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母はこの頃まで元気であったが、ある日、やはりソドシックを発症して死んだ。その最期は父のように壮絶なものではなく、脱水で弱りきった体をベッドに横たえて、私たち家族に看取られてのものだった。
母は、枯れ木のようになった手で私の娘の頭を撫でた。
「私は大丈夫よ、あなたはあっちで遊んでらっしゃい」
それを聞いた私の夫は、娘を部屋の外へ連れ出してくれた。部屋には私と母の二人だけだった。
母は……この時も、やはり泣いていた。
「あの子には、私の死んだ姿は見せないでちょうだい。これは、私の最期のわがまま」
「うん、わかった」
私は涙をこらえるために母の手を何度も撫でさすり、気丈なふりをしようとしていた。もっとも、そんな演技は長く一緒に暮らしてきた母には通用しない。
「あなたは、本当に泣き虫ね、それだけが心配だわ」
母の声はすでによだれの中に沈みかけていた。手の甲にはぽつぽつと四角い塩の結晶が浮き始めていて、それが私の手の中でざらざらと音を立てた。
母は、もう涙になる水分すら枯れ果てたようで、目の端に大きな塩の結晶を張り付けていた。
母は最期にひとこと、こう言った。
「ああ、私は、とてもぜいたくな人生を過ごさせてもらったわ、ありがとう」
そうして母は息を引き取った。母の葬儀中、私は幼い娘に棺の中をのぞかせなかった。私の中にある父の姿がいつまでも美しい思い出であるように、娘の記憶にある母も美しいままでいてほしいと願ったからだ。
母が死んで数年後、ついに最後のニンゲンが死んだという話を聞いた。地球上にニンゲンという種族はいなくなり、今、ニンゲンが遺した文明はすべて私たち人工生命体に引き渡された。
それでも、田舎に住む私の生活が大きく変わるようなことはなかった。毎日家事をして、時には夫の畑仕事を手伝い、子供の相手をする。何も欠けることのない静かな日々だ。
ふと洗濯の手を止めて見上げれば、小川の水面すれすれをトンボが滑るように飛んでゆく。空は青く、ここでの暮らしは驚くほど変化がない。
ニンゲンは私たち人工生命体を文明の後継者として作りだした。その思惑通り、地球に残されたニンゲンの『街』は人工生命体によってかつての――パンデミックの前と変わらぬ暮らしを取り戻しつつある。
しかし、そんなことは田舎に住む私には関係のないことだ。
数年前、私は二人目の子供を産んだ。少しやんちゃな男の子だ。私は二人の子供のために漢字練習帳を買い求め、その一段目に見本の文字を毎日書き込む。もう少し文字を覚えたら、父と通ったあの図書館に連れて行こうと思っている。
あの頃の父がしてくれたように、私は静かに本を読むだろう。上の娘はおとなしいから、きっと私の隣に座って、かつて私が胸躍らせた数々の物語や図鑑を喜んで眺めることだろう。しかし下のやんちゃ坊主は、もしかしたら本を読むなんておとなしいことには飽きてしまうかもしれない。そうしたら、川へトンボを取りに行こう。
父が、そして母がかつてしてくれたように、私はこの子たちのそばに寄り添い、静かに暮らしてゆく。
ここには、私をいつくしみ、育ててくれたあの二人の『ニンゲン』の遺産が、きちんと今も遺されている。