく解消されたからか。
でも、こんなふうに誰かに手を握ってもらったことなんて、父が亡くなってから初めてかもしれない。
そのままエクトルはリゼットの手を握ったまま、謁見の間から連れ出した。
ゼフィールは何も言わず、ふたりを見送ってくれる。
どこに行くのかわからない。
でも、彼についていくことに、少しの不安も感じなかった。
やがてエクトルは、ある客間にリゼットを連れて行った。
広い部屋にはメイドが何人もいて、ふたりを丁重に迎え入れてくれる。外見からして、ユーア帝国出身のメイドのようだ。
よく見ればこの部屋を守っているのも、ユーア帝国の騎士だ。
ここは、エクトルが滞在している部屋なのだろう。
(そういえば……)
衝撃的なことが続いたのでつい忘れてしまっていたが、エクトルは、ユーア帝国の皇太子だと言っていた。
高貴な身分だと思っていたが、まさか皇太子だとは思わなかった。
そんな大国の皇太子と、こんなふうに手を繋いでいて良いのだろうか。
「あの……」
そっと手を引くと、エクトルはリゼットを見て、首を傾げる。
「どうした?」
「エクトル様は、ユーア帝国の皇太子殿下だったのですね」
そう尋ねると、彼はリゼットを部屋のソファに導き、座るように促した。
「少し話そうか」
「はい」
おとなしく従い、エクトルの隣に座る。
「黙っていてすまなかった。俺はユーア帝国出身だということは、知っていたと思うが」
「……はい。ゼフィール様にお聞きしました」
リゼットも同意して頷く。
ゼフィールからはっきりと聞いたが、煌めく銀色の髪を持つのは、ユーア帝国出身の者しかいない。
白い肌も深い藍色の瞳も、かの国を思わせるものだ。
「ここに来たのは、たしかに静養の意味もあるが、あの国が嫌になったからだ。以前、話したと思うが、異母兄と義母に裏切られ、ユーア帝国の人間は誰ひとり信じられなくなった」
そう言って、過去を思い出すように目を伏せる。
皇太子だと名乗らなかったのは、まだ自分自身がそれを受け入れることができないからだと説明してくれた。
「本当は、異母兄が皇太子になるはずだった。俺は皇弟として、そんな兄を支えていくのだと信じていた」
けれど異母兄は、エクトルに毒を盛った罪で投獄された。
ふと、マリーゼに課せられた刑のことを思い出す。
たしか皇族を傷つけた者は、地下牢で終身刑だと言っていた。もしかしてエクトルの異母兄と義母も、その地下牢にいるのだろうか。
「身体の不調もあったが、それだけではなくて、生きていること自体が苦痛だった。人と関わるのが煩わしかった。そんなときに、リセットと出会った。あのときは、助けてくれたのに、酷いことを言ってしまったな」
「いえ、そんな」
リゼットは首を振る。
生まれ育った国の人たちさえ信じられなくなったのならば、人と接するのは苦痛でしかなかったはずだ。
「むしろ私の方が勝手に押しかけてしまって……」
いくらゼフィールからの命令でも、見知らぬ者が常に傍にいるなんて、疎ましく思われても仕方がなかった。
そう心配するリゼットに、エクトルは首を振る。




