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ある日の夜、私は床に入って眠りに落ちるのを待っていた。隣のベッドではすでに父が大きないびきを立てて眠っている。反対のベッドに眠る母は寝つきが悪いのだろうか、先ほどから何度も寝返りを打っていた。
眠りに閉じようとする目を何度もしばたたかせて、私は母に声をかける。
「お母さん」
どうやら彼女は泣いていたようだ。返された声はかすれて震えていた。
「どうしたの?」
私は返すべき言葉を見失って、無言だった。母は涙をぬぐったのだろうか、掛け布団が大きく揺れる。
「どうしたの? 眠れないの?」
眠れずにいるのは母の方だろう。それでも彼女の声は私に対する愛情と気遣いにあふれていた。
「眠れないなら、子守歌でも歌ってあげようか?」
私は暗闇の中で小さくつぶやく。
「ううん、いらない。それより、お母さん……」
母の声が少し沈んだ。
「ごめんね、うるさかった?」
「ううん、うるさくはないけど、眠れないの?」
母はバサッと大きく動いて掛け布団を頭の上まで引き上げる。その下から聞こえたのはしゃくりあげるような嗚咽の声だった。
「お母さん、ねえ、お母さん」
心配になってベッドから降りた私は、母の体を布団の上からさするのだけれど、母の鳴き声はなかなか止まなかった。
それでも、しばらく泣くと少し落ち着いたのだろうか、母が鼻をすすりながら言った。
「ユウコ、あんたはいい子だね」
私は首をかしげて考える。
「いい子じゃないよ、今日もお洗濯の途中でトンボとりに行っちゃったし」
「そうじゃなくて、あんたは優しいいい子だよ」
鼻をすすりあげる音と、続きの言葉。
「こういう夜は、つい、昔のことなんか考えちゃってね。いまは夜っていうのはこんなに暗いけれど、十年位前までは、ちゃんと夜も電気がついて、家ももっといっぱい立っていて、コンビニなんかもあったんだよ」
「コンビニ?」
「夜も空いているお店だよ。そういう明かりがいっぱいあって、夜はもっと明るかったのよ」
「夜なのに、明るいの?」
「そう、夜でも明るいの。ああ、あの光景を見せてあげたかったわねえ」
そんなたわいもない話をしているうちに、母はどうやら落ち着いたようであった。
「ごめんね、寝るの邪魔しちゃったわね」
母の優しい声が聞こえる、それだけで私は安心して、自分のベッドに向かおうとした。その時だ、母がそれを聞いたのは。
「ねえ、ユウコ、私が死んだら、悲しい?」
私は足をとめて考えた。とても一生懸命に考えた。
だが、答えの言葉は見つからなかった。なぜなら、私はこの時はまだ、ニンゲンらしい感情というものを理解していなかったから。ただ思ったのは、この静かで美しい生活が何か大きく変わってしまうなど考えたくもないという、強い気持ちだった。
だから私は、消えそうな声で答えた。
「……わからない」
暗闇の中で母の表情はわからなかったが、なぜか、彼女が少し笑ったような気がした。
「そうね、意地悪な質問だったね、ごめんね」
母は布団から身を起こし、手探りで私の体を抱き寄せてくれた。
「大丈夫、もう寝ましょうね」
その日は母に抱かれて、母の布団で眠った。人間のぬくもりは気持ちよくて、これを失う日が来ることが怖くて……私は母に強くしがみついて眠った。
この記憶は今も私の中に、『母の思い出』として残っている。