牛乳は無難だけどブラックが好きになりたい
カーテンが風に煽られていた。美術室の油絵具が和らげばとの思いで開けていた。ただでさえ陰気くさい室内だったから、これで幾分か明るくなった気がする。運動部の掛け声が耳に入ってくる。
もう春だ。三年生の出番はない。残された雛たちが先輩達の後を継ごうとしている。
気持ちいい風が、暖かい日差しの空気を運んでくる。
しばらくキャンパスから離れて窓の外を見ていた。
「坂下、始まりからサボりとは感心だなぁ」
タイトスカートがよく似合っていて、絵を描くのに邪魔にならないよう髪を結った先生が、マグカップを持って戸口に立っていた。
「飲み物、お持ちになり、ありがとうございます」
「そういうのは絵に集中してからいうんだな』
僕がマグカップを奪い取ると。
「そっちはブラックだ。お前のは牛乳と砂糖入りのカフェラテだ」
先生にマグカップを入れ替えられる。顔の表面に湯気が吸い付く。心地良い甘さとカフェインが身に染みる。
額に汗を作ったところで、僕は口を開く。
「三年生が引退して、僕一人になったからもう廃部でしょ。四月になっても新入生勧誘しませんからね」
「だったら、絵くらい最後にまともに描け」
「別に描くのそんなに好きじゃないから」
僕はマグカップを両手で包むように握る。
「じゃあ、なんで美術部に入ってしまったんだ、お前。貴重な青春の一ページが」
頭を抱える先生に
「今、まさに刻まれてるけどなあ」
そう呟く。
「待て。お前もしかして」
そこで先生の携帯の着信が鳴って
「ああ、わかった。それなら」
外に出てしまった。そんなもの無視すればいいのに。
僕は残されたマグカップを見る。薄紅の口紅の跡。
僕は唇を重ねるようにしてコーヒーを飲む。
……にっが
それから頭に軽い衝撃が走った。
先生が手刀を構えたまま背後にいた。
「誰が飲め、と」
「喉が渇いていたので」
少し視線が泳いでしまう。
「それで、味はどうだった?」
「一生飲めないね」
「子供には大人の味は早いんだよ。ミルクでも混ぜてろ」
イシシと先生は笑う。それから、しばらく先生と過ごす日々があった。ただ、四月になると先生は転勤になった。絵を描けよと言い残して。
十年経ったあとでも、僕は絵を描き続けている。何かを描き続けている。
色づくキャンパス。
油絵具を入れたパレット。
その横にはタバコと、それに、コーヒー。
先生、もうコーヒーは苦くなくなったよ。