32
転がってナイフを交わし、まさかリゼットが抵抗すると思っていなかっただろう男たちの隙をついて、必死に立ち上がった。
走ろうとして背中を蹴られ、あまりの痛みに涙が滲む。
倒れる際に積まれていた箱にぶつかって、大きな音を立てた。その箱がさらに路地裏に転がっていた空き瓶にぶつかって、さらに大きな音を立てる。
「リゼット!」
その音が聞こえたのか、どこからかエクトルの声がした。
その声の方向に走ろうとして、髪を引っ張られた。
「……っ」
鋭い痛みに息が止まる。
それでも止まったら殺されてしまうだけだと、必死に前に進もうとした。
「リゼットを離せ!」
エクトルの声が、すぐ近くで聞こえた。
痛みに潤んだままの視線で前を見上げると、護衛騎士がリゼットの髪を掴んでいた男に切りかかる。
「無事か?」
その間に青ざめた顔をしたエクトルが、口と手の拘束を解いてくれる。
「……怖かっ……」
声にならず、ただそれだけを言って震えるリゼットを、エクトルは庇ってくれる。
「気付くのが遅れて、すまなかった」
「……わ、わたしが」
自分がエクトルの傍を離れてしまったのが悪い。そう言おうとしたのに、震えて声が出せない。そんなリゼットを、エクトルは馬車に連れて行こうとした。
だが。
「リゼット様!」
護衛騎士の切羽詰まった声に、リゼットは思わず振り返る。
そこには護衛騎士が捕らえた男とはまた別の男がいて、リゼットに向けてナイフを振り上げていた。
いつの間に、こんな近くまで忍び寄っていたのだろう。
もう避けられるような距離でもないし、悲鳴さえ上げられない。
(ああ……)
自分めがけて振り下ろされるナイフを呆然と見上げていると、リゼットをナイフから遠ざけるように、横から強く押された。
「……っ」
ナイフに切られたのか、黒髪が宙に舞う。
男が振り上げたナイフは、横から突き飛ばされたリゼットの黒髪だけを切り、庇ってくれたエクトルの腕に突き刺さる。
「エクトル様!」
リゼットの悲鳴に、護衛騎士はもう生け捕りするほどの余裕はないと感じたのか、それともひとり捕らえたからそれでいいと思ったのか。リゼットを襲った男を切り捨てて、ふたりに駆け寄ってきた。
「ど、毒が……。あのナイフに……」
すぐに毒を抜く処置をしなければならない。
傷は右腕だけのようだが、むしろナイフに塗られていた毒の方が問題だろう。
護衛騎士が手当をしようとしたが、エクトルが止める。
「あの逃げた従者を追え。必ず捕らえろ」
マリーゼのお気に入りの従者は、エクトルたちが駆けつけたときには、素早く逃げてしまったらしい。彼を捕らえれば、マリーゼも言い逃れができないだろう。
手当はリゼットが引き受けることにした。
本で得た色々な知識を思い出しながら、応急手当をする。
「エクトル様、少し痛むかもしれません」
「……ああ、大丈夫だ」
エクトルの声は冷静だった。
それを聞いて、動揺していたリゼットの心も少し落ち着く。
流れる血を見るのは恐ろしかったが、手早く毒を抜く処置をして、手当をした。
リゼットが連れ込まれた場所は、商店街からかなり離れていた。
それでも悲鳴を聞きつけたのか、何人かが心配そうに様子を見に来てくれた。
地面に転がる暴漢や、負傷した人がいると気が付いたのか、何か手伝うことはないかと声をかけてくれる。
「髪を洗い流した方がいいよ」
そう言われて、毒が塗られていたナイフに切られたことを思い出す。
どうしたらいいか狼狽えていると、町の女性たちが井戸まで連れて行ってくれた。
そこで髪を洗い流す。
衣服も水と血で濡れてしまっていたので、親切な人が着替えを貸してくれた。その間もずっと、女性たちが何人も、リゼットを守るように取り囲んでくれていた。
やがて警備兵も駆けつけたが、ふたりが乗ってきた馬車の御者が対応してくれた。
彼も護衛騎士なのかもしれない。
王太子の命令だからと、生け捕りにした犯人を彼らに引き渡さずに、仲間の到着を待っているようだ。
