01 婚約破棄
青く澄み切った瞳が熱っぽくレイナを見つめている。
「ああ、レイナ……。君はなんて美しいんだ。愛しているよ」
そう甘く囁くのは、レイナの婚約者である王太子のアルベルトだ。アルベルトとレイナは十歳の頃から王命により婚約している。
しかし所詮、親同士が決めた結婚。アルベルトと特別親しくなることもなく、決められた定例お茶会以外で会うこともなかった。アルベルトが十六歳になり学園に入学してからは、いっそう距離ができてしまい、形式的な季節の挨拶が書かれた手紙以外は送られてこない。
そして、その手紙すらアルベルトの直筆ではなかった。
(政略結婚なんてこんなものよね)
王家を支える四大公爵の娘として生まれた時からそれなりの覚悟はできていた。だからこそ、十六歳になりレイナが学園に入学してからのアルベルトの豹変ぶりに驚いた。
学園で再会したアルベルトは、今までの素っ気ない態度が嘘のようにレイナに熱烈なアプローチをしてきた。そして、暇さえあれば二学年下のレイナの教室まで現れて、レイナを中庭に誘うと二人きりで熱心に愛を囁いてくれる。
「レイナ、君の光り輝くプラチナブロンドの髪は、まるで女神だよ。私は、そのエメラルドのように美しい瞳に吸い込まれてしまいそうだ」
(アルベルト様が、こんなにも私のことを愛してくれていたなんて……)
そんなレイナの学園生活は、もちろん楽しいことだけではなかった。気難しい先生になぜか嫌われてしまい、レイナだけ冷たい態度を取られているし、アルベルトの護衛にも嫌われてしまっているようで、いつも不満そうに睨みつけられている。
(でも、政略結婚が当たり前の貴族社会で、こんなにも未来の夫から愛されているなんて、私は幸せね)
レイナは、ずっとそう思っていた。
思っていたのに。
アルベルトが学園を卒業する当日の朝。
卒業パーティに出席する準備のために、公爵家に帰って来ていたレイナは、アルベルトから「卒業パーティでエスコートはできない」と、ひどく簡潔な手紙をアルベルトの護衛経由で受け取った。
護衛は相変わらずレイナを鋭く睨みつけてくる。その視線に気がつかない振りをして、レイナはその場をあとにした。
(アルベルト様は、お忙しいのかしら?)
数日前に学園でアルベルトに会ったときは「卒業パーティには絶対に来て欲しい。お願いだ」と熱心に誘われた。だからてっきり二人でパーティへ行くのかと思っていた。
王太子であるアルベルトは、卒業生であると同時に未来の王として卒業パーティを取り仕切らなければならないのかもしれない。
(仕方がないわね)
アルベルトがエスコートできなくても、在校生代表としてレイナは卒業パーティに出席しないといけない。
婚約者のいる身で他の男性にエスコートを頼むわけにもいかないので、レイナは兄にエスコートを頼んだ。
兄に「アルベルト殿下は?」と聞かれたが、詳しい事情が分からないので「お忙しいようです」としか返せない。
「そうか。当日に連絡が来るなんて、何か想定外の出来事が起こったのかもしれないね。殿下が一緒でないのなら、念のために、ココ様について来てもらいなさい」
「はい」
ココ様とは巨大なオオカミの姿をしている神獣だ。子どもの頃はレイナの護衛を兼ねてずっと一緒にいたが、学園に公爵家の守り神的存在を連れて行くわけにもいかず、ココに会うのは久しぶりだった。
レイナが祈るポーズを取り「ココ様」と囁くと、空気が震えて神々しい光に包まれる。
――レイナ。愛おしい子よ。
「お久しぶりです。ココ様」
毛に覆われたココの大きな顔が近づいてきた。レイナはココのしっとりとした鼻を撫でて、首元に抱きつきフワフワの毛皮に顔をうずめる。
