②章 ~帰還~
排水口の詰まりはなくなり、恐ろしい虫達も、もう出てこなくなった。
中を覗くと、真黒で汚れがこびりついていた。シャワーの水をあてるだけではいつまで経っても汚れは落ちず、黒い水だけが滴り落ちた。
仕方がないので洗剤をスポンジにつけ、それでゴシゴシとしっかり掃除をし、汚れを落として、排水口に蓋をした。
シャワーを浴びる前より全身が汗まみれになったので、再びシャワーを浴びて嫌な汗を流し落とした。
疲れと汚れをとる為のバスルームで、余計疲れて汚れるとは思いもしていなかった。
気持ち悪かった。
特に最後のあの大きなムカデの置土産であるヌメッとした目玉は気味が悪く、シャワーで流そうと試みたが、完全に浴槽に張り付きシャワーの水圧では動かすのは不可能だったので、掃除を終えたスポンジを盾にして目玉を掴み、そのままスポンジごと窓から嵐の外に捨てた。
不思議とさっきまで私が感じていた視線がなくなったような気がした――。
地獄のようなシャワータイムを終えた私は、何度も救ってくれたバスルームの窓をしっかり閉じて、濡れた体をよく拭いてリビングへと向かった。
喉が渇いた……水が飲みたい……。
すぐさまリビングに置いてある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干した。
パンツ一丁で水を飲み喉が潤い、落ち着いた。さて、もう部屋着の甚平に着替えて今日はもう寝よう……そう思いリビングから洋室へと移ろうとした時――私は洋室へと入るドアを見て目を疑った。
リビングの部屋の電気はつけていなかったが、暗闇の中、半開きの洋室のドアの周りに水溜りができていた。
ドーン! と、雷の音がした。そしてすぐに辺りを雷が照らした。
雷の光から私は全てを察した。水は洋室から流れている……。と、言うことは……。
「ああ、マジかよ……」
洋室にあるベランダの窓が開いている。
確かに閉めたはずの窓が……開いている。閉め忘れたのだろうか? それともあまりの嵐で窓が壊れてしまったのだろうか……。
ここは二階……下に水漏れしてしまったら大変である! 急いで今あるだけのバスタオルを洗面所からもって私は洋室へと入って行った。早く! 窓を閉めなければ!
ドアを開け部屋に入ってすぐ、私は何か柔らかいものに足があたりそのまま、床が濡れていたのもあり、躓いて転んだ。
「っ……イテテ……なんだ……あっ……あはっ!」
転んだ痛みや、体が水溜りで濡れてびしょびしょになっている事など忘れて私は――ドアの入口に倒れている彼女に駆け寄った。
本来ならここにいる筈のない……倒れる君野あゆみを抱きしめに行った。
「あゆみ……あゆみ! 大丈夫か! おい!」
私はあゆみを抱きしめ、そう言ったが、あゆみに返事はなかった。
だが、呼吸はしているし、心拍音も抱きしめるあゆみから聞こえ、安心した。
あゆみはぐったりとしていて、唇が青かった。すぐさまバスタオルで彼女の身体を拭き、近くに敷いてあった布団に寝かした……。
私は部屋中を見渡し、状況を整理した――部屋の水溜りは、ベランダの窓からドアに向かって伸びている。嵐の雨が部屋に入ってきたというよりは……海があゆみをこの家に向かって吐き出して、そのおつりで線を描くように水溜りはできていた。
なぜ窓が開いていたのかは分からないが、玄関とリビングには濡れている形跡はなく、あゆみは濡れていたのであゆみはベランダから入ってきたということで間違いない。やはり、海があゆみをこの部屋に向かって放り込んだとしか考えられなかった……。それにこの『裏野ハイツ』はそういう場所だ――。
嵐の海にもっていかれた人間が戻ると噂されているハイツ。
彼女がこのハイツに住めば海から戻ってくると私は賭けたから、ここへ来たのだ。
もう、この際……戻って来れた理由など、どうでもいい! あゆみが戻ってきた。
私はその事実だけで――十分だった。最早それが、オカルトだろうとスピリチュアルなモノであろうと、なんでもいい。
