15
「あの」
今しかないと、リゼットは思い切って自分からエクトルに声を掛けた。
王太子にエクトルを陰から見守ってほしいと言われてから、ずっと考えていたことがある。
いくら王太子からの命とはいえ、見ず知らずの者が自分の周辺をうろついていたら不快だろう。こんな再会になってしまったが、今日、彼と会うことができたらきちんと挨拶をしようと思っていたのだ。
「私はオフレ公爵家の長女、リゼットと申します」
きちんと名乗り、頭を下げる。
「今日は助けていただき、ありがとうございました。ゼフィール王太子殿下に申し付けられましたので、これからはときどきお傍に控えさせていただきます。私はお邪魔にならないように、離れたところにいますので……」
ゼフィールはエクトルのことを人嫌いだと言っていた。
拒絶されるかもしれないが、リゼットも王太子からの命令では引き下がれない。
エクトルは黙ってリゼットの言葉を聞いていたが、やがて諦めたように言った。
「……文句はゼフィールに言え、ということか」
「い、いえ。その……」
言葉には気を付けたつもりだが、要はそういうことになってしまう。
慌てるリゼットに、エクトルは少し表情を緩ませた。
「ゼフィールの依頼なら、仕方がないな。君もあんな場所に居合わせてしまっただけなのに、不運なことだ」
皮肉そうに言うが、その瞳はどこか悲しげだった。
自由にならない自分の身体に苛立つよりも、すべてを諦めているように見える。
「エクトルだ。ゼフィールの命令ならば、好きにすればいい」
それだけ言うと、エクトルは疲れたように目を閉じてしまった。
父もよく、光が強すぎると頭痛がすると言っていた。朝の光は、エクトルにとって強すぎたようだ。
先にカーテンを閉めておいてよかったと、ほっとする。
「はい、エクトル様。よろしくお願いします」
拒まれなかったことにほっとしながらも、そう挨拶をする。
あとは、静かに休ませておいた方がいいだろう。
窓の外を見ると、どうやら授業が始まったようだ。
けれど、このままエクトルを置いて行くのは躊躇われる。
あまり調子は良くなさそうなので、誰かが来るまで傍にいた方がいい。それに、まだ資料室にも案内していない。
それに、学園では先ほどのことも話題になっているだろう。エクトルを理由にして逃げていることはわかっているが、できれば今日は、教室に行きたくなかった。
リゼットはエクトルを起こさないように気遣いながら、休憩室の一番端に移動した。
それから乱れてしまった髪を整え、制服の汚れを落とす。
地面が乾いていたので、それほど大事にはなっていなかったようだ。
それから荷物を確かめる。
今日は昼食にサンドイッチを作ってきたが、少し潰れてはいるものの、無事だった。
(貴重な食料が、無駄にならなくてよかった)
潰れていても食べられるが、さすがに土に汚れてしまったものは、衛生面からも食べない方がいいだろう。
もしそれで体調を崩しても、寝ていることしかできないのだから。
それから借りていた菓子作りの本を取り出して、彼が目覚めるまでの間、読むことにする。初心者向けの本だが、色々なレシピが載っていて、見ているだけで楽しい。
いつの間にか、時間を忘れて熱中していた。
作るのはなかなか難しそうだが、簡単なクッキーくらいなら作れないだろうか。
そんなことを考えていると、ふと覗き込まれた。
「……菓子作りの本?」
「!」
驚いて顔を上げると、いつの間に起きたのか、エクトルがリゼットの読んでいた本を覗き込んでいた。
思っていたよりも長い間、本に熱中していたらしい。
美しい銀色の煌めきに、ほんの少しだけ視線を奪われる。
「あんなことがあった直後だというのに、落ち込んでもいないのか」
そう言われて、今朝のことを思い出した。
マリーゼに陥れられ、勘違いをした婚約者のレオンスに突き飛ばされてから、地面に押さえつけられた。
たしかにエクトルの言うように、普通の令嬢ならば、ショックを受けて屋敷に籠もってしまっても仕方がないほどのできごとだった。