ココがまた光になりレイナの身体の中に入ると、レイナの胸の内が温かくなる。そんなレイナを見て兄はにっこりと微笑んだ。
「レイナのその姿を見るのは久しぶりだね」
神獣を身に宿すと人によって異なる副作用が現れる。兄は顔だけが狼になるし、レイナの場合は、体重の増加だった。
全身鏡に姿を映すとそこには、たくさんの脂肪を蓄えたレイナがいた。
「レイナは子どもの頃は、ずっとプニプニだったものね」
「そうですね、子どもの頃はずっとココ様が私を守ってくださっていたので」
「その姿も可愛いよ」
「ありがとうございます」
レイナもこの姿の自分も嫌いではない。いつでもココを宿せるようにと、レイナの服やドレスは全てサイズ調整ができるように作られていた。
急いで身支度を整え、兄と一緒に卒業パーティ会場へと馬車で向かう。会場は卒業式が終わった学生たちで溢れかえっていた。
レイナが兄と共に会場に入ると、一斉に視線がこちらに向けられザワリと騒めいた。
「何かあったのでしょうか?」
兄は「さぁ?」と首をひねっている。そこにレイナが学園で仲良くしている伯爵令嬢のマーガレットが、可愛いドレス姿でこちらにかけてきた。
「レイナ、大変よ!」
慌てるマーガレットを押しのけるように婚約者のアルベルトが現れた。
「来たか、レイナ」
「アルベルト様?」
なぜか怖い顔をしているアルベルトにレイナは首を少しかしげた。それに、いつもとは違う冷たい声で名前を呼ばれて驚いてしまう。
アルベルトは会場中に響くように声高に言い放った。
「レイナ。今日、この場でお前との婚約を破棄する!」
シンッと静まり返った会場でアルベルトの声だけが響いた。
「いつ見ても醜い姿だ」
いつも向けられていた熱っぽい瞳には、嫌悪が浮かんでいた。
「ど、うして? あれほど、私を愛しているとおっしゃってくださったのに?」
アルベルトは「お前のその妄想癖はいったいなんなんだ!? 『俺が愛している』だの、『今日は素敵な時間だった』などと、ありもしないことを書いた気持ち悪い手紙を何枚も寄越して! 吐き気がする」と言った。
「も、妄想?」
あの愛を囁かれる日々が、全て妄想だったとは思えない。
「この際だからはっきりと言っておく。俺には、学園内に愛する女性がいる。偶然にもお前と同じ『レイナ』という名前だが、それはもちろん、お前ではない!」
アルベルトの言葉で会場がサワサワとざわめきだした。
「おい……学園にレイナ様以外に『レイナ』っていう女生徒はいたか?」
「いや、いないだろう」
「ということは、殿下は……」
レイナの隣で兄がにっこりと微笑んだ。その瞳は少しも笑っていない。
「殿下、お話は伺いました。では、その殿下の想い人の『レイナ』という女性はどこにいらっしゃいますか?」
「残念だが、レイナはまだここには来ていない。だが、必ず来ると約束してくれた。私のレイナはお前の妹のように醜くない! 本当に女神のように美しいのだ!」
うっとりとするアルベルトは、学園で熱心にレイナに愛を語っているときの表情だった。
レイナが「アルベルト様……」と声をかけると、「気安く俺の名を呼ぶな!」と怒鳴られた。
(ああ、この方は、私を愛してくれていたのではないのね)
スゥとレイナの心が冷めていく。アルベルトは、ただレイナの姿形がとても好みだったのだろう。だから、体重が増えただけで、愛する人の区別がつかなくなる。
もう笑うことすらやめた兄は静かにアルベルトに語りかけた。
「殿下、四大公爵家の血筋の者は、その身に神獣を宿せることをご存じですか?」
「なんだ急に? 当たり前ではないか!」
「では、神獣を宿すと様々な副作用が現れることはご存じで?」
「もちろんだ!」