あゆみが目を覚ますまで、ベランダの窓をきっちり閉めて、全ての部屋の電気をつけて明るくし、部屋中からタオルと服を集めて水溜りの掃除をした。案外被害範囲は大きくなく、下の部屋に水漏れする前に多分片づけることに成功した。
部屋を綺麗にし、使ったものを全て洗濯機に投げた。そして、私は布団で眠るあゆみの傍へと寄り添った。あゆみの頭を優しく撫でると――あゆみの目がゆっくりと開いた。
「あゆみ!?」
「望……あ、私……生きているの?」
「ああ、生きているよ! 帰ってきたんだ!」
私はあゆみが生きていることに歓喜し、その場で泣き崩れた。
「泣かないで、望」
あゆみは優しく微笑みながら私にそう言った。
「うん……。動けるかあゆみ?」
私があゆみにそう聞くと、
「なんか、へんな感じがして動けない……脚と腕の感覚がなくて……」
と、あゆみは答えた――。
無理もない、今まで行方不明だったのだから体力も落ちているだろう。そう思った私は、服をまずは着せてあげなければと思い、残っていた服の内、部屋着の甚平を選択し、あゆみに着せようとした。
あゆみを包んでいた布団を剥がすと――そこにあったあゆみの身体から……腕と脚が溶けて……水になっていて、布団に染み込んでいた……。
あゆみから四肢が溶けて消えていて、あゆみはダルマになっていた。
私はその光景を見て胸が張り裂け、私の中の……何かが壊れた。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!! あゆみいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
****
あゆみは自分の身体を確認すると――白目になり、気を失い、気絶した……。
私はあゆみに布団をかけて、急いで服を着て部屋を飛び出し嵐の外へと飛び出した。
向かった先は――201号室だ。今日昼間に会った老婆の住む部屋へと向かった。
あの老婆は私に「何でも私に聞きなさい」と、去り際に言った――。
私に起こっている今の現象をあの老婆なら何か知っていると思い、藁にもすがる思いであの老婆を頼りに行くことにした。
今、あゆみを助けなければここへ引っ越してきた意味がない。あゆみには時間がない気がした……早く、早く……助けないと!?
201号室に辿り着き、インターホンを鳴らしドアを叩こうとした瞬間――ドアが開き、中から老婆と太った中年の男性が黒のレインコートに身を包み出てきた。
「おや? 運の良い人だ……引っ越した初日でもう嵐とは……あんたの求める人は帰ってきたのかい?」
ドアから出てきた老婆がずぶ濡れになって、立ち尽くす私を見るなりそう言った。
「え……あ、はい! 帰ってきました! で、でも……」
私が慌てた様子でそう返すと、老婆は階段を使い一階へと何も言わず私に手招きをして降りて行った。
「だいたい、お前に起きている事は分かる。ここの住人みんな同じだからな。溶け始めているんだろ? まぁ、話は後だ……ついてこい、海に行くぞ! これを持て!」
老婆の後に付いていた男が私を見てそう言い、ウォータータンクを二つ私に渡した。そして男もウォータータンクを二つ持ち、階段を降りて行った。
何が何だか分からなかったが、男はあゆみに起こっている怪奇現象を知っている口ぶりだったので、私はそれにすがるしかなく、黙って頷き、老婆と男の後を付いていくことにした。
なぜだろう……大嵐の筈なのに、さほど歩きにくくない。外は暗闇で何も見えない筈なのによく周りの景色が見える。
それはまるで嵐が私達にはその猛威を向けず、歓迎しているような気がした――。
階段を降り下に行くと、老婆と男の他に4人の姿があった。みんな『裏野ハイツ』の住人のようだ。
50代ぐらいのニンマリ笑い顔の男。
40代ぐらいの冴えない顔をした男。
30代ぐらいの男女、恐らく夫婦。
私達はこの七人で嵐の日の海へと向かった――。私はみんなに質問をしようとしたが、何を誰に聞いても「あとで」と言われたので、諦めて黙って付いていくことにした。
ウォータータンクを抱え、海へと繰り出すこの怪しい集団の中へ溶け込むように入った。
