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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

白色の薔薇に血を込めて

作者: あきたけ
掲載日:2020/09/04


いつにも増して、キモチワルイ描写があります。大丈夫な人にとっては「なんだ、この程度か」と思うかも知れませんが、苦手な人は読まない方がいいです。

 


 僕がその奇妙な屋敷の存在を知ったのは、ほんの、つい先ほどのことだ。放課後、教室の隅で怖い話で盛り上がっていた女子生徒たちの声を聞いた。



 どうやらこの町には不気味な家があるらしい。その家がどの程度、不気味なのかは分からなかったが、僕は機会があればぜひ見に行きたいなと思った。



 高校二年生の春の季節のことだった。新学期、クラス替えはあったものの、以前から仲良くしていた仲間たちと離れるということが無くて安心した。




 去年まで使っていた教科書やノート、通信簿とかは全部捨てて、自分の部屋の中はすっきりとさせた。



 物がなくなると気分が晴れやかになった。高校を卒業したら証書も捨てようと思う。


 あれは所持していても意味が無い。それよりも今は、刺激が欲しかった。


 僕は、様々な体験をしてみたいなと思う。その様々な体験というのは、例えば絵を描いたり、例えば楽器を演奏したり、山に登ったりしてみたい。山で楽器を演奏するというのもオシャレで良いかもしれない。



 でも一番は、やはりあの……例の不気味な屋敷を見に行ったりしてみたかった。


 僕は、夕日の差し込む放課後の教室の中で、そんなことを考えていた。窓の外では、やわらかい春の風で桜の花びらが無数に舞っているのが見えた。思い切り窓を開くと、新鮮な空気のかたまりが教室に流れ込んで、僕の髪の毛をふわりと揺らした。


 廊下の方で、騒がしい男子生徒たちの声が聞こえてきた。複数人だ。彼らの笑い声が、僕には雑音に聞こえた。とても品の無い笑い声だと思った。僕は窓を閉め、彼らの姿を確認しに廊下に出た。



 三人か、四人くらいだろう。その中の一人は鈴木くんで、彼の制服は不自然に乱れていた。シャツが裾から出ていて、ボタンが取れて廊下に転がっていた。僕にはその様子が、掴み掛かられて抵抗した後の様子に見えた。数人の男子が、「食えよ。食えよ」と言いながら鈴木くんの口に何かを押し当てているのが見えた。



