第76話 詠唱
返事がなかったので勝手に中に入ると、鍵は掛かっていなく、そこにはきちんと整頓された机が並んでいるばかりで人気はなかった。
正弘はひっそりとした部室の中に入り、周りを見渡して感慨深げに頷いた。
「俺が入ったころは意味不明な呪文を繰り返す先輩もいたよなあ。ああ、懐かしい。
確か・・・我と契約せし堕天使よ、我を異世界へと召喚せよ!だったけなあ・・・。」
呪文を教室に響き渡るように正弘は大きい声を出した。
『ガラガラガラ』
教室の扉の開く音がする。
「あのー、先輩。そこの鞄を取ってもらえないでしょうか?」
(えー、このタイミングで入ってくる!?気まずっ。絶対聞かれたよな、今の。何か唱えてるところって言ったもんな。まあ、何もなかったように鞄だけとって帰ってもらおう。)
意を決して正弘は声を出す。
「あ、えっと、この桃色の鞄かな?」
「あ、それです!ありがとうございました。えっと、さっき言ってた我と契約せしなんとかかんとか・・・ってなんですか?」
「ん?何のこと?ちょっと何言ってるかわからないなあ。用事も終わったようだね、気をつけて。さよなら~。」
「あ、はい、さよなら。」
早口で言葉を出し切り、正弘は後輩を部室から言葉で追い出した。
後輩の足音が聞こえなくなってから正弘は盛大にため息をついた。
「こういうことはあんまりやるものではないな。そう考えると、あの先輩はよく人前でこれをやっていたものだよなあ。あんな素面で凄いと思うなあ。」
苦笑いしながら感嘆していると、下校時間20分前のチャイムが鳴った。
正弘はそろそろ帰ろうか、と思い、帰る支度をして鞄を出入り口の脇に置いた。最後の見回りと思って教室の端から端まで歩いていると、ノート半ページ分の紙が落ちていた。
不審げに思ってその紙を手に取り内容を見てみる。
『リク、無闇に堕天使を呼ばないように。わしが捕えている堕天使がお主の声に反応して地球に入りかけた。こういうことは二度としないでくれ。わしの仕事が増える。ーby 産神』
まさかの忠告だった。
予想してないところからの予想していないメッセージ。
自分の適当に呟いた言葉によって色々な所に作用を及ぼすことに気づいた正弘は、この忠告に今後も従おうと決意した。
今では産神も懐かしいなあ、もう会うこともないかなあ、と思いながら部室を消灯し、鍵をかけた。
正弘は明日も頑張ろう、と気合を入れ直して帰路に着いたのだった。
「あ、まさくん、おかえりー!異世界部の部長になったんだってー?有沙から聞いたよ―!」
家に帰るなり海里の声が飛んでくる。なぜ有沙がこのことを知っているのかは別として、海里の元気のよさに少しため息をつきつつも、彼は頷く。
隣で喋り続ける海里を無視してリビングに入ると父親がこちらを振り返り、とてつもなく嬉しそうな顔で迎え入れた。
一瞬で何かを悟り、身構えた瞬間に父親の声が飛ぶ。
「正弘!お前が異世界部の部長になってくれて俺は嬉しい!自分の息子が自分の作ったクラブの部長になる!こんなに嬉しいことがあるかー!!」
(うわぁ・・・面倒くさいぐらいにテンション高い・・・・)
その日、父親のお祭りテンションに引きずられるようにして石井家の食卓は別の意味で荒れた。