Marinのことは言わない
「音楽かぁ…。まあ、何でも聴くよ。」
私は友里とまったく目を合わせずにそっけなく答えてしまった。じわじわと嫌な予感がする。やけに一秒一秒が長く感じる。人がぱらぱらといる電車内で、会話をしているのは私たち二人だけだった。殆どの人は皆、手元の小さな画面に目を落としている。その様子が余計に時が止まったかのような錯覚を作り出していた。
「えー、なんかさ、好きなアーティストとかいないの?」
やはり、この質問は避けては通れないのだろうか。友里は明らかに興味津々な様子で聞いてくる。私なんかにせっかく興味をもってくれているのに、私は今からこの友里の純粋な気持ちを踏みにじってしまうかもしれないのだ。この状況、私以外の人間であれば何の戸惑いもなく、まるで息をするかのように自分の好きな人物について答えるはずだろう。しかし、私にはできないのだ。今ほど他の人になりたいと思う瞬間は無いだろう。
「えー、まあ、好きな曲はジャンル問わず色々あるけど、歌ってる人とかはそんなに好きにならないんだよねー…。」
私は涼しい顔や声色を心掛けながらも全力で逃げていた。
「マジ?うっそ!この人好きーって、うわーーって感じになったりしないの?」
いわゆる“推し”がいることを包み隠さず、好きな気持ちを周りの誰にでも分かるように堂々と爆発させている友里にとっては、仮の姿ではあるものの好きな人物がいないと言い放つ私が理解できないのだろう。
「うん、マジマジ。特定の誰かを好きとかマジで無いんだよね。」
「えー!じゃあライブとかも行かないの?うち、楽しいことマジで大好きだしライブめっちゃ行くんだけど!」
「うーん、私行かないかなあ。友里ちゃんはハマってる人とか確かいたよね?楽しそうだね。いいなあ。」
友里の発したライブという単語に少し息苦しさを覚えながらも私は平静を装った。私も本当は心の底からあの人に会いたい。そして小さなディスプレイで何度も見つめたその姿を生で存分に目に焼き付けたい。
逃げ回った後悔を噛みしめながら電車に揺られた。友里はついさっき私の放った言葉たちをもう忘れつつあるのだろうか。まるで小学校低学年の子供のように何も考えていなさそうな顔をしていた。友里にとって私との会話というのは、一日を構成するほんの一部でしかないのだろう。しかし、かえってそのほうが救われる。私の情けない会話の運びをいちいち記憶されては困る。
友里は大学で同じ学科ではあるが、彼女は賑やかで、洒落っ気のあるグループに属している。ネットスラングでいうところのいわゆる陽キャである。どこぞの指名手配犯のようにくすんだ暗い色の服を着て、基本的に人間不信で他者との会話が殆どない私とは対極にいる。しかしながら友里はマイペースで人懐っこい性格もあってか、自分の仲間が周りにいないときは私に話しかけてきてくれる。
気が付いたら、私の最寄り駅に着いていた。
「あ、じゃあね。」
私は友里に小さく手を振りながら電車を出た。友里も大きめに手を振ってくれた。
電車のドアが、遅くも早くもないような気味の良い速さで閉まった。数秒した後徐々に加速しながら駅のホームを離れていくのを棒立ちで見送った。
また、やってしまった。また、自分の世界を必死で風呂敷に包んでしまった。そして、まるでその風呂敷の中身がただの空の弁当箱ですよと言わんばかりの態度をとった。いつも通り、それなりに後悔している。いつまでこんな茶番が続くのだろうか。友里は決して私の大切な箱庭を嗤ったり馬鹿にするような発言をしないのは分かっているのだが。
別に、自分の好きを他者に伝えなくても死にはしない。しかしながら、いかにも仲のいい者同士な会話といえば、推しの話は極めて代表的なものなのではなかろうか。だが、私はそれが出来ない。私は普通の会話すらも困難なのだ。逆に、なぜ他の人は皆、平気でそのようなことが出来るのだろうか。好きな人物がいるということは、つまり何十億人もいる人間の中の特定の誰かに対して強い思い入れを持ち、その人物にわざわざ時間を割いているということである。今、誰かに対してそのようなことをしていることなど、一体誰に言えようか。顔から火が出るほど恥ずかしいことなのではないだろうか。
真夜中、私は課題も手を付けずに某動画サイトを開き、彼女を見ていた。Marinの低くて地を這うような特徴的な歌声がイヤホンを通して体内に入っていく。私の求めていたのはこれだ。これのために、生きるという地獄からリタイアせず耐えている。