だが、エクトルは一刻も早くきちんとした治療をしなくてはならない。従者を追って行った護衛騎士の帰還を待たずに、リゼットとエクトルは乗ってきた馬車で王城に戻った。
「……ごめんなさい。私のせいで、こんなことになってしまうなんて。ひとりで、動いてしまったから」
そう言って馬車の中で謝罪するリゼットを、エクトルは優しく慰めてくれた。
「俺なら大丈夫だ。それより、怖かっただろう。髪も、こんなになってしまって」
黒髪の一部は、肩くらいまで短くなってしまっている。エクトルは守れなかったことを悔やんでいるようで、痛ましそうにリゼットの髪を撫でる。
けれど髪などまた伸びるし、切られても痛みを感じない。
それよりも、エクトルの方が心配だった。
今は落ち着いているように見えるが、本当に大丈夫なのだろうか。
リゼットを庇って負った傷も心配だが、少し前まで弱っていたエクトルの身体は、毒に耐えられるかどうかが、一番心配だった。
彼に何かあったらと思うと、殺されそうになったときよりも怖くて仕方がない。
王城に馬車が到着すると、先触れがあったのが、ゼフィールとエクトルの主治医、そしてリゼットのメイドをしてくれていたマーガレットが、青ざめた顔で待っていた。
急いで手当をしようとする医師を遮って、エクトルはゼフィールに話があると告げる。
「手当が先だ」
そう言って険しい顔をするゼフィールに、エクトルは首を振る。
「護衛騎士が、襲撃現場から逃げたマリーゼの従者を追っている。逃げ切れられると厄介だ。すぐに増援を」
「……わかった」
ゼフィールが素早く近衛騎士を召喚し、エクトルが逃げた従者の特徴を彼らに伝える。
「すまない。エクトルを頼む」
そう言うと、国王に経緯を説明するために、部屋を出て行った。
女性医師は本格的に治療をするためにエクトルの元に行き、リゼットはここで治療が終わるのを待っていた。
傍には、メイドのマーガレットが付き添ってくれる。
治療には思っていたよりも長い時間が掛かるようで、その間、リゼットはずっと組んだ両手を握りしめ、落ち着かない気持ちで治療が終わるのを待っていた。
ようやく部屋から出てきた女性医師は、泣き出しそうな顔をしているリゼットに、大丈夫だと微笑む。
「怪我は少し深いけれど、後遺症も残らないでしょう。毒も、あれなら大丈夫。ただ、今夜は少し熱が出るかもしれないわ」
大丈夫と聞いて、心の底から安堵した。
思わず足から力が抜けて、その場に座り込んでしまう。マーガレットや女性医師は部屋で休んだ方がいいと言ってくれたが、エクトルの傍を離れるつもりはなかった。
朝まで付き添うと言うと、ふたりともリゼットの身体を心配してくれる。けれど、どうせ今日は眠れそうにない。疲れたら休むことを約束して、ようやく承知してもらった。
あのとき、せめて誰かに声をかけてから移動していれば。
そう悔やみながらエクトルが休んでいる部屋に入ると、彼はベッドに身体を起こして、リゼットを見つめていた。
「エクトル様、お休みになった方が」
慌てて駆け寄り、その手を握ると、やはり女性医師が言っていたように少し熱い気がする。
「……私のせいで、申し訳ございません」
「守れなくて、すまない」
同時にそんな言葉を言って、互いに驚いて相手を見つめる。
彼の視線は、リゼットの乱れた髪に注がれていた。
「これくらい、何でもありません。髪はまた伸びますから。それよりも、エクトル様の方が」
「俺も大丈夫だ。毒にも多少は慣れている」
「え……」
思ってもいなかった言葉に、エクトルを見上げる。
すると彼は何かを決意するように深呼吸をすると、繋いだ手を引き寄せて、リゼットをベッドの脇に置いてあった椅子に導く。
「少し、話を聞いてほしい。つらい話かもしれないが、真実を明らかにして、罪を償わせるために必要なことだ」
ゆっくりと、子どもに言い聞かせるように告げられた言葉に、リゼットも居住まいを正して、こくりと頷く。




