23
「これも、よろしかったらどうぞ。今朝、私が焼いたものです」
うさぎの形をした焼き菓子を見て、エクトルが笑った。
「これもうさぎか」
「はい。クッキーではありませんが、同じような焼き菓子です」
そう言って、リゼットもひとつ取り、口に運ぶ。焼きたてよりも少し固くなったけれど、その分風味が増して、なかなか美味しい。
エクトルを見ると、彼は少し複雑そうな顔をしていた。
「うさぎの形にすれば、食べると思っているわけではないだろうな?」
無理に勧めてはいけないと思っていたが、確認するようにそう言われて、思わず笑ってしまう。
「いえ、そんなことはないです。でも、たくさんある焼き型の中から、うさぎを選んだのは事実です」
正直に答えると、エクトルは苦笑しながらも、焼き菓子を食べてくれた。
しばらくはふたりで和やかな時間を過ごし、それからリゼットは教科書を取り出して勉強を始める。
休息をとって少し食べたからか、エクトルの調子もよさそうだ。
エクトルは次の本を選びかねているのか、珍しく図書室の中を歩き回っている。その姿をつい、目で追ってしまう。
ずっとひとりで生きてきて、それが当たり前になっていた。
それなのに、誰かとこうして穏やかな時間を過ごすことができるなんて思わなかった。
しかも相手はユーア帝国から来た、ゼフィール王太子殿下の客人である。
(レオンス様に嫌われて、どこにも居場所がなくて。もう、誰かとこんなふうに関わることなんてないと思っていたのに……)
許されるのならば、もう少しだけエクトルの傍にいたい。
父の身代わりではなく、彼自身のためにお菓子だけではなく、もっとたくさんの料理を作ってみたい。
そう願っていることに気が付いて、リゼットは呆然とした。
(私は、エクトル様のことを……)
レオンスとマリーゼから庇ってくれた。
リゼットは被害者だと言ってくれた。
レオンスに突き飛ばされたときや、教室に行きにくいと思っていると伝えたときは、すぐに解決方法を示してくれた。
そんなエクトルのことを、いつの間にか慕っていたようだ。
まだ自分の中に、こんな感情が残っていたなんて思わなかった。
胸に抱いた想いを確かめるように、そっと手を置く。
でもこの想いは、隠さなくてはならない。
彼はおそらく身分の高い人で、リゼットはまだレオンスの婚約者だ。
(でも……)
リゼットはエクトルの後ろ姿を見つめながら、静かに思う。
叔父が企んでいるように、レオンスが異母妹のマリーゼと婚約すれば、リゼットはレオンスから解放される。
オフレ公爵家はマリーゼと叔父のものになってしまうが、今だって似たようなものだ。
婚約解消されたあと、リゼットは貴族として暮らせないかもしれないが、町の人たちは皆親切だし、メイドとして働いたことも、町で仕事をしたこともある。
どうにかなるだろう。
父には申し訳ないと思うが、叔父たちから解放されたいという思いの方が強かった。
「どうした?」
声を掛けられて顔を上げれば、エクトルがリゼットを覗き込んでいた。
不意打ちで、見事に整った美しい顔を目の前で見てしまったリゼットは、声を上げそうになるのを必死で堪えた。
「いえ。少し考えごとを。どうにかして穏便に、レオンス様との婚約を解消できたらいいのに、と思ってしまって」
動揺を隠すように、ついそう言ってしまう。
「この間の学園での暴力事件のことで、ゼフィールが動いている。診断書を作っておいてよかったな。レオンスは数日間の謹慎になるかもしれないが、それだけでは婚約解消には結びつかないだろうな」
だが、むしろ評判が悪くなるほど、国王は可愛がっているレオンスの将来を心配して、オフレ公爵家に婿入りさせたいと強く思うかもしれない。
「君はオフレ公爵家の正当な血筋だ。婚約を解消してしまえば、困るのはレオンスの方だろう。それなのに、どうして君に対してあんな態度をすることができたのか、理解に苦しむ」
「レオンス様は、マリーゼがお気に入りのようですから。マリーゼも父の娘です」
マリーゼの母は貴族ではないが、マリーゼの方は、間違いなくオフレ公爵家の血を引いていると叔父は語っていた。
たしかに、マリーゼは祖父や叔父によく似ている。
「私と婚約を解消してマリーゼと婚約し直せば、レオンス様が公爵家の当主となることに、変わりはないかと」
