品行方正な天川さんにだって下心があるんです(三十と一夜の短篇第52回)
深い濃紺の流れにきらめく数多のちいさな星くず。
ーーー真っ昼間に星空を眺められるなんてなあ。
幻想的だ、などと現実逃避をしていても、目の前に広がるお星さまは消えちゃくれない。
「先生、夜宵先生。どうなさいました?」
「いや……どうもこうも……天川、お前こそどうした、その頭……」
夏休みが明けたら、天川の頭に夜空が発生していた。
いやいや、俺の頭が暑さのせいでおかしくなったのでなくて。
天川の背中まである真っ直ぐできれいな黒髪が、艶やかさはそのままに濃紺に染められていたのだ。
それだけではない。
朝日を浴びてところどころ青く艶めく髪の毛の至る所に、散らばる星くずのようにラメが振りまかれてきらめいている。
夏休みに入る前の天川は、校則違反などしそうもないおとなしい生徒だったのに……。
ちらりと視線を周囲にやれば、朝のあいさつ運動に参加している生徒会メンバーもほかの教員も、くちを開けて目を丸くし天川を見つめている。
「あー、天川。ちょっと、いっしょに来てくれるか?」
がしがしと髪の毛をかき回してそう言えば、なぜか天川はうれしそうに微笑んだ。
その笑顔は夏休み前の彼女のまま、ひねくれたりしていない。
「はい、よろこんで」
「……じゃあ、悪いけど後は頼みます」
天川のことばと笑顔にがっくり力が抜けたが、こらえてそばにいた高橋先生に声をかけた。このまま正門前に立っていては登校してくる生徒に彼女の姿をさらすことになる。
声をかけた相手の返事も待たずに歩き出せば、遅れて背中に「あ、はい!」という高橋先生のやわらかく澄んだ声が届いた。
けれど今の俺はそれに振り向く余裕もなく、大股で校舎に向かう。
非常に素直についてくる天川の足取りがなぜか弾んでいるような気がして、ますます力が抜けてくる。
頭を抱えたくなるのをこらえて、生徒指導室の扉を開けた。
☆☆☆☆★★☆☆★☆☆★★☆☆★☆☆☆☆★★☆☆★☆☆
「で、だ。なんで急にそんなことになってるんだ」
さほど広くない生徒指導室のなか。ふたりぶんの机と椅子を向かい合わせに並べて、天川を座らせる。
対面に座りながら問えば、天川は頭をすこし傾けてまばたきをした。
さらりと流れる髪の毛が、青く艶めく。散らされた星くずの輝きがきれいだ。きれいだが……。
「似合いませんか?」
「いや、似合わないわけじゃないが……そういう問題じゃないだろう」
つん、と自身の髪を引っ張って見上げる彼女に、俺はいよいよこらえきれなくなって頭を抱えてため息をついた。
「はあぁ……えー、なんだ。ビジュアル系バンドにでもはまったのか? それともなんかのコスプレか。高校生だからな、好きなことを見つけて打ち込むってのは悪くないが、そういうのは学校以外の時間にーーー」
頭を抱えたまま机に向かってお決まりの指導を説いていると、不意にかたん、と椅子が鳴った。
なんだ? と顔をあげた先には、天川の長い髪で切り取られた狭い宇宙。俺の顔を囲うように流れる夜空のまんなかで、立ち上がった天川が俺を見下ろして微笑んだ。
「夜宵先生に見ていただきたかったんです」
「……へっ?」
笑みを浮かべた天川に惚けている場合ではなかった。
やさしげな顔に慈しみの瞳を持って微笑む彼女がおとめ座と呼ばれる神話の星女神、アストレアのようだなどと思っていた俺がなにも返せないうちに、天川が続ける。
「夜宵先生は、生徒たちがおしゃれする理由をどうお考えですか?」
「んん? そりゃ、きれいな物を身に付けたいとか、憧れのひとに近づきたいからとか、異性にアピールしたいとかじゃないのか」