 どうやら虫の死骸のようだった。


 しかし鈴木くんは特に真剣に怒るというようなことは無く、ヘラヘラとした表情をしながら軽く抵抗しているだけだった。遊んでいるだけなのかもしれない。と僕は思った。


 いつもはそんなことはしないのだが、今日は不気味な屋敷の話を聞いて、気分がとても晴れやかだったから、久しぶりに楽しいことでもしてみるか、という気持ちになった。


 僕は彼らの所まで近寄って、

「面白い遊びをしているみたいだね」


 声をかけると、彼らは非常に不愉快そうだった。あからさまに嫌悪感を抱きながら僕のことをジッと睨み付け、

「なに?」と、一人が不機嫌に言った。


「その虫、誰も食べないなら僕が貰っちゃうよ」彼らがキョトンとしている間に、僕は虫をヒョイと摘み上げると、皆が注目している前で、それを自分の口の中に放り込んだ。


 苦い味が口の中に広がった。

「は? キモッ。何やってんの? お前」


 彼らはドン引きしていた。それまでのヘラヘラとした空気は、既に凍りついていた。

「は? 何してんの?」


 もう一度、男子生徒は嫌悪と困惑の表情で、僕のことを睨み付けた。

「あ、ごめん。もしかして食べたかった?」


 僕はまるで何も知らない子供のように、彼らに問いかけた。

「は? ちげぇよ」


「何が?」


 再び彼らに問い掛けたとき、彼らは僕のことを話の通じない相手だと理解してくれたらしく、眉間にシワを寄せながらも、帰路についていった。


 僕は唾と一緒に、口の中にいる虫をペッと吐き出した。唾液でベトベトになったその蛾の死骸は、廊下に崩れる。濃いオレンジ色の夕日が、死骸を無残にライトアップしていた。


「……ヨトウガの成虫みたい」

 鈴木くんが声を発した。


「種類に詳しいんだね」と僕は言う。

「好きなの?」


「うん。でも広野くんみたいに食べるのは無理だけどね」と彼は笑う。


「いや、思ったよりマズかったよ。あれは食べなくて正解だ」そう言うと、彼は少し残念そうな表情をした。


 もう完全下校の時間だからと、僕たちも帰ることにした。途中まで帰り道は同じだったが、一緒に帰るのは初めてだった。二人で並んで歩いていたけれども、特に話はしなかった。それでも、鈴木くんとの間に生まれる沈黙は、むしろ心地よくあった。



 しばらくすると、彼は僕の髪の毛に手をやった。彼の体格は小柄だったから、僕の頭に手をかざす時は背伸びの体勢になった。


「ねえ。桜の花びらが付いているよ」


 と彼は微笑みながらそういった。彼の小さな手の平に、花びらが一枚乗っていた。


 彼の顔は、びっくりする程儚い表情をしていた。僕は彼に微笑みを返した。


「ありがとう」

 春の夜の風は、清々しい。



 家に帰った。母親がいた。それと、新しいお父さんがいた。僕は「ただいま」と言って、すぐに部屋の中に入った。


 扉の向こうから、ケタタマしい母親の声が聞こえてきた。


「ねえ、アナタ……見てよこの新聞のコラム記事! 四十代独身男性の話よ。バツイチ子持ちと結婚! 子供の養育費が心配! ねえ、見て。読んで。まるでウチの話じゃない? 大丈夫? アナタは大丈夫かしら」


 母親は僕に聞こえるような……わざとらしい大声を張り上げながら、二年前にやってきた新しいお父さんに向かってそう言った。



 僕は耳を塞ぎたくなったが、実際に耳を塞いでしまうと、僕は……至って惨めな、まるで悲劇のヒロインを演じるメンヘラ女子のような姿になってしまうから、そうはなりたくないから、耳は塞がなかった。

「大丈夫だよ! オレは、ちゃんと貯金あるからね」



 新しいお父さんは、そう言った。部屋の扉は締め切っていたけれど、彼らはきっと熱く抱き合っているに違いなかった。


 それから僕は、夕飯を食べて、風呂に入って、歯磨きをして、布団に入った。


 夕飯の時になると両親はいつでもイチャイチャしているから、僕は非常に気分が悪くなった。


 でも、その気分の悪さを表情に表してしまうと、母親が「なんでそんな目をするのよ!」と怒ってくるので、表情に表すことはしなかった。



 僕は、布団の中で、今日聞いた不気味な家の話を思い出していた。学校で噂になるくらいだから、きっと相当ヤバイ姿をした家なのだろう。考えると、胸が躍った。



 その夜、僕は夢を見た。



 暗い水辺で彷徨っている夢だった。光はほとんど無く、真っ黒い川の水に僕は腰まで浸かっている。服がぐっしょりと重く、空は暗く星は一切見えなかった。



 どこかの用水路みたいだ。服に絡みついたヘドロからは悪臭が漂っており、僕は憂鬱な気分になった。



 足を一歩、進める度に身体は重くだるくなった。黒い水に、ゴミが無数に浮かんでいる。ゴミは、僕の行く手を阻むようだった。必死に手を動かし、ヘドロに染まった空き缶やチラシの中を掻き分け、土手まで這い上がろうと試みた。



 あと一歩で、この黒々とした水面から這い上がることが出来ると思ったとき、僕は数メートル先に、女がいることに気が付いてしまった。



 どうやら女は、僕のことを見つめているらしかった。長い髪の毛のせいで、その姿をハッキリと見るのはできなかった。僕はその人が若い女性である、ということ以外、分からなかった。