けれどリゼットは、マリーゼが自分を憎んでいることも、レオンスが心の底から自分を疎ましく思っていることも知っている。
レオンスに突き飛ばされたのだって、今朝で二回目だ。
だから、それほど衝撃的なことでもなかった。
「初めてでは、ありませんから」
思わずそう答えてしまい、エクトルの顔が険しくなったことに気が付いて、慌てて謝罪する。
「……申し訳ございません」
「なぜ、謝る?」
「私の発言が、良くなかったのかと」
「たしかに不快に思ったが、君に対してではない。被害を受けた側が謝る必要はない」
リゼットが被害者であり、レオンスとマリーゼが間違っている。
マリーゼの本性を知っているのはリゼットだけということもあり、そう言ってくれたのは、エクトルが初めてだった。
エクトルはリゼットのために、怒りを感じてくれたのだ。
リゼットはこのときに、王太子の命令だからではなく、自分の意志で、エクトルのためにできるだけのことはしようと決めた。
「それにしても、この間も今日も、俺の状態がわかっているかのような行動をした。その理由は?」
「……私の父は、五年前に亡くなっています」
懸命に言葉を選びながら、リゼットはエクトルに説明をした。
「父は、あまり身体が丈夫ではなかったのです。眩暈がすると言って、よく倒れていました。そのときのことを、どうしても思い出してしまって……」
余計なことは言わず、ただ聞かれたことの答えだけを口にする。
「ああ、そういうことか」
その説明に、エクトルは納得したように頷いた。
「こちらの事情を知っていたのではなく、ただ親切にしてくれただけだったのか。たしかに君の視線は同情ではなく、気遣いや労りだった」
自分で勝手にしていたことだ。
それを、気遣いや労りと言ってくれた。
「父が亡くなったとき、私はまだ幼く、今ならばもっと父のために色々できたのではないかと、そう考えてしまって」
「そうだったのか。それなのに君の忠告を無視して、あんなことになってしまった。本当に怪我はなかったか?」
「はい。大丈夫でした」
そう答えると、エクトルは安堵したようだ。
彼を庇おうとしてリゼットが下敷きになってしまったこと、ずっと気にしていてくれたのかもしれない。
「この図書室にも、俺がいたせいで中に入れなかったのだろう? ここは学生のための場所だというのに、すまなかった」
「い、いえ。何日も通ってしまったせいで、怪しかったことは自分でもわかっております」
たしかに、険しい顔で見られたときは怖いと思った。
でもレオンスとマリーゼの行為に憤ってくれたり、こうして謝罪をしてくれたりするのだから、エクトルは人が嫌いなだけで、リゼットを嫌っていたわけではなさそうだ。
すまなかったと言われ、リゼットは慌てて立ち上がり、むしろ失礼だったかもしれないと、急いで座り直す。
そんなリゼットを見て、エクトルは笑った。
笑う彼の姿を見て、リゼットは胸が切なく痛むのを感じた。
父にも、こんなふうに笑って欲しかった。
苦痛に顔を顰めていた父の顔をまた思い出してしまい、泣きたくなる。
「君のような人ならば、俺も口うるさい護衛騎士よりも気が楽だ。時間が空いたときで構わないから、傍にいてほしい」
そう言ってもらえて、思い出した父の姿に胸を痛めていたリゼットも、真摯に頷いた。
「はい。なるべくお役に立てるように頑張ります」
もし拒絶されても、王太子の命を果たすためにはエクトルの傍にいなければならなかった。それを本人に了承してもらえたのが嬉しい。
マリーゼに陥れられ、レオンスに突き飛ばされて、最悪の日になるはずだった。
それなのにエクトルに救われ、しかも傍にいることを許してもらえたのだ。
父が亡くなってからずっと、リゼットの身には悪いことしか起こらなかった。
けれど今、少しだけ明るい未来が見えたような気がする。
リゼットはカーテンの隙間から入り込む光に、目を細めた。
今日から何かが変わるかもしれない。




