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それからも何度か、図書室でエクトルを見かけた。
いつも同じ場所で静かに本を読んでいて、時間になると王太子の護衛騎士であるアーチボルドが迎えに来る。
青白い顔をしているときは大抵眩暈がするようで、それを見るとひどく心配になる。いつしか彼が図書室を出るまで、そっと見守ることが多くなった。
この日もリゼットは本を選びながら、いつもの場所にいるエクトルを見つめていた。
今日は、いつもよりアーチボルドの迎えが遅いようだ。いつも図書室にいる司書は、今日は用事があるらしく、ここにはいなかった。
そろそろリゼットも寮に戻って、自分の食事の支度をしなければならない。
(でも……)
今日の彼は、いつにも増して体調が悪そうで、心配だった。
本を開いているものの、文字を追っている様子はない。ずっと同じページを開いたまま、俯いている。
(夕食はパンと昨日の残りものだけにすれば、もう少し……)
せめて迎えの騎士が来るまでは、見守っていたい。
時間を確かめるように窓の外に視線を向けたリゼットは、眩しい光に目を細めた。
もう太陽は西に傾いて、朱色の光が図書室に差し込んでいる。
父も体調を崩してからは、眩しい光も苦手だった。
カーテンを閉めたほうがいいかもしれないと、エクトルの邪魔をしないようにそっと窓に近付く。
彼も、眩しいと思ったのだろう。
おそらくリゼットと同じようにカーテンを閉めようとして立ち上がり、案の定眩暈がしたのか、そのまま崩れ落ちた。
「!」
リゼットは咄嗟に駆け寄り、そっと様子を伺う。
目は固く閉じられていて、意識がないようだ。
青白い顔に、躊躇いがちに触れる。
熱はなく、むしろ少し体温は低いくらいだ。
(やっぱり、お父様と同じ……)
このまま床の上に寝せてはおけない。
けれど眩暈がするときはあまり動かしてはいけないと、父の主治医は言っていた。そもそも長身の彼を、リゼットひとりでは動かせないだろう。
せめてと思い、彼の頭を自分の膝の上に乗せた。
このまま一刻も早く、護衛の騎士が迎えにきてくれるのを待つしかない。
恥ずかしさよりも、心配と不安が勝っていた。
「……ん」
小さく呻くような声が聞こえて、はっとして彼を見つめる。
どうやら目が覚めたようだ。
リゼットはほっとして、小さく息を吐く。驚いてそのまま飛び起きてしまうと、また眩暈が悪化する可能性がある。
リゼットは彼が自分を見て驚く前に、声を掛けることにした。
「ゆっくりと、目を開けてください。まだ眩暈はしますか?」
なるべく柔らかな声で、穏やかに呼びかける。
まだぼんやりとしているからか、彼は素直にリゼットの助言に従ってくれたようだ。深みのある青い瞳が、ゆっくりと開かれる。
「ここは学園の図書室で、私は、ここで本を読んでいた者です」
リゼット説明を聞いた彼の表情が、意識が鮮明になってきたのか、少し険しくなる。
王太子の護衛騎士に送迎されるほどの人だ。意識のない状態で他人に勝手に触れられたら、不快にもなるだろう。
「勝手に触れてしまい、申し訳ございません。ですが、このまま少し安静になさった方が良いかと思われます」
そう進言したが、彼は無理にでも起き上がり、リゼットから離れようとする。
このままでは危ないと、思わず手を差し伸べた。
「放っておいてくれ」
けれどまた眩暈がしたのが、ふらついた。
「危ない!」
リゼットは咄嗟に、自分が下敷きになるような形でエクトルを庇った。
「……っ」
息が止まりそうな衝撃に、声を上げてしまう。
いくら彼が細身でも、人ひとり分の重さと衝撃は想像以上だった。
「何を」
エクトルは驚いてリゼットから離れたが、さすがにそれ以上は動こうとせずに、おとなしくその場に座った。
「すまなかった。怪我はないか」
動揺したようにそう聞かれて、リゼットは驚きながらも頷く。
「はい。大丈夫です」
衝撃はあったが、どこかを痛めたということはなさそうだ。
「それよりも、勝手に触れてしまい、申し訳ございませんでした」
「……助けてくれたのだろう。それなのに忠告を無視して、君に怪我をさせてしまうところだった」
人嫌いで、きっとリゼットのことも疎ましく思っているだろう。そう考えていたのに、エクトルは自分に非があると謝罪してくれた。
「いいえ。私も、焦っていたとはいえ、非礼でした。ご無礼をお許しください」
そう謝罪し合っているところに、ようやくアーチボルドが迎えに来たようだ。
床に座ったまま謝罪し合うふたりを見て、困惑している様子だ。
「エクトル様?」
「いつものだ。彼女に助けてもらった」
その短い言葉で、アーチボルドはエクトルの体調が悪くなり、それをリゼットが介抱したのだと悟ったようだ。
「迎えが遅れてしまい、申し訳ございませんでした」
彼はそう謝罪すると、リゼットに向き直る。
「エクトル様を助けていただいて、ありがとうございます」
「いえ、そんな。それでは、私はこれで」
そう言って、借りた本を持って図書室を出る。
アーチボルドがいるのなら、もう心配はないだろう。
図書室から出ると、この周辺には、今日も誰もいない。
他の生徒はいつもどこにいるのだろう、と少しだけ考える。
マリーゼはきっと、たくさんの友人に囲まれて楽しく過ごしているに違いない。
けれど本を好きなだけ読める今の状況を、リゼットもそれなりに気に入っていた。
思いがけずエクトルと接してしまったが、明日からはまた、こっそりと見守るだけにしよう。
そう思っていた。