 オバケかもしれないし、違うかもしれない。良い人かもしれないし、悪い人かもしれない。



 でも、土手に這い上がる為には、その女の近くを通らないと行けないから、僕はためらわずにヘドロを掻き分け、水面を進む。女との距離がだんだんと近づいている。あと少しで、女とほとんど距離がゼロになる。



 黒く重く、憂鬱な水辺の中で……僕はそのとき、耳元で女の囁きを聞いた。

「アナタも物好きな人なのですね」

 思ったより優しくて綺麗な言葉だなと僕は思った。




 朝、目覚めはかなり良かった。


 僕はめったに色の濃い夢など見ないから、昨日のやつは貴重だなと思った。


 それにハッキリと覚えていて、印象も良い。だいぶ心地よい夢が見れたと満足していた。カーテンを開くと、淡い水色の、綺麗な快晴の空が見えた。


 今日は休みの日なのに、珍しく早起きしてしまったな。と僕は思った。時計を見ると、四時五十分だった。まだ両親は寝ている。僕は、彼らを起さないように気をつけながら外に出た。



 僕は二年前、このマンションに引っ越してきた。母親が再婚したから、ある程度、資金ができたからである。九階から眺める景色は非常によく、僕は唯一、そのことだけを感謝していた。



 外は少し肌寒かった。空を見上げると、まだ、月は黄金の輝きを失ってはいなかった。



 カラスが近くで鳴いている。始発電車の通る音が聞こえている。マラソンをしている人のクシャミの声が聞こえた。


 僕は、エレベーターで一階のエントランスまで行くと、暖かい缶コーヒーを買ってから、再び九階に戻ってそれを飲んだ。



 今日は、みんなが噂していたあの、不気味な屋敷に行ってみたいな。と僕は思う。とは言ったものの、場所が分からなかったから、何か手がかりは無いものかと思い、クラスのライングループを開くことにした。



 僕はクラスのみんなと積極的に関わろうとはしないタイプの人間だったから、会話が何十件と溜まってあった。僕はその会話を遡ってみた。



 くだらない、馴れ合いのような会話が続いていたが、その中に、例の不気味な屋敷の話があった。


 場所と家の特徴が分かったので、僕は早速、その家を見物しに行こうと思う。


 なんとなく、ただなんとなく、僕は噂の屋敷に魅力を感じ始めていた。あの家について、僕が知り得た情報と言うのは、それが不気味である、ということ以外は無かったけれど、それでも確かな胸の高揚感があった。



 まだ早い時間だから、今から出掛けて数時間も戻ってこなかったら、両親は心配して怒るだろうと分かっていた。けれども今すぐ出掛けないわけには行かなかった。



 それに、家出をする訳ではないのだ。散歩ついでに家を見物したらすぐに帰れば良いだけの話である。

 僕は、これほど衝動的になったことは今まで無かった。



 僕は、楽しみで楽しみで仕方が無かった。すぐにでも不気味な屋敷に行きたいと思った。


 準備は整っていた。僕は一度、大きな深呼吸をしてから足を踏み出した。


 明け方の散歩は心地よかった。空気が澄んでいて、新鮮な気がした。いつも歩くコンクリートの道や、街路樹や自動販売機や信号機が今日に限って真新しく見えた。


 たった一人……着の身着のままで冒険に出掛けた今日、僕は何よりも自由になれたのだと確信した。

 空を飛ぶ小鳥たちよりも、風に舞う桜の花びらよりも、僕はずっと自由だった。


 時折スマホを確認して、屋敷の場所を調べる。


 そのうちに、例の不気味な家のことを、クラスのみんなは「ホワイトローゼン」と呼んでいることが分かった。どうやら「白い薔薇」という意味のようだ。



 あんまり不気味というくらいだから、僕はてっきりオバケ屋敷のような家をイメージしていたのだが、もしかしたら……不気味さの本質というのはもっと別のところにあるのかも知れないな、と考えを巡らせた。



 屋敷は案外、近くにあった。僕は家を出る前、大冒険になることを予想していたが、ほんの二十分くらいの散歩だった。あまりに早く到着したので拍子抜けした。腕時計を見ると、まだ五時半だった。