唐突な質問に戸惑いながらも答えれば、天川は濃紺の髪を揺らしてこっくりうなずいた。
そうして黙ってほほえんでいる彼女は、ずいぶん大人っぽく見える。
「そうです。つまり、わたしのこの格好にも下心があるんです」
「したごころ」
「ええ」
俺も教師をやって十年になる。どれだけ見た目が純粋そうに見えても、中身は高校生の男女だ。生物学的に見れば成熟したおとなだ。
いかに女神めいた天川にだって下心のひとつやふたつあって当然だとは思うが。
それを堂々と告げられるとは。
「わたしが学校の指定した通りの格好をすれば、先生はほほえんでくださいました」
俺がぽかんとしているうちに天川は体を起こし、どこか遠くを見ながらひとりで語り出した。
「天川はいつもきちんとした身なりをしているな、と声をかけてくださいました」
胸に手を当て、ほほを染める彼女の顔は穏やかで幸せそうだ。
しかし、その顔が不意に悲しみに染まる。
「けれど、それだけです。学校指定外のきらびやかなベルトを締めた男子生徒にするように、触れてはくれませんでした。化粧を施して着飾る女子生徒にするように、顔を寄せてはくれませんでした」
「ん? お、おう。そりゃ、まあ……」
スタッズだらけのベルトをした生徒がいれば、注意もしただろう。あからさまに化粧してるとわかる生徒には、控えめにするように言っただろう。だって俺は生徒指導担当に任命されてるんだから。
「ですから」
がたん、と机に両手をついた天川が俺をまっすぐに見つめてくる。
そういえば髪の毛の奇抜さに目を奪われて気がついてなかったが、制服のボタンはきちんといちばん上までとめられているし、スカート丈も長すぎず短すぎない。
違反してるのは髪の毛だけなのかーーー。
現実逃避めいたことを考えている俺に顔をずいっと近づけた天川がにこりと笑う。
「夜宵先生がわたしだけを見てくださるように、努力したのです。制服をいじったり化粧をする程度では、その他大勢の生徒と変わりませんから。特別に思ってもらえるように、先生とわたしの共通点である夜を模した頭髪にしたんです」
「あー……なるほど、だから星空みたいな頭なのか」
ぽかん、と見上げたまま「きれいに染めたもんだなあ」とつぶやけば、天川が一層うれしそうにほほを染めて笑みを深めた。
「貯めておいたお小遣いをつぎ込んで、髪の毛ができる限り傷まないように染めてもらいました。時間もお金も、わたしの持てる限りつぎ込みましたから」
「お前なあ……そんなことにつぎ込まないで、やりたいこととか欲しいものとか、ほかにあるだろ」
欲しいもののためにアルバイトをし過ぎて勉強が疎かになる生徒や、小遣いをスマホゲームにつぎ込み過ぎて親からスマホを取り上げられる生徒だっている。
天川だってこんなひとまわり以上も年の離れたおっさん教師に構うより、楽しいことがあるはずだ。
けれど俺がそう言うと、天川はすっと笑顔を消した。
「わたしが欲しいのは夜宵先生です」
天川の澄んだ瞳が俺を射抜く。
「わたしは、夜宵先生がわたしだけを見てくれる時間を得るためにお金だって時間だってつぎ込みます」
夜の闇よりなお濃い天川の瞳に映る俺は、くちをぽかんと開けて間抜けな顔をさらしている。ひとまわり以上も年下の彼女に完全に呑まれていた。
「覚悟しておいてくださいね?」
にっこり、と音が聞こえそうなほど艶やかにほほえんだ天川が、体を起こす。そのときになって、俺は自分がのけぞっていたことに気がついた。
「お、おお……?」
十代の少女相手に返せたのはそれっきり。
あとはただ翻る夜色の髪の毛を見つめて、情けなくも黙って見送るばかりだった。