第33話 荒山有沙
「ご、ごめん!」
「いったたた。」
そう言いながら彼女は顔をあげた。薄い茶色の目がこちらをじっと見つめる。一瞬正弘の神経細胞は脳からの司令を止めた。時間が止まったように感じられ、刹那の後、彼はようやく手足を動かし、停滞した時間を動かした。
「大丈夫?」
正弘の声に相手は我に返ったような顔をした。
「ご、ごめんなさい!」
「こちらこそごめん。ろくに後ろも見ずにカバン持ったから。大丈夫?」
「え、ええ。ありがとうございます。」
「あ、有沙ちゃん!どうしたの?」
突然海里が戻ってきてこう、問いかけた。
「海里?!」
「え?まさくん?遅いなあとおもって見に来たらこんなことしてたの?」
少し怒りをにじませた声に正弘は少し慌てた。
「なあ、海里、お前勘違いしてないか?この子とは初対面だぞ?」
「だからだよ。まさくん誰にでも優しいから。」
「それはどうも。」
「ううん。海里ちゃん。違うの。彼のカバンが当たっちゃって。」
「あ、そうなの?まさくん、ちゃんと謝った?」
「まあ、一応。」
「海里ちゃーん。」
「ちょっと待って!今お取り込み中だからーー!」
「早くねーーー!」
「うん!」
「ほら、絢香も待ってるから早く行こ?あ、有沙も来る?私の家。」
「え?」
「いいけど何しに行くの?」
「勉強だよ?」
「え?」
「あ。」
二人が同時に声を上げる。
有沙が考えるように下を向き、数秒の後、彼女は決断した。
「じゃあ行くね。」
「来てくれるの?!」
「え、まじかい。」
結局試験一週間前というのに3人の女子と一人の男子は家で大騒ぎをするのであった。
(なんでこうなるんだか・・・。)
その日、騒ぐ三人の隣で試験範囲の問題集を解きながら彼の心の中は泣いていた。
翌日、前日にできなかった試験範囲をやるため、彼は朝早く学校に行った。誰もいないだろうと思いつつも彼は教室に向かった。
だが彼の予想を裏切り、教室は空いていた。誰かいるのかと覗き込んだ彼の目に見覚えのある顔が映った。
「あ、えっと・・。」
「石井くん、だっけ?昨日はすみませんでした。」
向こうから先に謝られ、しどろもどろになる彼に彼女は慌てたような素振りを見せ、もう一度口を開いた。
「まだ名前言ってなかったですよね。荒山有沙です。よろしくお願いします。」
「あ、石井正弘です。こちらこそよろしく。」
こうして昨日初めて出会った二人は翌日に初めて自己紹介したのだった。
「で、こうして私をおいて二人でいちゃついているってわけね。」
朝の教室、有沙が首をかしげていた問題を正弘が教えていると頬を膨らませた海里が入ってき、文句をまくし立てた。言い訳がましく理由を伝えた彼に放った一言がこれである。
「い、いや、荒山さんがいたのは予想外で本当は宿題をしようと思っただけなんだ!」
「ほんと?」
「本当だ!」
「の割には近かったけど?」
「そんなことはない!」
「知ってる?まさくん、嘘言うと頭が右に傾くんだよ?」
「え?」
慌てて頭を直す。だが景色が少し傾いただけだった。試しに頭を右に振ってみる。するといつも通り、教室のラインは水平になり、きれいに並んでいるように見えて乱れている机の列が目に飛び込んできた。
「え?まさか。」
「ふふっ。騙されたでしょ?」
いたずらを仕掛け、それが見事成功したときの小悪魔のような笑みを浮かべて、彼女は微笑んだ。その顔に少し、鼓動が早くなったのを隠し、正弘はもう一度、おなじことを繰り返した。
本心を悟られぬように。一瞬有沙を海里より可愛いと思った本心を。だがそれは海里の心でくすぶっていた小さな火花を焚き火に変える効果しかなかった。
「おい、正弘、浮気か?」
水面下で火花を散らす二人の間に大きな声が割り込む。
振り返らずに記憶の中からその声が神村であることを導き出す。さきほどから作り続けている笑顔を神村に向けて無事を伝えようとした時、横で海里が声を発した。
「ううん。大丈夫よ。少し事情が混み合っているだけ。もうすぐ終わるわ。」
「お、そうか。おい、正弘。浮気はするなよ。」
事情を悟ってか自然か、彼はカバンを置くと何も告げず、教室の外に出ていった。ご丁寧に扉も閉めて。神村を視界で見送る時、時計をみた彼は少し焦りを感じた。
(今は50分。神村の次に来る加藤が55分だからあと5分はこのままの状況が続くということか。クソッ!最悪のタイミングで来やがった!)
一方の海里も同じようなことを考えていた。
(今50分よね。つまり残り5分は嫉妬している体を装わなければならないということね・・。そろそろ怒るのも疲れたわ・・。)
偶然にして—――いや、戸籍上家族なのだから当たり前かもしれないが—――同じことを考える二人は睨み合って時間がすぎるのを待った。