「たしかにレオンスと彼の母である側妃に頼まれたら、あの国王ならば承知してしまいそうだ。早くゼフィールが即位した方が、この国のためかもしれない」
だがゼフィールの母の正妃は病で亡くなっていて、彼自身も国王に代わって政務を執り行かっているので忙しく、まだ婚約者が決まっていないと、エクトルは語る。
「側妃は王城にこそ住んでいないが、国王の寵愛によって、正妃と同じくらいの権力を持っている。ゼフィールの婚約者が決まっていないのも、裏で手を回している可能性もあるな。側妃に負けないくらいの身分で、ゼフィールを補佐できるほどの女性がいればいいが」
少し語りすぎたと思ったのか、エクトルは視線を逸らして窓の外を見つめた。
ゼフィールもエクトルの体調などを気にして色々と気遣っていたが、エクトルの方も、ゼフィールのことを心配しているようだ。
「一番良いのは、ゼフィールが即位して側妃やレオンスなどを排除し、君とレオンスとの婚約も解消して、もっとふさわしい相手をオフレ公爵家に婿として迎え入れることか。君の異母妹は、公爵家を継ぐにはふさわしくないと思うが」
「……そうですね」
エクトルの言葉に頷いたが、あの叔父とマリーゼ母娘から、オフレ公爵家を取り戻すのは容易ではないと思われる。
しかも叔父は、リゼットの後見人だ。
今までは、レオンスと結婚することさえできれば、叔父やマリーゼたちから公爵家を取り戻すことができると考えて、彼との婚約を大切にしていた。
でも今となっては、そんなことはありえないとわかる。
このままリゼットと結婚したとしても、叔父やマリーゼたちを優先して、リゼットを冷遇するだろう。今の状況よりも悪化する可能性もある。
父と過ごしたしあわせな時間もたしかにあったはずなのに、オフレ公爵家の屋敷を見て思い出すのは、虐げられていた記憶だけだ。
学園寮に入って、ひとりで自由に過ごす時間を知ってしまったリゼットは、もうあの屋敷には戻りたくなかった。
そんなことを考えていると、昼休みになった。
リゼットはエクトルに声をかけて、一緒に休憩室に移動する。
彼が昼食を食べないのはいつものことだが、最近は紅茶を淹れて、休憩してもらうようにしていた。
二人分の紅茶を淹れて、自分の昼食を取り出す。
今日は、残ったパンに野菜を挟んだ、簡単なサンドイッチだ。
「昼食も自分で作っているのか?」
そう尋ねられて、リゼットは焦りながら曖昧に頷いた。
「はい。すっかり料理が好きになってしまって」
「……そうか」
エクトルの視線は、リゼットの手に向けられているようだ。
少し荒れた手が恥ずかしくて、昼食に集中する。
「今度、お菓子以外のものも作りますね。パンをうさぎの形にすることもできるそうですよ」
「いや、そこは普通のパンでいい」
苦笑したエクトルに、リゼットは今度、普通のサンドイッチを作ることを約束した。
昼食後は勉強に集中した。
そろそろ時間かと思って顔を上げると、エクトルの迎えのためにアーチボルドが来たようだ。彼はエクトルの顔色が良いことに気が付いて、ほっとした様子だった。
「エクトル様」
アーチボルドが来たことにも気が付かない様子で考え込んでいるエクトルに、リゼットは声を掛けた。彼ははっとした様子で顔を上げ、アーチボルドを見る。
「時間か」
「はい。お迎えに上がりました」
「わかった。リゼット、また明日会おう」
そう言ったエクトルに、リゼットは頷いて立ち上がる。
エクトルはふと何かを思いついたように立ち止まり、振り返ってリゼットを見た。
「サンドイッチ、楽しみにしている。」
「はい。うさぎではなくともかまいませんか?」
思わずくすりと笑ってしまうと、エクトルも釣られたように笑った。
彼のこんな笑顔を見るのは、初めてかもしれない。
「ああ、もちろんだ」
傍にいたアーチボルドは、そのやりとりを信じられないような顔で見ていた。
驚く彼を置き去りにして、エクトルが図書室を出ていく。アーチボルドは慌てた様子でリゼットに頭を下げて、その後を追って行った。
(サンドイッチ、気合を入れて作らないと)
エクトルに、楽しみにしていると言ってもらえたのだ。絶対においしいものを作らなくてはならない。
そうして、それから数日後。
王太子であるゼフィールの婚約が発表された。
相手は皇族の血を引く、ユーア帝国の公爵令嬢である。