今日は講義の前、高校時代私の悪口で盛り上がっていた女が話しかけてきた。仲のいい友達と座りたいがために二人掛けの机に一人で座っていた私を追い出した。くすくす笑いながら「ごめんね、悪いんだけど違う席行ってくれる?」と言ったあの女の顔が脳裏をかすめる。周囲から馬鹿にされて誰とも対等になれていない自分が、Marin様を想う権利なんかどこにも無いのではないか。Marinが私のことを見たらどう思うのだろう。こんな奴に好かれて気持ち悪いと思ったりするのだろうか。しかし、すべてのステージを圧倒的なパフォーマンスで彩る彼女を見たらやはり圧倒され、そんなことを考える余地がなくなる。ファンの歓声に丁寧に反応する彼女、曲の合間のトークでメンバーからいじられ、少しばつが悪そうに照れ笑いをする彼女、丁寧に作った2次元キャラのような圧倒的なオーラの彼女、一度聴いたら忘れられないような歌声の彼女、その全てが、私を満たした。全ての体液が強めのエナジードリンクになったような、なんとも説明しにくい熱を持った高揚感に包まれる。今や直視するのも恥ずかしいくらい大きな存在になった。
私がMarinの存在を初めて知ったのは、母親が見ていたドラマの挿入歌を聴いた時だった。「コンクリ―島」というドラマで、母親の隣でたまに見る程度だったが、個人的になかなか面白いストーリーだと思っていた。主人公が突然日本から地図に載っていない見知らぬ島に拉致されるシーンから始まる。そこは嘘が蔓延しすぎた世界のため、公共機関、病院、店、周りの人間の肩書などの多くが偽物である、というやや現実離れしすぎた設定であった。若手の人気俳優が主人公を演じていたが、おそらく好き嫌いが分かれるストーリーだと、頭が良くない私ながらにもそう思った。主人公は最初、嘘ばかりの世界で騙されながら生きなければならないことを嘆いていたが、だんだんと世の中の全ての真実を明らかにすることで生まれる不幸にも気づいていく、という内容であった。
ストーリーが盛り上がりを見せる直前に挿入歌が流れた。R&B調の、重厚感のあるサウンドが心地よく響く。女性の声で4~6人でパートを分配して歌っているように聞こえた。なんとなく、また聞きたいと思えるような中毒性のあるメロディーだったため、自室に戻って「コンクリ―島 歌」で検索した。
Kinky Catsという4人組ガールズグループが候補に出てきた。動画に飛べるリンクに触れると某動画サイトに飛び、まさしく先ほどのドラマ挿入歌のMVが流れた。まじまじと見ていると、全員顔はそこまで可愛くない。目が二重で色白で顔の縦幅が短くて…といった一般的な“可愛い顔”の基準からは少し離れている印象だった。
キーリングパートに差し掛かり、一度聴いたら忘れられないような歌声に出会った。曲に厚みを持たせるその歌声に一瞬で釘付けになった。明るめの茶髪で派手目に髪を巻いている彼女。コメント欄を見るに、彼女はMarinという芸名のようだ。
曲を聴き終わった後も彼女のことが頭から離れない。彼女の歌声が勝手に脳内で再生される。
画面をスクロールすると関連動画が出てきたので思わず続けて見てしまった。突如として芽生えた、彼女をできる限り知りたいという強い意志はもはやコントロールできるものではなかった。動画では、グループのみんなで互いにパートをチェンジして新曲のダンスをするという企画で、みんな間違えながらも和気あいあいと踊っていた。彼女も大きく間違え、笑いを取っていた。クールな印象がありながらも時々見せる無邪気さや少々照れ屋なところも併せ持つ人だということを知った。もっと見ていたくてさらに動画を見続けた。放置した課題など、もはやどうでもいい。自分史を揺るがす出来事のように感じられるほど彼女に憑りつかれていたのだ。これが、彼女との、Marinとの出会いだった。
私の今の密かな、でも重大な楽しみは、彼女たちの早く新曲がリリースされないかと待ちわびることである。あのとき初めて彼女のことを知った瞬間に近い感動を味わいたいのだ。
彼女をみていたら我慢できず思わずニヤニヤと気色悪い笑みがこぼれていて、画面にその顔が反射していた。その瞬間、階段を上ってくる足音が聞こえた。音が遠くて小さくても誰の足音かが分かる。近づいてきて確信に変わった。間違いなく母である。私は幼少のころから親への隠し事が多かったために、自然とそういう耳や察知能力だけは鍛えられている。部屋に近寄ってくるのが分かる。私はとっさにホーム画面に戻し、スマホを置いた。母がノックもせずにドアを開けて晩御飯が出来たことを告げる。
「もうご飯よ。聞こえなかったの?またイヤホンでなんか聞いてたでしょ。イヤホンなんかやめなさいよ。」
「やめらんないよ。お母さんに聞かれるとか最悪すぎる。」
「なんで?隠すことないでしょ!ていうかお勉強してなさいよ。あ、お母さんが来るとまたそうやって嫌そうな顔して!」
私は若干腹の虫が騒ぎ出してきたが、面倒くさくなり下へ降りた。せっかく彼女を見ていたのに興ざめした。母だからこそ、余計に。