19
「食事は、きちんとしてください。そうしないと、薬も効きません。……私の父が、そうでしたから」
父とエクトルの病気が同じものとは限らないが、あまりにも症状がよく似ていて、そう言わずにいられなかった。
そう言うと、エクトルは気まずそうに視線を逸らした。
見守っている方も、諦めないことが肝心なのだろう。それにエクトルが本当にリゼットを邪魔に思うなら、ゼフィールを通して遠さげるはずだ。
傍にいられるうちは、エクトルの回復を諦めずに彼のために尽くそうと思う。
診断書をもらってゼフィールの元に戻り、アーチボルドがそれを彼に渡した。ゼフィールはそれを確認すると、頷いた。
「リゼット、あらためて異母弟の暴挙を謝罪する。父がどう判断するかわからないが、謹慎くらいには持ち込むつもりだ。また何かあったら、必ず私に伝えてほしい」
「はい。色々とありがとうございました」
そこでエクトルとは別れ、アーチボルドに学園寮まで送ってもらう。
自分の部屋まで辿り着くと、急に力が抜けた。
(今日はとても長い一日だった……)
制服を着替えると、急に疲れを感じてしまい、そのままベッドに横たわる。
昨日からたくさんのことがあって、さすがに限界だった。
そのまま眠りに落ちてしまい、目が覚めたときにはもう真夜中になっていた。
帰ってすぐに寝てしまったから、お腹が空いている。でも、さすがにこんな時間に食事をするわけにはいかない。
(そうだ。簡単なお菓子でも作ってみようかな?)
借りたままだった本を広げて、レシピを確認する。
クッキーなら、ここにある材料で作れそうだ。夜中にこっそりとクッキーを作る貴族令嬢など、リゼットだけだろう。そう思うと、くすりと笑ってしまう。
好きなことを、自由にすることができる。
これだけは、他の貴族令嬢たちにはない、リゼットだけの特権だ。
最初は不安だった料理も、今ではすっかり趣味となってしまった。
「ええと、クッキーくらいなら、ここにある小さなオーブンでも焼けそうね」
さすがに真夜中に共同キッチンを使うことはできない。
それに初めて作るお菓子で、しかもこんな時間に急に思い立って作るものだから、成功するとは限らない。
でも、こうして無心に料理を作る時間が、とても好きだった。
「うん、何とかなりそう」
でも、クッキーが焼き上がる頃にはすっかり朝になっていた。
初心者なのだから素直に丸い形で作ればよかったのに、本に書かれていた動物の形や花の形が可愛くて、それを作りたくて頑張ってしまった。
でも焼き上がったのは、変な形に歪んだクッキー。
作ったリゼット本人でも、何の形なのかわからないくらいだ。
(これは、たしかうさぎ。これは……花、だったかしら)
それでも食べるのは自分だから、これでいい。
もう朝になってしまったので、朝食には昨日のパンとスープを食べて、学園に行かなくてはならない。
時間が遅くなってしまえば、またマリーゼと遭遇してしまう可能性もある。
リゼットは急いで身支度を整え、徹夜で作ったクッキーは昼食の楽しみにしようと、急いで学園に向かうことにした。
いつもよりも早めに出てきたので、まだ馬車は一台も来ていなかった。今のうちに学園に入り、授業が始まるまで図書室にいることにする。
最近は、私物も休憩室に置いている。
教室に置くと、いつの間にかなくなっていることが多いからだ。
探して見つかればいいが、なくなったままだとまた買わなくてはならず、食費を削ることになってしまう。
(お金は貴重だからね)
去年は夏休みと冬休みに、町の知り合いに頼んで働かせてもらった。
かなり節約してきたのでまだお金の心配はいらなかったが、今さら屋敷に帰る気にもなれず、どうせなら有意義に過ごそうと思ったのだ。
皿洗いや調理補助などの裏方の仕事だったが、今年もまた働かせてもらえるだろうか。
そんなことを考えながら、時間まで本を読んでいようと、休憩室から図書室に戻ったリゼットは、しばらく本に没頭していた。
「えっ? もうこんな時間!」
そろそろ授業が始まるかもしれないと思い、授業に使う道具だけを持って、慌てて図書室を出る。
図書室は学園の一番奥にあり、教室に行くには中庭を通らなくてはならない。
中庭に入ろうとしたリゼットは、そこに思ってもみなかった姿を見つけて、足を止めた。
(マリーゼ?)
異母妹が、こんなところで何をしているのか。
咄嗟に隠れてその視線を辿ったリゼットは、別の護衛騎士に付き添われて歩くエクトルを見つけた。
マリーゼの視線はエクトルに向けられていて、彼女が何をしようとしているのか、リゼットは考えを巡らせる。
(もしかして……)
マリーゼの狙いは、彼なのだろうか。
昨日、エクトルはマリーゼとレオンスから、リゼットを庇ってくれた。
リゼットのものはすべて奪ってやると言っていた、憎しみのこもった声を思い出す。
レオンスのように、今度はエクトルを奪ってやろうと思っているのかもしれない。
マリーゼはこちらを見て、笑った。
ここにリゼットが隠れているとわかっているのだろう。
周囲の人たちも、足を止めて興味深そうにマリーゼを見つめている。
リゼットがレオンスに派手に振られたときは、彼女たちは嬉しそうに、興奮した様子でその顛末をいつまでも語っていた。
また今日も、同じような見世物が見られると期待しているのだろうか。
けれど、エクトルはレオンスとは違う。
しかも、少し離れているのでひとりでいるように見えるが、その後ろには護衛騎士がいる。
何度か見たことのある顔で、エクトルに付き添う護衛騎士の中では、一番真面目な人だ。彼がいるのなら、マリーゼはエクトルに近寄ることもできないに違いない。
そう思っていても、やはり心配で、リゼットはその場から立ち去ることができずにいた。
「あ、あの……」
そんなリゼットの目の前で、マリーゼはエクトルに声を掛ける。
だがエクトルは立ち止まることもなく、そのまま通り過ぎていく。
「え?」
まさか、一瞥もされないとは思わなかったのだろう。
マリーゼは呆然とした様子で立ち尽くし、しばらくして我に返ったように、必死にその後ろ姿を追った。
「待ってください!」
マリーゼは手を伸ばしたが、その手がエクトルに触れることはなかった。
彼の護衛騎士が素早く間に入り、エクトルを庇ったのだ。
マリーゼには一切触れず、ただその行動だけを阻止した動きは、さすがに王太子の護衛騎士だけあって、見事なものだった。
マリーゼは驚いたように目を見開き、怯えたように身を震わせる。
咄嗟にあれだけの演技ができるのだから、マリーゼもなかなか見事なものだ。
エクトルは振り向くことさえせず、護衛騎士もマリーゼに対して一言も言わずに、そのまま立ち去ろうとする。
「マリーゼ?」
そんなとき、立ち尽くすマリーゼに駆け寄ったのは、レオンスだった。
異母妹と申し合わせていたのか、それとも本当に偶然だったのかわからない。
「どうした? 何があった?」
「私……。怖くて」
マリーゼは怯えた顔のまま、レオンスに控えめに寄り添った。
「おい、待て。マリーゼに何をした」
レオンスが怒鳴ると、ようやくエクトルが足を止めた。振り返り、レオンスとマリーゼを見ると、不快そうに顔を背ける。
「対応は任せる」
「承知しました」
エクトルは護衛騎士にそう命じると、そのまま立ち去ってしまった。