「まだ時間があるな」と独り言を呟き、その屋敷の外装を眺めた。



 それは小さい平屋の一戸建ての家だった。外壁は白く、ペンキで塗られたみたいだった。大きな窓が一つだけ着いていて、そこから家の中の様子が覗くことができた。



 家具という家具はなく、壁には薔薇の花のような形をした……けれども薔薇の花ではない、正体不明の何かが一面に飾ってあった。それは壁に直接刺さっているのかもしれない。


 それと、少し別の角度から見ると、内壁の真っ白い壁に、無数のオタマジャクシのような黒い点々が張り付いているのが見えた。



 普通の家と違う点といえば、コレくらいしかなかった。しかし、僕は感動していた。美術館で、とても気に入った絵画を見つけたような感覚だった。



 予想とはだいぶ違ったものだったけれども、良い意味で期待を裏切ってくれた。これはどこかの……有名な美術作家のオブジェかもしれないと僕は思った。



「すげぇ」

 感動の声を漏らしたとき、

「……気に入ってくれましたか?」



 という女性の声が、すぐ耳元で聞こえたので、僕は腰を抜かしそうになった。



 女性の声は、呼気を含んでいて、生暖かい息が僕の首筋に当たったから、驚きはさらに倍増した。

「……あの、いえ」

 戸惑っている僕を見ると、その女性は「すみません。驚かせてしまったみたいで」と申し訳なさそうにしていた。



「ごめんなさい。私、昔から他人との距離感が分からないみたいなんです」



 とその人は言う。彼女はだいたい二十代後半くらいの、非常に綺麗な人だった。白いワンピースを着ていて、重さの感じられない黒髪を腰の辺りまで伸ばしていた。瞳の奥が黒くて、色白で、僕と同じくらいの身長をしていた。



「すみません。この家の内装が、とてもお洒落で……」

 僕が言うと、彼女の表情が微かに明るくなった気がした。


「そう? 私の家なの」


 それから、かなり長い間、沈黙があった。僕はどう話を続けていいのか全然分からなかった。まさか、「この家が不気味だと学校で噂になっているんです」なんて、口が裂けても言えなかったし、かといって、「それじゃ、ごきげんよう」とその場を去るのは、尚更できなかった。



 女性は、僕のことを不思議そうに見つめている。まるで僕が言おうとしていることや、行動しようとしていることを、察して、それに合わせて気を使ってくれようとしているみたいだった。



「すみません。勝手に覗いたりして」

 僕が謝ると、彼女は何かを閃いた様子になった。



「……もし、興味があるのでしたら、どうぞウチに上がって下さい。お茶を出しますので、ゆっくりご覧になると良いでしょう」


 僕は固まった。この場合は、彼女の家にお邪魔してもいいのだろうか。それとも、無難に遠慮しておくべきなのだろうか。考えたが、



 このようなチャンスは滅多に無いから、それに見た感じ悪い人ではなさそうだから、折角ここまで来たのだから、僕は、

「迷惑でなければ、お言葉に甘えて」

 と言葉に出した。




 まさか自分がこの家の中に入れるとは思ってもみなかった。


 部屋の中は、紅茶の匂いがしていた。壁に刺さった薔薇の花のような物体や、無数のオタマジャクシのような物体の正体は、近くで見てもやはり、よく分からなかった。


 ただ、それが何なのか知ってはいけないような気だけがしていた。



 本当に、家具という家具は無かったから、僕はフローリングの床に正座の体勢で座った。


 女性は、ローズヒップティーを出してくれた。良い香がするんだな、と僕は思った。


「ありがとうございます」


 カップを持ち上げたとき、ローズヒップティーの水面が、微かにカタカタと揺れているのを見て、僕は、自分がかなり緊張しているのだとハッとした。


「そんなに緊張なさらないで、どうぞお時間が許す限り、ゆっくりしてくださいね」


 彼女は目を細めながらそう言った。僕と彼女の距離は一メートルにも満たなかった。白い壁に囲まれた世界の中で、お互いが正座をしながら向き合って、僕はローズヒップティーを飲む。