「それを知った上で、私の愛おしい妹に婚約破棄を突きつけると?」
「ああ、そうだ! 証人はこの会場にいる全ての者だ」
「分かりました」
兄はこちらを振り返ると「レイナ、ココ様を呼び出して」と優しく囁いた。
「……はい、お兄様」
レイナが陰鬱な気分で祈りを捧げると、会場の上空に巨大な狼姿のココが現れた。
普段見ることのできない神獣の姿に、会場では、小さな悲鳴や感嘆の声があちらこちらで上がっている。
アルベルトは、そんな神獣を一切見ることなく、レイナを凝視していた。わなわなと唇を震わせながら、小さな声で名前を呼ばれた。
「レ、レイナ?」
「はい、殿下」
レイナが視線を逸らすと、アルベルトはフラフラと近寄ってきた。
「殿下だなんて、いつものように、アルベルトと……」
「先ほど、気安く呼ぶなと命を受けました」
「あ、あれは……違うんだ!」
いつも美しいと思っていたアルベルトの青い瞳が今はひどく濁って見える。アルベルトがレイナに触れようと伸ばした腕を兄が叩き落した。
「殿下、醜い我が妹に触れてはなりません! 妄想癖のある妹です! 殿下は我が妹から手紙が来ると、吐き気をもよおしてしまうのでしょう?」
「ち、ちが……」
子どものように言い訳をしようとするアルベルトを兄が睨みつけた。
「何が違うんですか?」
威圧的な声にアルベルトの顔から血の気が引いていく。
「あ、愛しているんだ! レイナ、本当だ!」
「私も殿下を愛していました」
「そうだろう!?」
笑顔になったアルベルトにレイナは静かにため息をついた。
「でもそれは、気のせいだったようです」
「レイナ! 間違えたんだ! 知らなかったんだ! 許してほしい! 本当に貴女を愛しているんだ!」
「そうですか。殿下のおっしゃる愛と、私の思う愛はどうやら違うようですね」
「同じだ!」
「そうでしょうか? 殿下の愛は、一時の儚い美しさに向けられたもの。もし、今、私が殿下を許したとしても、私が病気やケガをして美しくなくなったとたんに殿下の愛は消えるでしょう。そうでなくても、私が年を取ったら殿下はまた私に『醜い』とおっしゃるのでしょうね」
アルベルトは、濁った瞳に涙を浮かべて縋るようにこちらを見ている。
「私の思う愛は、日々、相手を思い合い、助け合う愛です。一緒に過ごした年月と共に降り積もり、より信頼関係が強くなっていくことです」
レイナは真っすぐに、愛していた人を見つめた。
「殿下、婚約破棄を謹んでお受けいたします」
がっくりと床に両膝を突いたアルベルトは「違うんだ、違うんだ」と、うわ言のように繰り返している。
兄が「殿下は具合が悪いようだ。誰か医務室へ」と言うと、遠慮がちに生徒達がアルベルトに近寄ってきた。
「どうして教えてくれなかった!?」
そう叫ぶアルベルトに生徒達は顔を見合わせた。
「まさか知らないとは……なぁ?」
「は、はい。殿下とレイナ嬢の仲が良いのは、学園内の者は『婚約者だから当たり前』と思っていました。女好きの殿下がようやく落ち着いたと、王様も喜んでいたくらいで!」
『女好き』という言葉に兄の眉がピクリと動いた。
(元からそういう方だったのね)
悲しいがこれで良かったのかもしれないとレイナは思った。ふと天井を見上げるとココがニヤリと笑ったような気がする。
(もしかして、私の副作用が体重の増加なのって……。外見に囚われない人間関係を築けるように?)
レイナの頭の中にココの声が響いた。
――レイナは幼少の頃から美しすぎたからな。美醜のみを重要視する輩の本性を見極めるには良かろう?
クックッとココの笑う声がする。
(そういうことだったのですね。ありがとうございます)
まだ喚いているアルベルトに背を向けてレイナは兄と共に会場を後にした。