大嵐にも関わらず、海も私達の邪魔をしなかった。海岸に着き、私は老婆に「海水をウォータータンクに汲みなさい」と、言われた。大しけの海でそんなことできる筈がないと思ったが、僕以外の住民はどんどん海から海水を汲んでいた。
私も覚悟を決め、海水を汲もうとした――すると、大しけだった海が私の周りだけ穏やかになり、海水からウォータータンクに入ってくるありさまだった。
タンク一杯に海水を入れて私達は海を後にし、裏野ハイツへと戻った。
一階に住む住人は部屋の中へと戻っていった。私は詳しいことは老婆と、さきほど老婆の部屋から出てきた中年の男に聞くことになった。
「あ、えーっと……君、名前は?」
帰り道、中年の男は私にようやく声を掛けてくれた。
「私は、御神望と申します。えっと、あなたは?」
私がそう答えて、今度は私が男の事を聞くと、男は「御神さんか、よろしく。私の事は202号室の人間と、だけ覚えておいてくれ、君の隣の部屋だ」と男は自分の名前は答えずに誤魔化した。
あゆみの事が心配で様子を見に行きたかったが、老婆の部屋で大事な事を教えてやると言われたので、行くことにした。少しでも情報が欲しい……あゆみを救う為。
202号室の男が「必要なものがあるから一度201号室に行く前に私の家に取りに行くから、一緒に寄ってくれ」と、私に言った。男に連れられ、私は男の家に行った。
「 御神君は犬を持ってないよね? 買って行きなさい、売ってあげよう」
男は僕にそう言った。
「え? 犬ですか……」
いきなりの男の訳のわからない提案に私は少々戸惑った。
男は部屋に入ると電気をつけた。
すると、男の部屋には何十匹もの犬がいた――とても静かな犬達だった。
****
犬を買った。
お金を隣の自分の家に取りに行き、今家にあった有り金を全て渡し、十匹の犬を売ってもらった。
お金を取りに戻った時と、犬を家に置いてきた際、あゆみの様子を確認した。
まだ、あゆみは気絶していた。布団をどかしてみると――さっきまであった筈のあゆみの下半身は溶けて水になっていた。
私は早くどうにかしなければと、老婆の家に行き、私が犬を隠岐に行っている間に先に老婆の家に行っていた男と、老婆に今日起きたあゆみの帰還と今の状態を話した。
「早く、ストームミックスジュースを作ってその彼女に飲ませなければ、彼女は溶けて永遠に消えちまう。さっそく作ろう」
老婆はそう言いうと、バスルームに向かいさっき汲んだ海水と、男が連れてきた犬を持ち込んだ。
「おい、御神さん。これからする事に驚くなよ、大事なものを消さないために……お前は今日から人間を辞めて悪魔にならなければいけない……」
男は私にそう言うと、浴槽に海水をドボドボと入れた。
海水の色は驚くほど真黒だった。
そして、男は……なんと、海水の入っている浴槽に十匹の犬を放りこんだ。
静かな犬達は黙って海水の中に沈んだ――。
「な、なにをしているんだ! お前ら! 正気か? こんなことしたら……犬が死んじゃうじゃないか! お前ら……残酷だ、人間じゃない……うぇぇ! ぐげええぇぇ……」
私が思わず老婆と男のその行動を見て声を荒げると……浴槽からひどい悪臭がした。私はひどい悪臭に嘔吐してしまった。
浴槽に入った筈の犬達が溶け、浴槽は強烈な臭いを放っていた。
「うわあああああ」
私は浴槽を見て叫び、その場で尻もちをついた。
「ここの住人は嵐の日の海水を使ってこの『ストームミックスジュース』を作っている。小動物の骨までじっくり溶かして、これを作るのだ……。我々にはこのジュースが必要なのだ! お前に人間を辞めてまで、彼女を救いたい覚悟があるのなら作り方を教えてやる」
そう老婆は、倒れる私に行った――とても悲しい目をしていた。
それを見て、自分の心の声が聞こえた――あゆみを助けるのにもう、手段を迷っている時間はない。
私は起き上がり、浴槽を覗いた……。もう悪臭はなぜか、なくなっていた。
犬達の肉と骨は完全にこの真黒な海水に呑みこまれていた……。だけど、目玉だけは溶けずに残り、私達をずっと見つめている……――気がした。