 まだ朝は早い。朝焼けの時間は過ぎ去っていた。でも、どれだけ時間が経過しようと、僕の緊張がほぐれることはなかった。


「私が怖いですか?」


 唐突に彼女は、そんな問いかけをした。見透かされているんだ。と僕は絶望に似た感情を抱いた。彼女は確かに、他人との距離感や空気感は推し量るのが苦手な人なのかも知れない。



 けれども、それを補うために人の感情を読み取る能力は、きっと、誰よりも優れている。


「……怖い、かも知れません。僕は、貴女のような人に出会ったことがない」



 僕は正直に白状した。恥ずかしさと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「……そうでしょうね。よく言われます。私は、本当に、人と関わるのが苦手なようです。不快な思いをさせてしまっていたら、申し訳ありません」


「いえ、そんなことはありません。むしろ家にお邪魔させて頂いて、お茶まで……感謝しています」

 すると彼女は困ったような表情をした。感謝しているのに怖いというのは、一体どういうことなのだろう、と思っているみたいだった。しばらく彼女は困惑の表情を浮べていたが、一瞬、あっ、という顔をした。



「もしかして、アレですか?」


 彼女は、壁に刺さった薔薇のような物体と、無数のオタマジャクシのような物体を指差しながらそう言った。


「外から、眺めた時、まるで美術館の作品みたいだなって思ったんです。それで、つい見とれてしまって。あれは、何ですか?」


「知りたいですか?」


 彼女の声色が、変わった気がした。それは明らかに警告の声だった。


「あれが何なのか、お伝えするすることは可能ですよ。しかし、不快な思いをされないか、私はそれだけが心配です」


 彼女の言い方は独特だった。一対一で話をしているというのに、妙に演技じみている、というか、機械的だった。


「……差し障りの無い範囲で、教えてくれると光栄です」


 どうやら僕も、彼女の口調が移ってしまったようだ。目を閉じて、僕は深呼吸をした。


「本当に、不快になったら申し訳ありません」と、彼女は前置きしてから、話し始めた。


「……アナタは男の人だから、分からないかもしれませんが、あそこの薔薇の花を模したペーパークラフト、やや茶色くなっていますよね? あれ、壁に飾ってあるのは全て、私の、血の付いた生理用のナプキンです。毎月、毎月、私は自分で工作をするのです。できるだけ薔薇の花びらに近いような形にします。それが、私の一ヶ月に一度の楽しみなの」


「えっ」


 僕は、脈拍が上がるのを感じた。やはり見て良いものでは無かったのだと後悔した。足の震えがより一層、強くなった。


「それと、あのオタマジャクシ、あれは煉り消しです。人間の精子の形を模して作りました。私は毎晩、あの子たちを眺めるのです。すると、なんだか性的な気がして……それが私の毎晩の楽しみなの」


 聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。今度は手が、震えていた。


「なんか、すみません」


「どうして謝るのですか? アナタは何も悪いことはしていませんよ?」


 上がりきった胸の動悸が治まらなかった。僕は彼女の表情を見る。すごく綺麗な顔立ちをしていた。



「ここは私のプライベートな世界ですから、世間の目を気にしたり、公共の場所であったりという訳ではないのです。私に失礼という感情は無くして、遠慮なく、聞きたいことがあったら、聞いてくださいね」



「あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」僕は早速、彼女に質問をした。


「アンナ、と呼んでください」

「アンナ……さん」


「なあに?」彼女は無邪気に返事をした。公園を裸足で駆け回る子供のように、初々しく、儚い返事。



「世間というのはいったい、何を基準として異常と、通常の境目を決めているのでしょうか? 僕は昔から、それが分からない」


「ねえ。その前にアナタのお名前を教えて」


「僕は、広野……と言います」


「広野……くん」


「何でしょうか?」



「私にも分からない」そう言って彼女は微笑む。


 彼女のその表情を眺めているうちに、僕は世界の広さを知った気がした。世界の大きさ、そして深さ。閉ざされた空間に広がる情熱のまぶしさ。




「ねえ、広野くん。アナタは大丈夫な人みたいだから、私の話をもう少し聞いて頂けませんか?」と彼女は言う。



「もちろんです」と僕は応えた。すると彼女は非常にゆったりとした声で話し始めた。




「この家は、私が一人で生活している家です。


 私のプライベートな世界だから、私がこの家をどうしようと勝手です。


 でも、町を行き交う人々は私の家の窓を覗き込んで、そうして勝手に脅えます。異常だ。という表情をします。


 人がそれぞれ持っている内面にまで踏み込んで、それが一般と少しでもと違うと、異常者というレッテルを貼るのです。


 私は、その表情を見るのも、人間の理不尽さを眺めるようでとっても不思議な気持ちになります。


 だからカーテンも付けません。いえ、昔はカーテンを付けていた時期があったのですが、人々はカーテンの隙間から、私の内装を見物するんです。


 それで、やっぱり異常だ。という嫌悪感に満ちた視線を送るのです。


 だから、もうカーテンは意味を成しません。それに私にとって、この大きな窓は、私の世界と、外の世界を繋ぐ架け橋のような存在です。


 その架け橋を断ち切ってまで、私は自分の世界を守ろうとは思いません。


 ただ、窓の外から部屋の中を眺められるとき、通行人は、私の部屋のことを、閉ざされた空間だとは思っていません。


 そこに有るだけで、まるで害をなしている物体が有るかのような表情をするのです。


 私は、幾度と無く、部屋の模様替えを行おうかと考えました。


 でも、外の世界に合わせて内壁を変えるというのは、私にはできない。


 私は、私の内側の世界が自分で好きだから。私の、閉ざされた内側の世界というのは、外側の世界に合わせて変えてはいけないような気がするから」




 彼女は、必死で言葉を発していた。考えながら、丁寧に。僕に向かって真剣に訴えかけるみたいだった。



「アンナさん。少し、安心しました。僕も、度々、貴女のようなことを考えます。言っている意味は、分かる気がします。だから、僕の話も、少し聞いてくれますか?」



「もちろんです」とアンナさんは言う。その彼女の表情はすごく楽しそうだった。



「世間というのは……通常というのは……必ずしも素晴らしく模範的なものでは無い気がするんです。


 僕には鈴木くんという友達がいるのですが、彼は昨日、数人の男子生徒から嫌がらせを受けて、虫を食べるように強制されていました。


 でも、鈴木くんは虫を食べたいとは思わなかった。


 だから、代わりに僕が食べたんです。虫を。そうしたら何故か、その数人の男子生徒が、まるで僕を異常者でも見るかのような表情で見てくるんです。


 僕は、僕なりに合理的な方法を取ったつもりです。


 でも、世間というのは、僕の内側の……閉ざされた世界にある合理性というものを、理解してくれないどころか、有害なものとして扱うのです。


 そんなことが、昨日……あったんです」



 彼女は女神のように微笑んでいる。


 僕の手足の震えは、まだ収まっていなかったけれど、彼女はできる限り僕の緊張をほぐそうとして、背中をさすってくれた。彼女の細く優しい指先の感覚を、背中に心地よく感じた。



 気が付くと僕は自分自身の経験、身の上話をほとんど彼女に打ち明けてしまっていた。


 両親のこととか、学校での出来事とか、どうしてこんなことまで話しているのだろう。と疑問に感じるほど、僕は彼女に打ち明けていた。すると何故か手足の震えが消えていた。



「この家は、どうですか?」と、彼女は言う。


「気に入って貰えましたか?」

「はい」と僕は返事をする。


「美しい場所です」僕はハッキリそう伝えた。


 彼女は立ち上がり、窓を開け放った。春の朝の匂いが部屋に舞い込んで、壁に飾ってあったオタマジャクシと薔薇の造花をカタカタと揺らした。


 その時、桜の花びらと一緒にヨトウガの成虫がヒラヒラと入って来たので、僕は捕まえようと、そっと手を伸ばした。




(完)


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