この世界での婚約破棄
「雛子、悪いが婚約は破棄させてもらうよ。俺はようやく真実の愛を見つけたんだ!」
銀座の高級フレンチレストランの一席、食前酒をいただいたところで彼に声高らかに宣言されたのを咀嚼するのにたっぷり10秒。
正直、目の前の一回りも年上の婚約者にドン引きした。
30も過ぎて、よくもまぁこんなファンタジーな台詞が出てきたものだ。
「定嗣さん」
「エレナ!こっちへおいで!」
いつの間に入ってきたのだろう、コツコツと小気味いいヒールの音を響かせて1人の女性が入ってきた。
明るい茶色のウエーブがかった髪を華奢な肩に泳がせ、ボディラインのくっきりでる赤いオフショルダーのワンピースを見事に着こなしたモデルのような美女。
「紹介しよう。僕の新しい婚約者のエレナだ」
エレナと呼ばれた女性は明らかに私を見下した目で面白そうにこっちを見ている。
勝ち気で自信に溢れた目だ。
「エレナは元々持っている美しさにあぐらをかかず、自己研鑽に励む素晴らしい心の持ち主でな。その上、他者への気遣いを忘れず、愛情表現も怠らない。こんな素敵な女性、今時なかなかいないよ」
「お義父様…清嗣様はなんと仰っているのですか?」
「私だって大人なのだ。結婚相手くらい自分で決める権利がある」
発言してからしまったと思う。
なんとか一矢報いろうともがく拗ねた子どもみたいだ。
「ねぇ定嗣さん、エレナ、お腹空いちゃったんだけど~」
「あぁ、すまないディナーにしよう」
鼻の下を伸ばした元婚約者がこっちを一瞥する。
2人して完全に邪魔者を見る目だ。
「…失礼します…」
私は財布にあったお札を全部、テーブルに押し付けてその場を離れた。
出口まで、店中の客の視線が痛い。
流行りの小説ならこんなとき、誰もが羨むようなイケメンの王子様が颯爽と現れ、傷心の女性の手をとり、新たな恋がスタートするのだろう。
でも残念、ここは現実世界。
そんなご都合主義なことは起こらないのだ。
外に出たところで、お店に有り金をほぼ全て置いてきたせいでタクシーにも乗れないことに気がついた。
私は深いため息をついて、重たい足で歩き始めた。
~・~・~・~・~
私が定嗣さんの婚約者になったのは8年前、12歳のときだった。
国内でも有数の大きな定嗣さんの神社から枝分かれしたのが、うちの神社というのが縁で決まったことのようだが詳しくは知らない。
中学入学したてで、当時からどこか冷めたところのある私には正直、婚約と言われても全くピンと来なかったが、すぐに大変な8年間が始まった。
有名神社の跡取りに嫁ぐのだからと、礼儀作法、マナー、教養の英才教育が始まった。
学校が終われば様々なジャンルの本を読み、授業では得られない知識や教養をたたきこみ、おおよそ子どもらしくない、茶道・華道・箏曲・着付け・俳句・書道といった習い事を毎日こなした。
自宅で過ごしていても、一挙手一投足が「跡取りの嫁」に相応しいか、常に指導が入り気が休まる暇もない。
高校や大学だって親たちの決めた女子高、女子大に入り、跡取りを補佐するのに役立ちそうなカリキュラムを受講していったし、部活やサークルに入ることも許されなかった。
休み時間まで暗い顔で小難しい本を読み、放課後に遊びもしない子に友達なんて出来るわけもなく、我ながら卑屈で地味で寂しい二十歳になったと思う。
だが、だからこそ今日は柄にもなく少し期待したのだ。
二十歳になり、夜景の綺麗なレストランに招待されて―もしかしたらプロポーズしてもらえるんじゃないかって。
持ってるなかで一番上等でお気に入りのワンピースに袖を通した時思ったのだ、今日まで我慢して頑張ってきた8年間が報われて、こんな私にも素敵な日々が始まるんじゃないかって。
それなのに、“自己研鑽を怠らない、思いやり溢れる、愛情表現の得意”な女性ってなんなのだ。
本当に柄にもない盛大な勘違いだったわけだ。
まぁ定嗣さんだって自分が24歳、遊び盛りの時に決められた婚約者が、中学生だったら面白くはないだろう。
しかも、真実の相手とやらとは正反対の地味で暗くてなんの面白みもない女が相手じゃ愛想も尽かすというものなのかもしれない。
はき慣れないパンプスにジンジン痛む足を引きずりながら、ようやく家に、というより神社の境内までたどり着いた。
スカートが汚れるのも気にせず、石階段に腰を下ろす。
ついに結婚か!と私より期待に胸踊らせて見送った両親になんと説明しよう。
“跡取りに相応しい嫁”になるべく費やしてきた私の人生とはなんだったんだろう。
「…なんだか疲れちゃった。」
血が滲んだ靴は階段に脱ぎ捨て、素足で鳥居をくぐり、100年も前からあると言う古井戸へふらふらと向かう。
子どもの時、習い事がうまくいかなかったり、親に怒られたりしたとき、夜中にこっそり抜け出してはやってきて中を覗きこんで、外では言えないようなストレスを大声で吐き出してきた。
久々に中を覗きこむと真っ暗な闇が広がって底が見えなかった。
「ねぇ、私、今まで自分なりに本当に頑張ってきたの―本当に―…もう疲れちゃった―…。」
涙が一つ、頬を伝って音もなく闇に吸い込まれた。
もうなにもかもどうでもいい。
考えるのも面倒くさい。
私はゆっくりと目を閉じ、井戸の中に静かに落ちていった。
稚拙な文章をお読みいただき、ありがとうございました!